第14話 アカシックレコード――七つの大罪
地獄から戻ったロゼエルは、アカシックレコードを開いた。
部屋の壁が遠ざかる。無数の記録が光となり、彼の前へ広がった。
国が生まれ、滅びる。城壁が築かれ、その石を使って別の街が建つ。王の名が変わる。神に捧げる祈りの言葉も変わる。
その下で、人間は同じことを繰り返していた。
飢えた者が門の外に集まり、内側では食べ残したものが捨てられる。土地を奪った者が、その土地に生まれた者を追い出す。
信仰の異なる者が殺される。殺した者は、神のためだと言う。
その言葉に人々が集まり、旗が立った。旗の色が変わっても、踏みつけられる者の顔はよく似ていた。
ロゼエルは光を見ていた。
人間の業は知っている。天界の戦いを司っていた頃から見てきた。人間として、その中を生きたこともある。
悪魔が欲や怒りを煽ることはあった。だが、すべてを悪魔が与えたわけではない。
◇
自分が世界を書き換えた日の記録へ触れた。
悪魔が人間の意識へ入り込む道は、閉じている。
争いの収まった土地があった。兵士が家へ帰る。壊された門が直される。長く耕されなかった畑へ、人々が入っていく。
ロゼエルは、その先をたどった。
人間は生き続けていた。愛し、働き、誰かを待つ。そして、奪い、妬み、傷つける。
苦しむ者を見ても、手を伸ばさない者がいた。人が多く死んだ年ほど、財を増やした者もいた。自分がされたことを、別の誰かに繰り返す者がいた。
そこに悪魔はいなかった。閉じた道が、再び開いたわけでもない。
人間は、人間のままだった。
◇
傲慢、強欲、嫉妬、憤怒、色欲、暴食、怠惰。
その名を、ロゼエルは知っていた。
記録の中では、別の言葉も使われていた。誇り、繁栄、正義、愛。秩序を守るため。誰かを救うため。
同じ言葉が、人を支えることも、人を踏みつけることもあった。
家族を養った手で、別の家族から食料を奪う。愛する者を守ろうとして、その者の自由を許さなくなる。
罪を一つ拾い上げれば、その前後には、別の行いが続いていた。善と悪は、別々の魂に収まってはいなかった。
ロゼエルは、国や時代を越えて記録をたどった。
幾つもの生が終わる。魂が肉体を離れる。
天界へ進む者。煉獄に留まる者。地獄へ至る者。それぞれの道が、光の中に現れた。
知りたかったのは、その先だった。
地獄は、いつまで必要なのか。そこで過ごす魂は、いつか変わるのか。
◇
一つの魂を追った。
地獄に留まり、自分の歩いた時間と向き合っている。初めは、自分を裁いた者を憎んだ。やがて、傷つけた者の顔を思い出す。
長い時間が過ぎた。
別の生が始まる。違う名で生まれ、違う身体で世界を歩く。かつて与えたのと、よく似た痛みを受ける。以前なら聞き流していた声に、足を止める。
それでも、また過ちを犯す。
ロゼエルは、さらに奥へ意識を向けた。
次の生。その次の生。
まだ訪れていない時代が広がった。人々の街も、使う言葉も、見慣れないものになっている。
そこにも、その魂がいた。
ロゼエルの手が止まった。
「……これは、予測か?」
記録は揺らがなかった。いくつもの可能性へ分かれる枝はない。一つの魂に、一つの道があった。
いつ悔いるのか。誰の声に耳を傾けるのか。何度同じ過ちを繰り返し、どこまで理解するのか。最後まで、何を理解しないのか。
その果てまで、記されていた。
◇
「ロゼ?」
マキエルが部屋へ入ってきた。彼は光から目を離さなかった。
「何を見てるの?」
「魂の行く末だ」
彼女は近づいた。無数の生涯が、二人の前を流れていく。
「一度きりの生じゃない。何度生まれ変わり、何を学ぶのかまで見える」
「これからのことも?」
「ああ」
マキエルは、しばらく記録を見ていた。
「もう、決まってるの?」
ロゼエルは別の魂へ触れた。そこにも、道があった。
過ちを犯す日。悔いる日。悔いてなお、同じことをする日。その先で、初めて誰かを助ける日。
選ばれたはずの行いが、すべて並んでいた。
「……選ぶことまで、決まっているのか」
低い声が響いた。
自分が最高神となったこと。世界を書き換えたこと。いま、この記録を見ていること。その問いをたどれば、自分の名へ行き着く。
ロゼエルは、そこへ手を伸ばさなかった。
代わりに、記録そのものの始まりを探した。光の流れは、どこまでも続いていた。
書き換える権限はある。だが、誰が最初に記したのかは、どこにも書かれていなかった。
◇
魂の歩む道には、違いがあった。
短い生の中で変わる者がいる。幾つもの時代を越え、ようやく他人の苦しみを理解する者もいる。
最後まで、変わらない魂もあった。
奪う。傷つける。赦されたあとで、また同じことをする。その者が通るたび、別の魂が深く傷ついていく。
人は死ぬ。生き残った者も、以前の暮らしへは戻れない。
記録には、その先の罪まで残っていた。
ロゼエルは手を止めた。
どの魂が、何度生まれ変わり、どこまで成長するのか。その先まで、記録には見えていた。
これから罪を犯す魂も、分かる。
その魂を、すべて消去すればいい。現在も、未来も、地獄へ送られる者はいなくなる。
ロゼエルは、無数の魂を見つめた。
地獄をなくす方法は、あまりにも簡単だった。
「……簡単だな」
ロゼエルが呟いた。
「何が?」
「地獄をなくすことだ」
マキエルが彼を見る。
「罪を犯す者を、全部消す」
言葉にすると、なおさら簡単だった。
償うまで待つよりも。変わる道を探すよりも。その者を理解するよりも、消すための手順はずっと短かった。
ロゼエルが一つの魂へ意識を向ける。その魂へ続く記録が浮かび上がった。
生まれた場所。交わした言葉。これから傷つける者たち。
その魂を消去すれば、その者が歩むはずだった生涯も失われる。
彼は指を上げた。
◇
罪を犯す者。
その条件に当てはまる魂は、増え続けた。
王がいる。王に殺された者もいる。富を奪った者がいる。飢えた子のために盗んだ者もいる。
誰かを見捨てた者。見捨てられたあと、別の誰かへ同じことをした者。敵を殺した兵士と、その兵士を殺した兵士。
大陸を越える。時代を越える。まだ生まれていない者の魂まで、彼の前へ集まった。
「それ、全部?」
マキエルが尋ねた。
「ああ」
ロゼエルは、まだ消去を命じず、書き換えた場合のつながりを確かめた。
記された未来も、書き換えれば変わる。だが、その変化は一つの魂では収まらない。
これから罪を犯す。だから、その魂は不要だ。
そう切り捨てれば、罪を犯す前に、その者が助けた命まで別の結末へ進む。出会いが失われる。生まれるはずだった者が、生まれなくなる。
一人分の空白は、一人分では収まらなかった。
「人類が滅びるかもしれない?」
「ああ」
マキエルは光を見ていた。
奪われた食料。焼かれた家。助けを求めても、誰にも届かなかった声。
彼女の視線は、傷つけられた者たちの記録から動かなかった。
「人類が滅亡しても、いいじゃないですか」
マキエルは静かに言った。
ロゼエルが彼女を見た。冗談を言った顔ではなかった。
彼はすぐには答えなかった。無数の魂の中で、また誰かが苦しんでいた。
「俺だって、そう思うときもある」
マキエルの目が、彼へ向いた。
「あるんだ」
「ああ」
二人は黙った。
◇
ロゼエルの手は、光の前にあった。
消せる。誰かに頼む必要はない。許しを得る必要もない。自分が選び、その魂を消去すればいい。
集まった記録の中には、人を救った行いもあった。罪を犯したあとで、別の誰かへ手を差し出した者がいる。その先で、再び罪を犯す者もいる。
罪のない者だけを残そうとすれば、どれだけの魂が残るのだろう。
では、限りなく悪魔に近く、成長する見込みのない魂だけなら。
消去される魂は減る。だが、それは記録された未来を、その魂への最後の判決にすることだった。
変われないと記されている。だから、存在を許さない。
ロゼエルは、その考えを見つめた。
その道を記した者は、どこにいる。なぜ、変わらない魂が生まれる。なぜ、その魂に傷つけられる生まで用意されている。そして、なぜ自分には、それを消す力が与えられた。
光は答えなかった。ただ、すべてを知っているように、彼の前に広がっていた。
ロゼエルは地獄の街を思い出した。ルシファーと並んで、炎の向こうを見下ろした。
あの場所を、なくしたいと思った。そこにいる者たちを、一人残らず消したいと思ったのではなかった。
彼は手を下ろした。
集まっていた魂の記録が、ゆっくりと離れていく。
「……今は、しない」
マキエルは彼を見た。少しして、頷いた。
「うん」
◇
記録を閉じると、部屋の壁が戻ってきた。窓の外には、天界の街がある。
ロゼエルは椅子へ座った。マキエルは窓辺に立ち、街を見ていた。
「地獄をなくす方法は、もう少し考える」
「うん」
彼は、自分の手へ目を落とした。
いま手を下ろしたことも、記録のどこかにあるのだろうか。
確かめには戻らなかった。
記録の中にあった魂は、すべて残された。




