75.自縛のツケ
東砦に入学して、三週間と一日。四月が終わろうとしている。
小、中学校は学校に向かうだけだった俺が、こうして学校に背を向けるところから一日が始まるようになった。
自転車のペダルが日に日に重くなっていく。元整備士が元気になったら油を差してもらおう。そうしたらペダルも一気に軽くなるだろうから。
寝不足のためか、大口を開けて欠伸をすると、昨晩のことを思い出した。
ひなの人生計画書は、思っていた以上に見てはいけないものだった。
真面目なものから俗っぽいものまで、さまざまな出来事や目標が書かれていた。
自分が知らないところで、自分にまつわることが知らないうちに終わっている。そんな項目を見つけたときは、思わず背筋がゾクっとした。
あいつをまた外へ連れ出せるヒントになるようなことがないか、深夜まで読み耽っていたけど、改めて未来を知っていることの怖さを知った気がする。
うまく立ち回って私利私欲のために使おうと思えば、いくらでも思い通りにできるのだから。
つくづく、あいつが善良なやつで良かったと思う……
夏野さん家に到着すると、自転車にまたがったままインターフォンに手を伸ばす。
ゴールデンウィークに入ったら、あいつの部屋まで行ってみよう。そんなことを考えていると、インターフォンに指先が触れる直前、玄関のドアノブが回った。
今押したら変な空気になるなと思い、指先をピタリと止める。けれど、すぐ頭の中はそれどころではなくなった。
出てくるはずのないやつが出てきた。もちろん、出てきてほしいし、出てくるよう願って家を出た。でも出てこないと思っていたし、出てきたことが信じられない。
「おはよーさん」
「あ……?えっ……」
まるで昨日会ったかのような気軽さで右手を挙げると、つま先を地面にトントンと打ちつけて、たたらを踏んだ。
よろめきながら日向に出てきたそいつは、少し上目遣いで申し訳なさそうに指をいじっている。
「ハル……あのな、毎朝……ひゃっ」
ひなが話し終える前に、気づけば力一杯抱きしめていた。
後ろで自転車のタイヤがカラカラと音を立てている。
しばらくじっとしていた彼女は、一度大きく息を吸うと俺の背中に腕を回した。
最後にくっついた時より、少し痩せて小さくなったように思うけど、間違いなくひなだ。
「馬鹿だお前っ……どんなけ心配したと……」
「……ごめんな、心配おかけしました」
そうつぶやくと、ひなは嬉しそうに胸の中でゴロゴロと頭を押し付けてきた。
くそっ、もっと怒ろうと思ったのに、嬉しさが勝つ。卑怯だぞ。
そのまま話を聞くと、昨日、柊が家に来て、色々と話をしたらしい。
話すと長くなるらしいから、続きは電車で聞くことになった。
それならそうと、連絡でもくれたら心の準備もできたのに。
「あれ?昨日の晩メール送ったで?明日から行くよーって……送れてへんかったんかな?」
「マジか……あ、ほんとだ……そっか、昨日は……」
「……?」
不思議そうに首を傾げるひなに、今更になって申し訳なさを感じてしまう。
あの計画書は彼女の本音みたいなところでもある。必死だったとはいえ、それを昨夜は許可もなく読んでしまった。
恐る恐る事情を話すと、ひなの顔は青白くなっていった。
「おっ……おまえっ……なんで読むねんっ!読むなっていつも言うてるやんけ!あほっ!!」
「わ、悪かったって……俺だってお前のこと思ってだな……」
「うぐぐっ……変態や!はよ返せ!」
こいつ、人の気も知らないで……
今までことあるごとにエッチだのなんだの言われてきたけど、果たしてお前はどうなんだ。
あの計画書には、俗っぽい項目も結構あったぞ。例えば……
「……女湯を満喫する」
「ぐぬっ……」
「どうした顔が赤いぞ……。そんなので大胆な水着とやらを着れるのか?」
「はひぃー!やめてやめてっ!ごめんやって!それ書いた時はまだ男の意識が強かったんやって!!」
慌てるひなが可愛くて、つい、からかいたくなってしまった。
悪かったと思ってる。でも、こうして戯れてるのが嬉しかったんだ。いやほんと、許してほしい。
「女の子の体を調べる。痛かった。って書いてあったけど、誰が変態だって?エッチなやつだな」
「あ……ぅ……おっ……?」
ぶるぶると震えながら息もしていないのか、顔を赤黒くしたひなは、しばらく硬直したあと無言で家に入っていった。
ガチャリと鍵を閉め、ジャラジャラとチェーンロックを掛ける音がする。
絶叫するひなが静かになるまで十分。話を聞いて、出てきてくれるまで十五分。
教室の扉を開けるのと同時に、ホームルームが始まった。
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どんな顔して教室に入ろうかと、悩みながら家を出たはずだったのに、そんなことを考えられないぐらい、時間ギリギリで教室についた。
結果、息を切らしながら必死の形相で教室に入ることとなった。
久しぶりに登校したクラスメイトが、そんな様子で教室に入ってきたら引くのも当たり前だ。
ここ三週間の間に席替えをしたようで、自分の席は教室のど真ん中になっていた。
巴と席が離れたことを悲しむ間もなく、四方八方から好奇の視線が顔をぶん殴ってくる。
「おはよ……その、寝坊した?」
顔を覆って耐え凌いでいると、いつのまにかホームルームは終わっていた。
巴の気を使ったような挨拶の言葉さえ、状態異常系の攻撃に思える。
「ちゃうねん……こんなつもりじゃなかったんよ、みんなに挨拶して回るつもりやってん……」
「……まあ、なんだか分かんないけどいいんじゃない?さっきのでみんな毒気抜かれたし」
指の間から周りを見ると、みんな苦笑いしながらこちらを見ている。
恐る恐る顔を覗かせると、気軽に挨拶をくれる者もいて、安心して大きなため息を吐いた。
「みんなごめんなぁ、心配かけましたぁ……今日からまた来ます……」
「弱々しいなぁ、今日からまたよろしくね、日向!」
流子が声を上げてくれたおかげで、なんとなく受け入れるような空気ができた。クラスのムードメーカーが味方でいてくれて心強い。馬鹿だけど。
そんな失礼なことを考えていると、彼女の鞄の上にバスケットシューズが置いてあるのが目に入った。
「あ、そっか、部活始まってるんやな」
「そうだよヒナ、部活どうすんの?今度こそ一緒にバスケやる?」
「えっ!?日向バスケすんの?やった!」
「いやいや、やらんよ……。部活かぁ……」
入学前は軽音楽部に入るつもりだった。
思い入れもそこそこあるし、大人になってからも付き合いのあった奴らもいる。だけど、軽音楽部には秋がいる。
さすがに、もう無理かな……
「日向ぁっ!!!」
少しセンチメンタルになっていたところ、凄まじい声量で名前を呼ばれ、全ての意識を持っていかれる。
声の主は勢いよく教室に飛び込んでくると、そのまま自分のところへ一直線にやってきて、腰にしがみついた。
「日向っ!日向っ!」
「あ、一華っ!ごめん——」
「日向!ひなた!ヒナタ!」
「お、落ち着いて。一華、ウチ……」
「ひなたひなたひなたひなた!!」
「……そういう鳴き声?」
巴に引き剥がされた一華は、しばらくバタバタと動かしていた手を止めると、俯きながらか細い声でつぶやいた。
「心配……したんですからね……」
両手で顔を覆うと、次第に小さくしゃくり上げながら泣き出した一華に、胸が締め付けられた。
今更ながら、いろんな人に心配をかけたと実感が湧いてくる。
こんなにも自分を大切に思ってくれてる人がいるのに、本当に馬鹿なことをした。
肩を震わせる彼女を抱きしめると、久しぶりに香ってきた一華の香りに、日常が帰ってきたように感じた。
「一華、ごめんな。いっぱい心配かけました」
「まったくです……おかえりなさい」
「……ただいま。一華」
涙を指で拭いながら、一華は嬉しそうに微笑んでくれた。
こうして彼女と見つめ合うのも久しぶりだ。嬉しいけど、吐息のかかりそうな距離に彼女の顔があって、潤んだ瞳で見つめられると妙な気分になってしまう。
しばらく目が離せないでいると、視線を感じてふと我に返る。
隣を見ると流子が口に手を当て顔を紅くしていて、巴はニヤニヤと冷やかすような笑みを浮かべている。
「えっ、えっ……?そういう?えっ?女子同士で?」
「付き合ってないんだけどね、満更でもないんだよねぇヒナ?」
「か、からかわんといてぇや!そもそもウチは……」
そういえば、新しい人生を受け入れようとしている自分にとって、こういう気持ちの矛先はどうなるのだろうか。
誰とも付き合わないと決めていたので、好きな人が出来ても気持ちだけが宙ぶらりんになっていた。
その前提が崩れた今、恋愛というものが、なんだか急に現実味を帯びてきた。
予鈴のチャイムが鳴り一華が教室を出ていくと、巴が心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫?まだ顔赤いけど」
「うん……なあトモ、ウチも誰かと付き合ったりするんかなぁ?」
「……どうだろね?まあ、そんなことは自分で決めなよ」
少なくとも、心揺さぶられる人が三人もいる。
誰が誰を好きになってもいい。そんな当たり前の自由が降って湧いたばかりの自分にとって、久しぶりの授業は、呆れるほど浮ついた考えのまま過ぎていった。




