74.柊の花言葉
生きる意味があった。
秋と生きると決めたとき、空っぽだった自分に火が灯ったような気がした。
四季が生まれ、自分にも守るものができて、なんとなく生きてきた人生に意味が生まれた。
ただのお人好しだった自分が、他人に関心を持つようになったのもこの頃だった。
だからこんな馬鹿げた身体になっても頑張れた。
また過去に戻れるまで、家族三人揃うまで頑張ればいいと思った。
「……………………………………………………
……………………………………………………
………………………………………………。」
だから、この人生に意味はない。
あの日々に戻れないなら、いっそ消えてしまいたい。
心が砕け散っていく痛みも、どれだけ頑張っても報われない虚しさも、もう感じたくない。
死にたいとは思わない。だけど、もう生きていることが辛すぎる。
——なのに、なんでまだ生きようとしてるのだろう。
扉が開く音がした。
誰にも会いたくない。
もう、生きていたくない。
————————————
今日、初めて学校をズル休みした。
制服を着て朝ごはん食べて、行ってきますってママに言って、学校に体調悪いって電話しちゃった。
もしかして、お家に連絡来たりするのかな……
だとしたらズル休みってバレるかもしれない。まあいっか……
「あ、そだ、いっかちんにも休むってメールしなきゃ」
ポケットからケータイを取り出し連絡帳を開くと、冬咲一華の文字の下に、夏野日向と表示されているのが目に入った。
何の気なしに決定ボタンを押して電話をかける。
『おかけになった電話は、電波の届かない場所にある、または電源が——』
「ま、そうだよね……」
通話を切っていっかちんに休みのメールを打つと、画像フォルダを見返して、ヒナの写真をさがす。
意外と少ないな。もっと撮っとけばよかった……
小さい身体に、大きなものを背負ってるヒナ。
たまにその重さに耐えかねて、自分自身で立てなくなることがある。
楽しいことが好き。他人が笑ってるのを見るのが好きで、本人もよく笑ってる。
だからヒナは、すぐ人を笑わせようとする。困ったらこちょこちょしてでも笑わせようとしてくる。
感受性豊かで、すぐ泣く。自分のことでも他人のことでも心動かされてすぐ泣くから、ちょっと面倒くさい。本人に言ったら、涙目になっていた。
可愛くてあざとい。愛らしい容姿と、それに見合う努力もしている。
ヒナ自身、それを分かってて武器にしていることもある。カラッとした性格で隠しているけど、あれは分かっててやっている。
優しいけど危うい。他人に優しく寄り添う。自分を蔑ろにするほど。自分が我慢すればいいと思ってるのか、見ていて怖くなることすらある。
「放っとけないんだよねぇ、ヒナは」
初めてあの子の髪の毛を三つ編みにしてあげたとき、照れくさそうに鏡を覗き込んで髪をいじっていた。
それが嬉しくて家にあった雑誌に、ヒナに似合いそうな髪型のページを見つけては付箋を貼った。
ふたりで色んな髪型するの、好きだったなぁ……
辛いのにひとりで抱え込んで、そのことに私が怒って初めて喧嘩したときは、やっとあの子と対等になれた気がして嬉しかった。
でも、あのときのヒナは怖かった。すごい怒鳴るんだもん。
中学に入ってすぐ、市川響子からいじめられてた私をギュッと抱きしめてくれたとき。
私より一回り小さな身体にとても安心して、あの子の優しさに包まれたようだった。
今でも、私を救ってくれたヒーローだと思っている。
私が県大会でケガをして、試合も納得できないまま負けて呆然としていたとき、隣に座って悔しがってくれた。
本気で応援してくれてたって分かって、一生友達でいたいって思った。
「おじゃまします」
ヒナは、生きている。
まぎれもなく、この世界で生きている。
嘘なんかじゃない。
私も、いっかちんも、一ノ瀬君も、あの子と関わったみんな、夏野日向と確かに生きてきた。
あの子がどれだけ否定しようとも、あの子に関わった全ての人が、あの子の生きてきた証になった。
救おうとか守ろうとか、私にできるとも思わない。
でも知って欲しい。私から見たあの子を。
私から見た、夏野日向がいたこの世界を。
だから私は扉を開いた。
この子に会うために。
生きる意味に、追いついてもらうために。
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時が止まったようだった部屋の扉が開かれ、机の上に積もっていた埃が微かに舞う。
ツンとした表情の巴がひとり、静かな足音を立てながら部屋に入ってきた。
少女がベッドの上から、暗く淀んだ眼差しを彼女に向けた。膝を抱えて座るその姿は、まるで全てを拒絶してるようにも見える。
壁のスイッチを押すと、薄暗かった部屋に光が灯る。
それを鬱陶しそうに顔を伏せる彼女を見つめながら、巴がベッドに近づき隣に腰を下ろす。
それをまた嫌がるように、彼女はより一層膝を抱える手に力を込めた。
しばらくの無言の後、先に口を開いたのは巴だった。
「ご飯食べてる?」
「……」
出そうとした言葉が途中で止まったように、力なく開いた口からは吐息だけが漏れ出た。
再び部屋の時間が止まったように、痛いほどの静寂が部屋に訪れた。
巴がそっと手を近づけると、少女がその手を酷く怯えたような目で見た。
呼吸も浅く、その瞳は焦点も合っていない。少女はまるで、今にも崩れそうに揺れる積み木のようで、触れることさえ危うく感じる。
慎重に、注意深く、壊してしまわないように頬に触れると、驚くほど冷たい。
「大丈夫……?」
——みんな心配してるよ。
「……」
——触んな。
「ねぇ……明日学校行ってみない?」
——ヒナと同じクラスになれて、嬉しいんだから。
「……もうええやろ、意味ないわ」
——行っても、どうせ傷つくだけや。
「……あるよ。意味なんて、いくらでもある」
——みんな、ヒナの生きた証。私見てきたもん。知ってるよ。
「ふっ……何も知らんやろ……」
——全部、無駄やったんやもん。俺が生きてきた意味も……
「自分でいい……」
——知ってるよ。大好きだもん。
「……?」
「生きる意味なんて、自分自身でいい。自分の人生の意味に、ヒナ自身が成ったっていい」
消えかかっていた埋み火に火が灯るように、止まっていた鼓動が脈打つように、日向の心が少し動いた。
「……ウチが?」
初めて、日向の虚ろだった瞳が巴の両目をまっすぐ捉えた。その瞳には、先ほどと違って小さな光が宿っている。
巴は立ち上がると、逃がさないとばかりに日向の両肩を掴んだ。
食い込んだ指の痛みに歪めた顔は、今日見せたどの顔よりも、彼女らしい人間味のある表情だった。
「誰かのためじゃなくて、好きなように生きてさ、好きな人と好きなことして、やりたいことやって、ヒナ自身が自分のために生きればいい!」
「……ちゃうよ、だって……ウチは秋と四季が……」
「違わない。ヒナにとって、家族がいたことは意味なかったの?あんたの中にある思い出は、全部嘘だったの?秋さんも、四季くんも、いっかちんも一ノ瀬君も!私だって!ヒナといっぱい思い出作ったんだから!」
「っ……ト、トモ…………」
強く、抱きしめられた日向は、思い出していた。
過去を。未来を。今を生きてきたことを。
気持ちよく走り回った春を。
川に足をさらした夏を。
夕焼けが綺麗だった秋を。
肌を寄せ合った冬を。
「勝手に……無かったことにしないでよ、バカっ」
行き場をなくした自らの手を、そっと友人の背中に回して抱きしめると、巴がそこにいた。
一度目の人生と、違った出会い方をした親友が確かにそこにいた。
「ごめんトモ……いつもいつも……」
「ううん……一緒にいたって、思い出してくれたならそれで充分」
どちらともなく抱きしめた腕を解き、二人でベッドに寝転がると、巴は他愛もない話をした。
山も谷もない、いつでもできるようなオチもない話。それを日向は、かけがえのない時間を噛み締めるように、自身の鼓動を感じながら耳を傾けていた。
窓から差し込む光を温かく感じ、少しの空腹感を感じていたころ、巴が優しくつぶやいた。
「ねぇヒナ……四季くんのこと、教えてよ」
日向は、その言葉に少しだけ胸が痛んだ。
二度と戻らない。その事実を未だ受け止めきれず、日向は言葉を詰まらせた。
唇を緩く噛みながら目を伏せる彼女の手を、巴がそっと握った。
「ゆっくりでいい」そう言いたげな巴の暖かさが、重ねた手のひらから伝わってきた。
「……四季はなぁ、やんちゃやったなぁ……。言われたことはせえへんし、作ったご飯に文句言うし、怒ったら噛んでくるしな」
巴がクスクスと笑い、話を催促するように見つめると、日向は思い出に潜っていくように目を閉じる。
「早起きやったな……休みの日も早よ起きるから、よう起こされたわ。それから、お菓子が好きやった。特にグミ。抱っこが好きで、ほっぺがぷにぷにで……髪の毛がサラサラで……一緒に寝るのが好きで……ありがとうって言える子で……いっぱい笑う子で……」
穏やかな表情で閉じた目から、一筋の思いが溢れてきた。
頬を伝った温かい涙は二筋になり、互いに交わることなく別々の場所に落ちてしまう。
涙など流さなければ、ずっと同じ場所にいられたのに。
「愛してくれた」
だけど、同じ場所にいたら、落ちた先で思い出を語ることもなかっただろう。
一つ、また一つとこぼれる涙を大切にすくいながら、彼女は言葉を紡いだ。
生きる力をくれた。
生きる素晴らしさを教えてくれた。
愛することの喜びを教えてくれた。
誰かのために、本気になれることを教えてくれた。
「今のウチがあるんは、あの子のおかげやな」
話が終わる頃には憑き物が落ちたようにスッキリした顔で、しかしまだ、どこかぎこちない笑顔を見せた。
その横顔を見て巴が安心していると、目の前の少女の腹からぐぅと間抜けな音が鳴った。
そのことに慌てて腹を押さえる様子に、思わず笑ってしまい、日向もつられて笑う。
「なんか食べるもんあるかなぁ、トモはどうする?」
「んー、迷惑じゃなければ。てかあんた、お母さんにも謝っときなさいよ?」
「うっ……みんなに謝らな……」
二人で一階に降りてきたのを見て、陽子が抱きしめた。
散々謝って、散々心配されたあと、久しぶりにパンの味を楽しむ。そんな小さな日常に、小さな意味を日向は感じた。
明日から学校へ行こう。
ひとりの少女の人生が、ゆっくりと始まった。




