72.拒絶
朝、窓から差し込んだ日の光に照らされて目が覚めた。
ガビガビになった目元を擦りながら重たい体を起こすと、カーテンを閉めてベッドにもどる。
それでも瞼の裏に残る光の残像が鬱陶しくて、布団をかぶって暗闇に閉じこもった。
腫れて狭まった喉から鳴る掠れた息遣いと、わずかに聞こえてくる生活音だけの世界。
それさえも別にいらない。あってもなくてもどうでもいい。
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しばらく経つと部屋の扉がノックされた。
意識が浮上して、一度大きく息を吸う。
「ひなちゃん、入ってええ?」
「はぁい」
母が扉を開け、ベッドの横にやってきた。
布団越しに肩の辺りに手を置くと、ゆっくり撫でながら話し始めた。
「体調どない?よう寝れた?」
「……どうやろ、何時に寝たか分からん」
「そっか……どない?学校……」
学校と言われてふと思った。
学校に行く意味があるのだろうかと。
そして、その答えは直ぐに出た。
「……今日はええかな、学校には連絡しとくわ」
「んー、でもハル君来てんで」
「はぁ……?チッ……」
ベッドから出ると、そのまま一階へ向かう。
母が後ろで何かを言っていたが、ぼーっとして聞き取れなかった。
玄関の扉を開けると一瞬安心したような顔をした春樹は、すぐに顔を引き攣らせた。
「お、おはよ……その、あー」
「おう、わざわざ起こしに来たんか。悪いな、今日は学校行かんとくわ」
「そっか……。明日も来るから」
「……もうええぞ、そのうち行けたら行くわ」
拒絶するように扉を閉めて、部屋へ向かう。
頭が痛い。何も考えたくないのに、ものすごく体力を使った気がする。今日はもう寝ておこう。
「……あ、ズボン履いてへん」
昨日、山道の休憩所から帰ってくると、制服を脱いでそのままベッドに入ったから、インナーと下着のまま春樹の前に出てしまった。
……どうでもいいか。
二階にいた母の横を通り抜けて部屋に入ると、先ほどと同じように布団を被った。
この日、他にあった出来事は、二回トイレに行っただけだった。
次の日の朝。ベッドから落ちて床に叩きつけられる衝撃で目が覚めた。
初めてベッドから落ちたけど痛い。今日はもう寝ておこう。
………………頭痛い。
寝過ぎたせいか、頭が痛いし身体が重い。痛み止めでも飲んでおこうか。
痛み止めを取りに一階に降りると、インターフォンが鳴る。母がパートの早番なので不在だ。
無視しようかと思ったが昨日の朝のことを思い出し、モニターを覗き込むと、思った通り春樹が映っていた。
玄関を開けると春樹は一瞬下を見た。今日は履いてるよ。見んなよ。
「すまんな、ひとりで行ってくれ」
「おはよ、体調どうだ?」
「……悪いよ、ええわけないやろ」
「……そうだな。一華と柊も心配してたぞ」
それを聞いて、スマホを見ていなかったことを思い出した。
春樹を見送ってからスマホを確認するとメールが何件か届いていた。
二人からのメールに、同じ内容の文章で返信が遅れたことを謝罪し、そのまま動画サイトを見て過ごした。
この日は身体が痒くなってきたから風呂に入った。
なんとなく気になったから脇を剃った。ついでに他のムダ毛も剃った。特に意味はない。
小さいおにぎりを食べたけど、すぐに吐いてもどした。
次の日も、その次の日も、似たような時間を過ごした。
母が起こしに来て、春樹が迎えに来る。それを断ったら部屋にもどって、死んだように何もしない。
一華と巴のメールに返事を返したり返さなかったり、空腹を感じたら何か口に入れて寝る。
そして日曜日、一回だけ泣いた。
月曜日、先週よりも早い時間にインターフォンが鳴った。
扉を開けると、日に日に元気がなくなっていく春樹が立っている。
「……おはよ」
「……行くよ、行けばええんやろ」
「ぇ…………本当か!?」
「ちょっと待っといて、準備するから」
気まぐれというわけではなく、何もしないで、周りに迷惑をかけるのに耐えられなくなってきた。
顔を出すだけ出して、適当に放課後を待とう。そうすれば、多少はみんな心配しないだろう。
先週は色んなことを思いながら電車に揺られていたのに、今はまさしく、胸にぽっかりと穴が空いたようだ。
満開だった桜もいつの間にか散ったみたいで、所々に桜色の混じっていた山は、緑生い茂る山にもどっていた。
「そういえば宮川って奴と仲良くなったんだけど、知ってるか?」
「虎徹か、あいつの親父さん警察やぞ、悪いことすんなよ」
「しねぇよ、俺のことなんだと思ってるんだよ」
下着見て喜んでただろうが。どうでもいいけど。
別に気にしてないけど。下着見ただろうが。
「休んでる間、どうしてたんだ?」
「……別に、何もしてへんかったよ。寝て起きて、トイレ行って風呂入って、動画見たり……」
一回だけ、秋と四季のことを思い出してしまった。
考えないように蓋をしていた。これ以上何も考えないようにしないと、もうもどって来られないような気がしたから。最低限の生きる気力さえ失いそうだったから。
「……また切ったのか?」
「あ?あー、うん。リストバンド忘れてた」
「痛くないか?」
「うん、別に」
冷たくなるほどの空虚感を感じながら、高校の最寄駅へと運ばれていく。途中、自分の手に重ねられた春樹の手から伝わるぬくもりを、どこか他人事のように感じながら。
教室に着き自分の席まで歩いていると、少しずつ室内が静かになっていった。
最後に教室にいたのは先週の火曜日。呆然としたまま帰宅して、そのまま一週間近く休んでいた奴が急に来たわけだから、変な空気にもなるだろう。
席に着いて教科書に名前を書いていると、隣の席から気軽に声をかけられた。
「おはよー日向。大丈夫だった?無理しないでね」
「流子……おはよ、この前はすまんな、鞄とかまとめといてくれて」
「いいよいいよ、しんどい時はしょーがないって」
その後も、クラスメイトは普通に接してくれた。
みんなどこか労わるように接してくることを不思議に思っていると、巴が教室に入ってきた。
こちらを見ると一瞬固まって驚いたような顔になり、続いて勢いよく駆け寄ってきて、思いっきり抱きしめられた。痛い。リュックのプラスチックのところが頬に当たって痛い痛い。
「ヒナっ!よかった……よかったぁ……あのまま来なくなったらどうしようって、怖かった」
「そのつもりやったけど……みんなに迷惑かけるし……」
「迷惑なんかじゃないっ!でも、心配したよ……」
安心したように笑う巴を見ていると、学校に来た意味もあったように思う。
リュックを下ろして荷物を整理しだした彼女を見ながら頬をさすっていると、小声で流子が話しかけてきた。
「日向が休んでる間ね、巴が必死に言って回ってたんだよ。事情があってあーんなことになったけど、日向がどんな子かーって」
「ちょっと流子っ!言わないでよ、なんか恥ずかしいじゃんか」
「いやぁ、友達思いだなー巴は、うふふっ」
どうやらクラスメイトがやたらと優しいのはそういうことらしい。
入学したてで、ろくにグループも出来ていない状態で話して回るのは大変だっただろう。
そんなこと、しなくていいのに。
授業中、たまに振り返ってきてはニコニコと笑い、何かとかまってくる。
自分がトイレに立つと一緒に来て、何でも無い話を振って元気付けようとしてくる。
移動教室になると嬉々として教室まで案内してくれる。
自分の方がこの学校に詳しいのだが……
とにかく巴が、自分のことを日常にもどそうとしてきた。
正直、どうすればいいか分からない。自分としてはフェードアウトしていきたいのだ。学校も、友達も、この意味のない人生も。
だから、そんなふうに楽しそうにされても困る。
「えっ、日向お弁当持ってきてないんですか?」
お昼休み、自分で作ったという弁当をもって一華が一年五組にやってきた。
この教室で食べるつもりだったらしいが、あいにく用意もしていなかったので自分は学食に行くつもりだ。
「じゃあ、そっちで三人で食べよっか」
当然のように一華と巴がついてきて、三人で学食へ向かう。
そこそこ混雑した食堂内で券売機の列に自分が並ぶと、二人は近くの長机を確保した。
何も考えずに唐揚げ丼を注文してしまったが、おにぎりで吐きもどしていた自分が食べれるはずがない。
目にするまで忘れていた年配の女性から注文の品を受け取ると、手元のどんぶりに目を落とす。
ご飯の上に千切りキャベツが敷いてあり、その上に唐揚げが四つ乗ってて甘辛いソースとマヨネーズがかかってる。
特に凝った点はないボリューム重視、前世の自分はこれを二つ食べてた。馬鹿だから。
「……ヒナ、ちょっと嬉しそうだね」
「……そんなことないよ、懐かしいなぁって思っただけ」
少し食べて、ダメだったらどうしようか。
そんなことを思いながらひとくち唐揚げを齧ると、「これこれ」としか表現出来ない感覚が口の中に広がった。
意外と食べれる。まだ食べれる。お腹いっぱいになってきた。
「ぐふっ……苦しいっ……」
「ふふっ、次からは少なめで作ってもらったらどうですか?」
あと唐揚げが一つとご飯が少し、食べたいのに箸が進まない。
それを悔しく感じている自分を意外に思う。全部どうでも良かったんじゃなかったのかと。
自分の弁当に手もつけず、机の対面からこちらを嬉しそうに見る巴と目が合うと、バツが悪い気持ちになった。
「ごめんな、心配かけて」
「ううん、ちょっとだけ安心したよ。ちゃんとヒナだなぁって思ったから」
「なんやそれ……」
「……ねぇ、四季くんって、どんな子だったの?」
その名前を聞いて、一瞬ギリッと胸が痛んだ。しかし、思ったような虚しさは訪れず、話してみたいとさえ思えた。
そういえば、みんなには名前しか言ったことが無かった。
「……四季はなぁ——」
「あ、日向だぁ、元気なったのぉ?」
間延びした声に呼ばれ、話を中断して声の方を見ると、想像した通り桜が、想定外の人物とこちらを見ていた。
一華と巴が息を呑むのが分かった。自分は、多分息をしていなかった。
「っ……ぁ……」
「大丈夫だったぁ?あ、この子ねぇ、受験の時に知り合って友達になったんだぁ、関ヶ原——」
「秋っ……」
出会ったころは、冷たい印象を受けた。
実際そうだったのだと思う。家庭環境が複雑で、頼れる大人もいない中、学校を楽しむような余裕もなかったのだろう。
ハッキリした物言いと、睨んでいるような目つきを本人も気にしていた。
人生を共に過ごすと誓った人であり、苦楽を共にした人。
関ヶ原秋が、こちらを見て立っていた。
——バラバラになりそうだ。
「ウチのこと、知ってるの?」
「いやっ……っ、知らんな……」
——知らないことの方が少ねえよ。
「ふぅん、ウチは見たことあるわ。受験の時、余裕そうに寝てたでしょ?」
「っ……」
——何も覚えてないんだな。
「学校休んでたって桜から聞いてたけど、入学早々大丈夫なの?」
「……ええやろ別に。か、関係っ、あらへんやろっ……」
——なんで俺だけ。
「あ、あの……関ヶ原さん……」
巴が間に割って入り、一華が手を握ってくれる。
なのに、心をぐちゃぐちゃに掻き回されるような感覚は消えず、どんどん加速しているようにさえ思う。
「日向、落ち着いてください。目瞑って」
巴の向こうから自分を見る秋の目が、手首の傷でぴたりと止まった。
「……それ、大丈夫?」
春樹が、一華が、巴が、繋ぎ止めようとしてくれたものが、砕け散ったように思った。
秋は何も悪くない。責められる謂れなどないと思う理性が体をその場に縫い付けて、ドス黒い感情が引きちぎった。
情けない足取りで秋に近づき巴を押し退けると、ほとんど力の入ってない手で彼女の胸ぐらを掴んだ。
「……ええなぁ、お前はなんも知らんで……なんも覚えてへんでっ!俺のこと、なーんも知らんねやろ……し、四季のことも……ははっ、あはは……」
「な、何言って……」
力なく滑り落ちた手を見ながら、もう何も残っていないと悟った。
過去も未来も、今さえも。再確認させてもらった。
「……どっかいけ」
後ろを振り返ると、一華と巴が青い顔をしていた。
たくさん心配をかけて、自分を引き留めてくれた。
期待に応えられなくてごめんなさい。
「帰るわ……。さいなら」
彼女たちの間を通り抜けたとき、名前を呼ばれた気がした。
家に帰った。
部屋にこもった。
携帯がうるさかった。
……電源を落とした。




