71.生きる意味
一華も巴も撒いた。家の近くまで着いてきたから。家に帰るふりをして、そのまま裏口を抜けて素通りした。
母には後で遅くなる旨をメールででも伝えよう。悩み事があるから一人になりたいって言ったら、心配はするだろうけど帰ってこいとは言わないだろう。
さて、どこにいこうか。どこでもいい。もうどうでもいい。
原付でも盗むか。出来るぞ。整備士なめんな。
「子供に顔向け出来ひんわ、あはははっ、おらんっちゅーねん」
自分がどこを歩いているかも分からない。
もう何も考えたくない。泣くのも馬鹿らしい。
なんだこの人生。なんのためにあるんだ。
誰がなんのためにこんなことしたんだ。
傷つけるだけ傷つけて、世界に捨てられたみたいだ。
せっかくの二度目の人生だから、周りに幸せになってもらおうとした。
そしたらどうだ。訳のわからない体と、グズグズの消し炭みたいな心が残っただけじゃないか。
「ふふっ、どうしたらええんやろ、どうすればよかったんや?」
空っぽだ。空っぽになった。
信じていた未来は、最初から存在すらしていなかったんだ。
しばらく歩いた末にたどり着いた場所は、よく知っている場所だった。
そういえば最近は来ていなかった。中学一年生以来か。
「しもたなぁ、コーヒーでも買うてきたらよかった」
気を紛らわせるならなんでもいい。
ああ、タバコも買えないこの身体が憎い。
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ノートに書かれた文字の意味を理解したとき、春樹は頭が真っ白になった。
あまりにも彼女が自然に生きていたから、日向はその未来を割り切っているものだと、秋と二人で生きていく未来を選んだのだと思っていた。
「うっ……くそっ、馬鹿か俺は……ちくしょうっ!」
めまいに耐えるように机に手をつくと、彼は携帯を取り出し巴に電話をかけた。
コールを三回ほど繰り返したのち、相手が電話に出たことを確認すると、急いで人生計画書を持って部屋から出た。
「もしもし、柊っ!あいつ今日会いに行ったんだろ!その後どうなった!?」
『ち、ちがうのっ、私がっ……言ったら……っ、ヒナが……』
「っ……あいつ、まだ家に帰ってねえんだよ!どこに行ったかわかるか?」
『うぅ……っ、秋さんのことっ……女の子だって……』
嫌な予感は得てして当たるものだと、日向がよく言っている言葉だ。
巴が嗚咽をあげて話せなくなったタイミングで、隣にいたのだろう一華が、代わりに電話口で話を続けた。
『春樹君!日向が家にいないんですか?私たち、さっき家まで送り届けたはずですよ!』
「……裏口から抜け出したのか?とりあえず合流しよう。戻って来れるか?」
日向の母にかいつまんで事情を話して家を飛び出すと、駐輪場に日向の自転車があることを確認する。
まだそこまで遠くには行っていないだろうことに胸を撫で下ろすと、続いて日向に電話をかける。
僅かな希望に期待を寄せるが、彼の予想通り、呼び出しのコールが途切れることはなかった。
すでに夕暮れ時に差し掛かっている。このまま暗くなっても帰らなかったらと思うと、最悪の考えが春樹の頭をよぎる。
しばらくして、一華と巴が自転車に乗ってやってきた。
「私のせいだ……ごめんっ……」
「違うって言ってるでしょ!秋さんに直接会ってたら、どうなってたか……」
被せるように声をかける一華の様子は、普段の朗らかなイメージからは想像できない余裕のないものだった。
先ほどから何度か日向に電話をかけているが、誰からの着信にも応答する気配はなかった。
時間だけが過ぎていく。
「どこか、心当たりのある場所ありませんか?」
「……一人になれる場所なら、自分の部屋じゃないなら……山道の方にある休憩所とか?」
「あぁ、あの夜景のとこか……行ってみるか」
近所にある神社の近くの公園。その横道から続く山道を登っていくと、割と綺麗な休憩所がある。
あまり人も寄り付かず、小学校の頃は三人ともよく日向と遊びに行った場所だった。
空が怖いくらいに赤らんで辺りは暗くなってきた。
山から降りてくる冷たい風が肌を撫で、町の音を遠ざけながら山道を登ってゆく。
遠くから聞こえる車のクラクションと、自分たちの足音しか聞こえなくなったころ、その休憩所が見えてきた。
蜘蛛の巣がついた街灯の横に寂しく佇む、屋根と簡素な椅子があるだけの休憩所。
影の落ちる休憩所から、鼻歌が聞こえてきた。
心が安らぐようで、少し切ないような。子守唄のようにも聞こえた。
聞いたことがないメロディと、聞き覚えのある歌い方。
姿は見えなくとも、誰であるかはみんな分かっていた。
「…………まあ、来るやろね君らは」
ろくな灯りもない中、ひとり休憩所にいた日向はため息混じりにつぶやいた。
先ほどまでの優しい鼻歌が嘘だったみたいに、寂しい空気が漂っていた。
薄暗い中で表情は見えないのに、その両目だけが不気味に動いている。
「ヒナ……ごめん!」
「トモは悪ないよ、悪いんは……うーん、ウチや」
いつも通りの口調に、心だけが乗っていない。
ビー玉みたいに綺麗だった彼女の目は、泥の混じった水溜まりのように淀んでいる。
何かきっかけでもあれば、後ろの柵を越えて身を投げかねないとさえ思えた彼女の様子に、三人は動けないでいた。
「電話出てくれよ……話ぐらい、聞けるからさ……」
「ひとりが良かったんやもん。っていうかハル、そのノート見たんかいな」
「……充電器取りに行った時にな」
「あぁ、そういや机の上に置きっぱなしやったな」
日向は興味なさげに吐き捨てると、後ろを振り返り町を見下ろした。
空の赤と暗闇に浮かぶ彼女の後ろ姿は、どこか現実味がないほど幻想的で、今日でなければ誰かがシャッターを切っていたかもしれない。
「なぁ……変かなぁ、俺が女として生まれたんやしさぁ、秋が男に生まれてるって思うんは……変か?」
「……そんなこと、ありませんよ」
「大筋は変わらへんのちゃうんかい、おい、四季はどうなんねや?あの子が生まれてくる未来はどこいった?誰や?誰が四季を殺した?ひひっ……俺や……うぶっ、おぇッ……」
「ヒナっ!」
いてもたってもいられなくなった巴が駆け寄り、ハンカチを渡す。
それを手で断って唾を吐くと、崖の下に落ちた胃の中身を見ながら話を続けた。
「結局、俺の人生はあの日で終わって、そっからずーっと意味ないことしてたわけや。ちょっとでも可愛なって秋と一緒になって、やることやって四季産んで家族三人揃う。そんな未来なかったんよ…………っ、俺だけが変わったからなぁ!!!」
その悲痛な叫びは、静かになった山に少しだけ響いて消えていった。聞いていたのは春樹と一華と巴の三人だけ。
世界は何事もなく続いていく。世界の中心は彼女ではない。
「クソがっ……くそやっ、くそっ……っ、うぅ……ぐす、うぁぁぁぁん…………っ、四季ぃ……」
膝から崩れ落ちた少女は、小さな身体を丸めて泣いた。この日初めて溢した涙だった。
この世界には存在しない、三歳の男の子へ向けて。
まだ箸もうまく使えなくて、ひらがなもちゃんと読めない。
家の中で走り回っては転けて、よく両親に怒られて。
仕事から帰ると笑顔で走ってきて出迎えてくれる。
グミが好きで、帽子が好きで、電車も車も飛行機も好きな、三歳の男の子。
「……もう、生きてる意味ないよ……なあ、なんなんこの世界。死ぬとかせんけどさぁ……もうどうでもよくない?」
その消え入りそうな声には意思などなかった。
冷たさもなく、熱さもない。口から出た音が、ただ言葉になっただけ。
だから、次に彼女が意思を持って発した言葉に、三人は言葉を失って、どうすることも出来なかった。
不要なゴミでも捨てるように、使い終わったノートを捨てるように、夏野日向はこう言った。
「こんな世界、もういらんわ」




