70.儚き
何度も読まれ、書き足され、そういえばこの前は力任せに投げ捨てたっけ。
五冊セットの内の一冊だった青色のノート。
角は丸まってめくれ上がっているし、マジックペンで書いた表紙の文字は、どことなく、黒色から紫っぽくなってしまった。だけど捨てられない。
それをすてるなんてとんでもない!
もう中を見ないでも何が書いてあるかを把握している。
それでもノートを開くのは、道に迷ったとき、三十年生きた自分が手を引いてくれるからだ。
『関ヶ原秋と、また結婚する』————
「わかってるよぉ……明日はちゃんと会いに行くってぇ……」
時刻は二十三時四十分。ベッドに寝転がりながら、誰にでもなく、過去の自分に弁明する。
高校入学初日、タイミングはいくらでもあったし、六年間待ちに待ったエックスデーだった。
しかし、いざ一目見ようと意識を向けると、途端に体から力が逃げていく。
信じていた自分の人生が、最初から無かったことになりそうで怖い。
「秋に会わんと……始まらん……ねむい……」
その日は、大切な計画書を抱きしめながら眠りに落ちた。
翌朝、母の声で目が覚めると、ノートがよだれでふにゃふにゃになっていた。
……乾かしとこ。
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昨日より一本分早い時間の電車は車内の混雑もそこそこで、ギリギリ一つ空いていた座席を春樹に譲ってもらい、座って電車に揺られることになった。
興味深そうにスマートフォンの画面を覗き込んできたので、横スクロールアクションのアプリを開いて渡したら、夢中になって返してくれなくなった。子供みたい。
「あ、そういやハルの充電器、ウチの部屋にあったで」
「やっぱりか、悪いな……。充電器は?」
「忘れた!」
そう呆れた顔をしないでほしい。紙袋に入れて持ってこようとはしていたのだ。それもオシャレな紙袋だぞ。表面がテカテカしてるタイプのやつだ。
手持ち無沙汰になったこともあり、昨日のことを思い出していた。
バッタリ廊下で会って挙動不審になるよりかは、自分から確認しに行ったほうがいいだろう。
思い切って、すくむ足に鞭を打って、行くしかないのだろう。
「はぁ…………っ」
最近、不安なことがあると手首をいじったり、腕をつねったりする癖ができてしまった。
気づいたとき、自己嫌悪に陥るくせにやめられない。
なんだか、どんどん自分のことが嫌いになっていってる気がする。嫌だなぁ……
「昨日のことか?」
「ぇ……あっ、えっと……」
スマートフォンから目を離さないで声をかけてきたので、間の抜けたような声が出た。
「ふふっ、うろたえすぎ。お前さ、もしかして男女の違い気にしてるのか?」
「……」
「はぁ、まあ不安にも思うか……。でもさ、一華だってお前のこと好きになっただろ?まずは会ってから考えてみればいいじゃん」
「……うん、男とか女とか関係ないって、言えたらええねんけどなぁ」
不安から目を逸らすように窓の外に目を向けると、昨日にも増して雲が厚い空模様となっていた。
まるで自分の心情を表してるようだ、などとは思わない。
そんな詩的な人間じゃない。だけど、晴れてほしいとは思うんだよ。
……会いに行くなら放課後かな。
「ハル、今日は先帰っといてぇな」
「おう、いけそうか?」
「どうやろな……そん時のウチ次第やな。ウジウジしてたら行けへんやろし、なんか楽しいことでも考えとこかな……」
「クラスに仲良かった奴とかいないのか?」
そう言われて五組のクラスメイトを思い出す。何人かは交流もそこそこあったし、高校三年生でクラスが一緒だった者もいる。
秋のことで頭がいっぱいになっていたが、また高校生活を送れるのだ。
そう思うと楽しみになってきた。
「くふっ……ウチ女子高生なってもたわ」
「今更かよ。せっかくなんだから、高校を楽しもうぜ」
「うんっ!あぁ、今日学食にしよかなぁ……唐揚げ丼が美味しいんよなぁ……」
楽観的なのかもしれない。この世界に来たばかりの自分が見たら、性別が変わったことも忘れてグーパンチしてくるかもしれない。
でも、春樹がいて、一華がいて、元気な巴も一緒に東砦に来たんだ。楽しくないわけがない。
春樹と通学路歩くの、今更だけど楽しい。
昨日四人で電車で帰ったのも、なんだか不思議な気分だったし。
入学してちょっとしてから宿泊研修あったっけ?内容忘れちゃった。
文化祭とか体育祭とか、今からもう楽しみだな。
みんなとやりたいこと、いっぱいだ。
教室の前で春樹と別れて、自分のクラスに入る。
昨日はあんまり気にしなかったが、みんな興味を持ってくれてるのか、男子も女子も結構目が合う。
「おはよーさん!関西人が来たで」
「おはよう、夏野さんだっけ?今日は体調大丈夫なのね」
「日向でええよ、うん!心配かけてごめんなぁ川中さん」
最初に話しかけてくれたのは川中流子だった。
ポニーテールをシュシュでまとめているのが印象的な、活発そうな女の子。
前は三年間同じクラスでお互い馬鹿だったから、テストで赤点を取って補習で顔を合わせているうちに仲良くなった。
すまない。今世の自分は成績が良いんだ。仕方がないから勉強を見てやろう。
「日向ね、じゃあ私も流子でいーよ。さっきの人は彼氏?」
「んあ、ハルのこと?ちゃうちゃう、幼馴染や」
「ハル……なーんかどっかで聞いたことあるような……」
流子以外とも挨拶を交わし、少しずつ和を広げていく。
まだ出身中学同士で固まっていたクラスだったが、昨日よりかは風通しが良くなったように思う。
その後も彼女と話しているとホームルームの時間になり、それぞれの席に戻っていく。
この時間になっても前の席が空いていることを気がかりに思い、先生に隠れて携帯に連絡がないかを確認したタイミングで、巴が息を切らしながら教室へ入ってきた。
先生から注意を受けてこちらに歩いてくる彼女と、一瞬目が合ったような気がした。
「なんや、二日目から遅刻かいな、珍しいな」
「はぁ……っ、はぁ、おはよ……」
「ほれ、前向いときぃな、髪やっとくから」
よっぽど焦っていたのか、いつもは綺麗にまとめてある髪が今日は手付かずである。
巴は何か言いたげな顔でこちらを見たあと、言葉を飲み込むようにして前を向いた。
ホームルームが終わるとトイレ休憩を挟んで、そのまま校則の説明や教科書の配布やらと慌ただしく事が進んでいく。
学校施設の紹介で校内を回っているときに、もしかしたら秋とすれ違うかもしれないと思ったが、クラスごとに順番に回っているようで、一組とはすれ違わなかった。
「あ、一華や、おはよーさん」
途中すれ違った一華に、気軽に挨拶を投げかけると驚いたような顔でこちらを見た。
「日向!あとで、休み時間会いに行きますから!教室にいてくださいね!」
「?はいはい、待っとくけど……」
巴といい、先ほどの一華といい、焦っているような様子の二人に、なにか少しだけ嫌な予感がする。
いつもは余裕がないのは自分だから、こんな感じでみんなには気苦労をかけていたのだろうか。反省だな、反省反省。
配布物の確認、学校見学、委員会の希望や部活動の紹介を終えて、やっとのことで落ち着いた休み時間となった。
中途半端な時間だが、このあと最後に軽くホームルームをやってお昼休みに入るみたいだ。
そのあとは、各自気になる部活動へ見学にいって本日は解散となる。
「トモ、この子流子っていうねん。バスケ部仲間やで」
「あれー?私バスケやってるって言ったっけ?んでも、柊さんもバスケやってんだね!よろしくねー」
「うん、よろしく……。えっと」
「トモ、大丈夫か?顔色悪いで」
もしかしてアレの日だろうか。だとしたら保健室にでも連れて行くか。
それとなく言ってみるが、首を横に振る。
言い淀むような様子は中学一年生の時、彼女がいじめられだして誰にも相談できずにいた頃を思い出させた。
「あ、せやっ、見てやトモ」
元気づくかは果たして微妙ではあるが、一度見たら忘れられない、中学の修学旅行で買った形容しがたいキャラクターのキーホルダーを彼女に見せる。
「そ、それ……」
「ふふっ、覚えてる?マニータちゃんや!これ、なんか知らんけどあいつが好きなんよ。いつか渡せたらなぁって思って」
「うーわ、なんなのその……何?鎖鎌?うんち?」
「いやっ……何やろな?マンイーターらしいけど、マンイーターってなんや?」
流子には鎖鎌に見えたらしいこのキャラクター。
自分は初めて見た時ブーメランに見えたので、もしかしたら近い感性を持っているのかもしれない。
秋にはパンダに見えているらしい。
そんなことを思っていると、巴がガタッと音を立てて椅子から立ち上がり、自分の両肩を掴んできた。
二十センチ以上身長差があるので、見上げるような構図になった。
「ヒナ、あのね……落ち着いて聞いてね」
「は、はい……なんやろ……」
ああ、また手首触ってるな……
何言われるんだろう。こわいなぁ……
「昨日の帰り道、私といっかちんは駅から別方向だったでしょ?私、聞いちゃったの……」
「なにをよ……」
「ヒナの、人生計画」
ブチッと、爪が食い込んだような気がした。
別に怒っているわけじゃない。ただなんとなく、そうなんとなく、たまらなく不安になってしまった。
「……っ、待って……待って待って……なんで」
「それでね……私と一ノ瀬君と、あと桜ちゃんも、受験の日に秋さんに会ってるの。道案内するために。」
巴の瞳が揺れている。それ以外分からない。
声をかけられてる気がするけど、どうでもいい。
やたらと狭い視界に巴の口元だけが映し出されている。
集中してるのかなんなのか、現実感がない。
「秋さんね、綺麗な人だったよ」
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……………………………………………………
………………………………………………。
——何書こっかな、まあとりあえず藤宮一華の……
——せや、ハルが車に撥ねられんの止めたろ、あれいつやっけ?
——英語勉強したいなぁ、仕事も何か考えやななぁ。
——仮想通貨買うたろかな。お金持つの怖いねんなぁ、一応書いとくか。
——あ、せや亀、亀助けたろ。
——勉強は、まあそこそこで、東砦入れたらええわ。秋も来るよな?
——ゆうちゃんの進路も考えて、どーしよっかなぁ。
——秋ともっかい結婚する。と……ふむ、ほんでぇ……
「えっ…………………………これで、もうおわりっ?」
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ひなから先に帰っておくように言われて、のこのこ家まで帰ってきたわけだが。落ち着かない。
何度目かも分からないため息が鼻から出ていき、気を紛らわせるためにゲームでもしようと枕元の携帯ゲーム機を手に取る。
「あっ、そうだ充電器…………はぁ……」
時計を見ると十六時三十九分。あいつも家に帰っている頃だろうから、顔を見にいきがてら充電器を取りに行こう。
母さんにすぐ帰ることを伝えて家を出る。
こういうとき、家が近いとすぐ会いに行けるから嬉しいもんだ。
こちとら幼馴染だぞ。関ヶ原には負けてられない。
それでも背中を押してしまうのは、ずっとあいつが望んでいたことだから。
敵に塩を送ってるわけではない。俺は好きな人の望むことをしてるだけ。
「……もうちょっと、一華みたいにグイグイいったほうがいいのかなぁ」
夏野さん家が見えてきた。インターフォンを押すとひなの母、陽子さんが出てくれた。
どうやらまだ家には帰っていないとのことだ。
寄り道でもしているのだろうか。
充電器を取りに来たことを伝えると、部屋に入っていいとのことなので上がらせてもらう。
毎週とまでは言わないけど、結構な頻度で訪れているので、こんな時間に来ても暖かく迎えてくれた。
「こんばんは、すいません、変な時間にお邪魔して」
「ええよええよ、ほんで?いつ付き合うんや?」
「いやぁ、それがねぇ僕は一歩出遅れてるんですよ」
「ほぉー?てことは一華ちゃんがリードしてるんか、女の子同士かぁ、時代やなぁ……」
本当は別の人に取られそうだとは言えないので、愛想笑いで誤魔化しておく。
どうしようかな……同じ部活でも入ろうかな……
あいつ何部入るんだろ……
ひなの部屋に入ると、机の上に紙袋を見つけた。
表面がテカテカしてるやつだ。どっかのアパレルショップかな。
「これか?あいつ、こういうところマメだよな」
わざわざ紙袋に入れなくても手渡していいものの、そう思いつつも置いていくのも悪いので紙袋ごと持ち帰ることにする。
そのとき、横に立てかけてあるボロボロのノートが目に入った。
「うわっ、懐かし……小学校以来だな、これ見るの」
あいつの人生計画書。普段は鍵付きの引き出しに入っており、見せてくれと頼むと決まって「エッチな奴」と言われる。意味が分からん。
『関ヶ原秋と結婚する』————
危ない危ない。思わず舌打ちしそうになった。すまん、ひな。
「はいはい、一途なこった……ん?」
目に入ったその項目から、ページを跨ぐように矢印が引かれていることに気づいた。
褒められたことでないのは分かっていた。
それでも気になって、俺は、好きな女の子の秘密を見たくてページを一枚めくってしまった。
一ページにその一文だけ。
まるでそれ以外はいらないとばかりに真ん中に、その項目だけが書かれていた。
————「ほんで、ウチが四季を産んでゴールや!」




