68.変わりゆく未来の中で
駅の改札前。壁に背中を預けながら道行く人々を眺めていると、どいつもこいつも何も持たずに歩いている。
一方自分はと言うと、とある一人の天才が生み出した文明の利器を片手に、この空間の情景を一つ上のレベルへと引き上げている。
最新のスマートフォン。圧倒的優越感だ……
そう、自分は今、かつての自分が憧れた向こう側にいる。
スタイリッシュなフォルムと使いこなせないほどの多機能。そんじょそこらの携帯電話とは違う、パソコンみたいなもんなのさ。
あっ、あの人もスマホ……容量おっきいやつかな……
……別にいいけどね?前世で使ってたやつだったら、勝ってるから。
しかし、誰も彼もがスマートフォンを所持していたあの時代。人々は下を向き、両手はこの板切れに縛り付けられ、その瞳に映るのは電波に乗ってやってきたどこかの誰か。それだけだった。
だからこそ、それを持たない人類は空の青さに思いを馳せた。夜空に瞬く星々に、悠然と流れる雲達に、恋焦がれて歌を唄った。
ともに道行く者と手を繋ぎ、愛を囁き、共に笑い、共に悲しんだ。
それが、自分はどうだろうか。
今の自分は…………っ、こんなものっ!
「お待たせしました……。えっ、どうしました?」
「くっ…………なんでもないっ」
「……?じゃあ、行きましょうか」
手に持ち、振り上げたスマートフォンを虚しく思う。不思議がりながらも、一華は切符を買いに券売機へ向かった。
卒業式から五日経った春休みのある朝。今日は遊びに行くわけではなく、一華の二次募集の合否結果を東砦高校まで見に行く。
メールだったり中学校へ通達するなりして、手っ取り早く済ませれば良いのに、高校まで赴く必要がどこにあるのか。
とはいえ、こうして受験番号を確認しに行くのも、ある種の様式美のようにも感じる。
付き添いといえど一華が制服なのに自分は私服というのは忍びなく、思っていたよりもかなり早く、再び中学校の制服に袖を通すこととなった。
列車の横並びのシートに二人で座っていると、まだ卒業した実感が湧いてこない。窓際を譲ってくれたのが地味に嬉しい。
「今日はありがとうございます。一人だと寂しくて……。お母さんもよろしくって言ってました」
「ええよ、どうせ暇やしな。お仕事大変そうやな」
「でも楽しそうにしてますよ。ちょっと複雑ですけどね」
先日のこともあって、どんな距離感でいるべきか迷っていたが、彼女は前と変わらない態度で接してくれている。
というより先程から肩がピッタリとくっついていて、卒業前より近くなったように思う。
「えっと……あれ?ウチ、一華にダメって言われへんかったっけ?」
「ふふふっ、言いましたよ?でも、私がアプローチするのは良いんです。じゃないと私だけを見てはくれないでしょ?」
「……歪やぁ」
「あなたにだけは言われたくないです」
反論の余地もない。大前提として変えたくない未来があるというのに、こうして気持ちが揺らいでいる自分が悪いのだ。
先日のことは、彼女にそれを叱られたようなものだ。しっかりしろと、中途半端だぞと。
やるべき事を、間違ってはいけない。
だからあの、余計に揺らぐようなことはね、その……
一度気づいてしまった気持ちに嘘はつけず、さりとて受け入れることは許されない。
自分の手を愛おしそうに愛でては、自身の頬にそっと擦り寄せる彼女。サラサラとした髪の感触と、不意に触れた唇の柔らかさが、脳の良くないところを破壊している気がする。生殺しに殺されそうだ。
「いちかぁ……もう、分かってやってるやろ」
「おかえしですっ、耐えてください」
目的の駅までの約三十分間、されるがままに一華に遊ばれていた。
電車を降りる頃には、のぼせ上がったように思考が単色だったと思う。
「あぅ……あぅぅ……」
「さて、行きましょうかっ!」
「まってぇ……ウチまだ切り変わってないからぁ……」
一華はよたよたと歩く自分を置いていかんばかりに改札を抜けると、一度深呼吸をしてから振り向いた。
胸の前で所在なげに握った手は、震えるまでいかずとも緊張しているのが伝わってくる。
「……大丈夫ですよね。いっぱい勉強したし、見直しだって……」
不安になるのも無理はない。二次募集で不合格だった場合、その先の進路はかなり限られたものになる。
一般選抜の試験に落ちたときの記憶が、今も彼女の中には色濃く残っているのだろう。
「……大丈夫やで一華、いっぱい勉強してたやんか。それにほれっ、一緒の高校行くんやろ?」
硬く握った彼女の手をほぐし、高校へ向かって手を引いて歩く。
まだ春と冬が混在する三月下旬。今日は運良く暖かい春風が頬を撫で、開花したての桜を一緒に運んできてくれた。
心許なさそうだった彼女の瞳が、少し前を向いたような気がした。
春樹と巴から借りた分と、自分のものと合わせて三つ、合格祈願のお守りを鞄から取り出して一華の鞄にくくりつける。
「いこっか」
「……ふふっ、そうしましょう」
飽きるほど見慣れた通学路。少し長い道のりを歩いて通い、たまに気晴らしにバスに乗って通い、少なくない思い出のある道。
それを今、違った未来を連れて歩いている。
賑やかな通りを抜け、急で長い坂を上っていくと、東砦高校に到着した。
「はひっ……わたしっ、三年間、大丈夫かなぁ……っ」
「ふぅっ……いやほんまっ、結構きついよなぁ……あ、一華!あれや、掲示板あるで!」
校門の先に、一般選抜のときと同じ場所に立てられた掲示板を見つける。
すでにそこそこ人だかりが出来ていて、合格を喜ぶ声が聞こえてくる。
疲れた両足に気合を入れ直し、二人で校門をくぐると、一華は慌ただしく受験票を取り出した。
「えっと、二十七番です!」
「二十七ね!にじゅっ……」
掲示板の大きさの割に並んでいる数字は少なく、二十七番という一華の受験番号は、探すまでもなくあっさりと見つかった。
「……あったな」
「……ありましたね」
喜ぶ準備も終わっていない。なんならまだ坂道を登ってきた疲労が尾を引いている。
だけどそれでも、たまらなく嬉しかった。
隣を見ると、今か今かと飛び込んで来そうな一華が、その溜めた喜びで両足をバネにしている最中だった。
——受け止めよう。分かち合おう。未来を。
「ひな——」
「あ、合格者の方ですか?こちらで手続きお願いします」
「……た」
空気の読めない教師に声をかけられ、一華は連れて行かれてしまった。前世の高校二年のとき、数学を担当してくれていた先生だった。いつか文句を言ってやろう。
聞くところによると、諸々の手続きや制服の採寸等をこれから行うらしく、結構な時間がかかるとのことだった。
慌ただしく校舎に消えていった一華の背中を見送ると、なんだか手持ち無沙汰になってしまった。
「……久しぶりに、歩こっかな」
一華を待っている間、久しぶりの母校を見て回ることにした。
正面玄関の事務室へ行くと、これまた見覚えのある事務員に対応してもらう。
四月からの新入生で、今日は学校見学でやってきたというと、快く入校許可証を貸してくれた。
廊下に飾ってあるトロフィーが懐かしい。在学中はまじまじと見たことはなかったが、何故か眺めていて楽しくなった。
未だに東砦の校歌を覚えているし、教員の名前だってだいたい分かる。
なのに浮き足だって廊下を歩く自分は、この学校にとってまだお客さんなのだろう。
新しい場所に足を運ぶたび、不思議な高揚感に包まれた。
あまり使われていない傘立てとか、いつかの卒業生が寄贈した絵画とか。
記憶から落っことした物たちがどんどん輪郭を作っていく。
入っていた部活の方も顔を出してみた。校舎から出て校庭の横にある部室棟、その一階の奥にある軽音楽部。
関ヶ原秋と初めて会った場所。といっても、初めて会った時のことは全然覚えていない。
「髪の長い女子がいるなぁ」ぐらいの印象で、それからしばらく経っても、自分にとっては同じ部活にいる、ちょっと怖い女子という認識だった。
少しずつ話すようになって、二年でクラスが一緒になって、一緒に部活に向かうようになって、初めて秋を笑わせたときは、その無邪気な笑顔をちょっと可愛いなって思って、部活が休みだったのを忘れていて、一緒に部室で夕方まで話した。
帰り道、初めて手が触れた時、その手を握りたくてたまらなくなった。
「おっ、もしかして新入生かな?ちっさいねぇ!軽音部興味あるの?案内するよ?」
「……あ、けーすけ先輩や」
「えっ、あれ?悪いっ、どっかで会ったことあるっけ……?」
「きひひっ……初対面ですよ。たまたま知ってただけですわ」
つい、いたずら心が顔を出して名前を呼ぶと、よく知る顔より少しだけ幼い顔つきの小田原景助先輩は、露骨に狼狽えて申し訳なさそうにした。
明るめの茶髪を地毛だと言い張り、軽薄そうな見た目の通り女癖が悪い一つ上の先輩。そのことでよく、秋から怒られていたのを覚えている。良い人なんだけどね。
「入学したらまた来るかもです。ドラム頑張ってくださいね」
「お、おう……?あれ、なんで……?」
先輩の間抜け面を尻目に、部室棟を後にする。
久しぶりに高校時代の知り合いを見て、いよいよ歯車が動き出したように思う。
また来よう。絶対に。秋に会いに。
あの人生計画をまっとうするためにも。
——大丈夫。絶対に大丈夫。自分がこうなんだから。
その後、校内散策も飽きてきたころ、一華から諸々の手続きが終わったとの連絡が入った。
校門の前で合流すると、彼女はかなり疲れた様子で歩き出した。
「お疲れさん。手続き上手いこといった?」
「はい、でも保護者に書いてもらう書類もあるので、そっちは後日郵送で送るみたいです」
「そっか……」
「……どうしました?心配事でもありましたか?」
心配事、と言われて、ぎゅっと口を閉ざしてしまう。
東砦に来て、歯車が動き出した気がした。
ずっと胸の奥に引っかかっていたものが、ついに目の前まで迫ってきたような気がする。
……一華なら、否定しないかな。
「……あんな、えっとな……ウチ、秋がな、————」
優しい彼女は、自分の話を親身になって聞いてくれた。
それが嬉しくて、たくさん話した。
自分が信じる、未来の話を。




