66.今日の続きを
ほつれかかった袖に、くたびれたネクタイ。アイロンを当てたというのに、いまいちピシッとしてくれないスカートも、夏用冬用あわせて四本持っている中で、一番マシな物を選んで履いた。
次にこの少しだけ緑がかったブレザーに袖を通すときは、不本意にもコスプレ扱いされるわけだ。……大事に仕舞っておこう。
父も母も、後から車で来るとのことで、自分はこの油が切れて不快な音を出すようになった自転車で出発した。前世は車の整備士だったのだから、自転車に油ぐらい差せと春樹に言われたが、何故か、車の整備士は自分の車の整備はしたがらない。
くだらない思考の末、たどり着いたのは文句を言ってきた張本人の家。昨日、家に起こしに来たときは、なんだか不機嫌だった。
彼の部屋の扉をゆっくり開けて中を確認すると、案の定、今日もへそを曲げているみたいだ。
「おはよーさん、目覚ましひなちゃんやで……」
「……」
恵方巻きのように布団にくるまり、端からは具材の代わりに髪がはみ出している。つつこうとも揺すろうとも無言の春樹を起こすのに、昨日は苦戦を強いられた。
今日も今日とて強固な鱗に覆われた彼は、簀巻きの中でそっぽを向いている。
「ハルぅ……ごめんやんかぁ、許してぇやぁ……」
「……一言ぐらい、相談欲しかった」
「あぅ……すいません……」
唸るような低い声でそう言われると、肩を小さくする他なかった。こんなふうに不機嫌になった春樹を見たことがないので、どう取り扱ったらいいか分からない。
何か話題になるものはないかと、部屋の中に視線を泳がせていると、盛大なため息を吐きながら春樹が布団から出てきた。
「そもそもお前、一華と付き合いだしたなら、朝起こしに来るのも良くないだろ……」
「へっ?ウチら付き合ってへんよ?」
「……はっ?じゃあ、なんでお前らあんな……えっ?」
「……」
さて、今日は三月十七日、本日は卒業式当日。長かった三年間にピリオドを打つ日だ。やっと着こなせるようになってきた制服とも、今日でお別れ。走り慣れた通学路とも、今日でお別れ。さようなら春樹。先に学校へ行ってるよ。
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「はぁっ……はぁっ、おまえっ、なんで、先行くんだよっ」
「チッ……追いつきおったか……」
卒業式らしく校門には色鮮やかなアーチがかかっており、自転車で優雅にくぐり抜けているところへ、息を荒げた変質者が追いかけてきた。
残念ながらアニメや漫画のように、桜舞い散る中を通り抜けることはなく、なんならまだ開花すらしていない。
右手側に運動場があって、春樹が朝練に励んでいるのを横目に見ながら、昇降口へ向かっていた。
下駄箱で上靴に履き替えるとき、靴を逆さにして何も入っていないか確認する癖がついた。一年生の時に画鋲が入っていたのが、いまだに心に残っているから。
そういえば、当たり前だけど市川響子もどこかの中学校を卒業しているのだ。まさか、東砦に来ることはないとは思うが、絶対無いとも言い切れない。これだから、未来を変えるのは怖いんだ。
「ハルは三年間で、何が一番思い出深い?」
「三年間か……どうだろ、やっぱあれかな、二年の体育祭。お前を保健室まで運んだときの、なんかドラマみたいだなぁって思ってた」
あぁ、自分の中でも印象深い出来事だ。男が怖くなって以来、春樹にすら触れられなかった自分が、初めて手を握ることができた日だ。
運んでもらっていたときの彼の背中のぬくもりは、今でも覚えている。あのあたたかさに安心して、少しづつ日常に戻れるようになった。
思い出話に花を咲かせながら三年五組の教室に向かうと、少し離れたところからでも聞こえるほど、教室内は盛り上がっていた。それもそうか。三年間共に過ごした仲間たちとも、今日でお別れなのだから、熱い話の一つや二つ、なんなら教室で告白大会でもしているかもしれない。青春の一ページってやつかな。
教室に入るタイミングを見計らおうと思い、扉から中の様子をうかがうと、健人と鉄平が上靴で卓球をしていた。ポイントが入るごとに周りの男子が歓声を上げ、気持ちのいい汗をかいている姿は実に滑稽だった。
「あ、ヒナ!やっときた。ちょっと手伝ってよぉ」
冷ややかな目で男子諸君を見ていると、その奥にいた巴から声をかけられる。どうやら女子の髪を整えているみたいだが、彼女の周りは人だかりになっていた。
「はいはい、どしたんよ?あ、おはよ」
「おはよっ!えっとね、みんなの髪、することになったんだけど、ちょっと間に合いそうになくて……」
何人かで手分けしてやっているが、まだクラスの女子の半分も終わっていなかった。何故家でやってこないのだと言いたくなるところだが、セットが終わって嬉しそうに写真を撮り合っているのを見ると、その和に入りたくなってしまう。
「しゃあないなぁ……巴師匠の愛弟子も参戦しますか、待ってる間ブラシでも当てといてぇな」
「ごめーん、あとでヒナの分もやるからね」
こういうとき男子は楽だったと思う反面、可愛く仕上がったときの嬉しさを知ってしまった今、もう戻りたくないと思ってしまう。
一人、二人と卒業式らしい上品なアレンジで仕上げていき、三人目に声をかけようとすると、ストンと一華が椅子に座った。
「ふふっ、私もお願いします。日向のおまかせで」
「珍しいな、一華はいつもそのままやのに」
「みんながやってるの見てたら、なんだか楽しそうだなぁって」
彼女も二年生の頃から髪を伸ばし始めて、肩甲骨に届くか届かないかといった具合だ。少し癖っ毛の栗色の髪を編んでいき、後ろでお団子にでもしようかと、髪を持ち上げると首筋が見える。
……なんというか、ちょっと妙な気分になってしまった。一度意識してしまったら思い出す。一華の瞳とか肌とか、えっと……口とか指とか……
ビシッと、彼女が顔の前で何かを掴む音がして我に帰る。ゆっくりと一華が腕を下げて手を開くと、凹んだピンポン玉がそこにはあった。
「いやぁ……悪い悪い。手元、狂っちまったよ……」
春樹だ。いや、春樹さんだ。顔が怖い。
「……まったく、気をつけてくださいね?もう少しズレてたら、日向に当たるところでしたよ?」
「あははっ、それはねぇよ。ソイツは裏切り者にしか当たらねぇ」
「……」
「同盟は解消だァ……先に条約を破ったのは、どうやらそっちみたいだからなァ?」
二人の間で剣吞な空気が流れる。一華が指で弾いたピンポン玉が春樹の頬を掠めて背後に着弾。しかし、彼は微動だにせず不敵な笑みを浮かべてみせると、さらに闘気を高めた。それに呼応するように、一華は魔力を練り始め、教室全体が悲鳴を上げる。
「ふ、ふたりとも……ウチのために喧嘩は……痛いっ!?」
巴に殴られた。グーで。
条約違反による報復戦は、朝のホームルームまで続き、渚先生の説教により幕を閉じた。なんだよ魔力って。
妙なテンションのまま体育館に入り、在校生から拍手で出迎えられる。
五組だけ浮ついた空気で始まった卒業式だったが、卒業証書の授与が始まると、次第に落ち着いていった。
なんとなく天井を見上げると、バレーボールが挟まっているのを見つけた。多分、何年も前から挟まっているのだろう。自分が卒業しても、これからもずっとあそこにあるのかな。だとしたら、ほんの少し羨ましい。
——高校、行かなきゃいけないのにな。
「夏野日向」
「ぁ……はいっ」
呆けていたからか、上擦った声が出た。周りのクラスメイトにクスクスと笑われながら席を立って、壇上に向かって歩く。
名前もちゃんと覚えていない校長から卒業証書を受け取った際、小声で「君のことは忘れないよ、おめでとう」と言われた。そんな言葉を聞いたからか、やり残したことが沢山あるんじゃないかと、そう思ってしまう。
小学校の時もそうだった。前に進まなくちゃいけないのに、自分はこの先にやらなくちゃいけないことがあるのに、卒業したくない。そんな気持ちに後ろ髪を引かれながら、体育館を後にした。




