65.真っ暗なその先に
何もかもが変わってしまった六年前のあの日、不安と混乱に押しつぶされそうだった。ひょんなことから、前世とほぼ同じ出来事が起こると分かったときは、胸の内に希望の火が灯ったようだった。
心配事はある。問題も山積み。それでも確かに、世界の一挙手一投足が、心を打ち鳴らしてくれた。
こんなふうに、なんの色もない部屋でくたばってる未来なんて、人生計画には書かなかった。
微かな息遣いだけが聞こえる室内で、たまに意味もなく指を動かしては、ベッドを擦って布切れ音を出す。
なんだかこうしていないと死んでいるみたいで、どうでもいいのに、自分の存在を確認していた。
そんな布切れの音すら静かな部屋に消えていき、虚しく思って、手首の傷に爪を立てる。痛くない。
一華の家族も、彼女が選んだ未来も、全部自分がぶっ壊した。
間違っていたのだ。人生を良くしようとしたことが。六年間生きていたこと全てが。
不意に音を出した携帯電話が、また心をざわつかせる。巴からのメールを確認した時の、心が寒くなるようなあの感覚はもう嫌だ。
そんな思いとは裏腹に、催促するようにもう一度携帯がメールの受信を知らせる。
恐る恐る受信ボックスを確認すると、差出人の名前に情けない声を上げる。
「一華っ……ぅ、おぇっ…………なんでっ……」
家のインターフォンが鳴り、一階で母が対応している声が聞こえる。相手の声なんて聞こえないのに、何故か、誰だか分かる。玄関のドアが開いた。さっきまであんなに動いていなかった世界が、目まぐるしく回りだした。
どこに隠れたらいい?窓から逃げるか?もしかしたら足、折れないかもしれない。でもコンクリート痛そう。鍵もかけてない!馬鹿だ!
コンコンと、部屋の扉をノックする音が聞こえた。
携帯の画面には『今、おうちにいますか?』と表示されている。
「……」
「日向、入りますよ?」
ガチャッという音と共に、ドアノブが四分の一周ほど回り、扉が外側へ向かって開く。
布団を被ろうとしたけど、自分が上に乗ってて持ち上げられなかった。何もかもが情けない。そんな自分の部屋に、彼女が入ってきた。
「ぁ……いち……か……」
「……」
静かに怒っている。なんとなく、失望とか、軽蔑とか嫌悪とか、そんな感情を宿しているように思える。
無表情だった一華が少しだけ眉をよせて、叱るような声色で自分に問いかけた。
「……お風呂入ってますか?」
「あぅ……ごめんなさい……」
「別に、謝らなくていいですよ」
恥ずかしい。何やってるんだ自分は。消えてしまいたい。
今更になって顔が熱くなるのを感じる。そんなこと気にする資格もないのに。
一華が窓を開け放つと、肌寒い風が淀んだ空気を押し出していった。なびいた髪を直してこちらを向くと、ため息を吐いてからベッドに腰を下ろした。
自分から見て右側に座ったので、左手は体で隠した。
しばらくの間、沈黙が二人の間に流れ、先に破ったのはどうしようもないほど情けない言葉だった。
「もう、帰ってほしい……」
「……どうしてですか?」
「なんて謝ればええか分からんよ……ごめんなさいって言っても、許されるようなことじゃないし……」
「……まあ、慰めの言葉ぐらい欲しかったですけど。学校にも来てほしいですし」
顔を上げると、辛そうな顔の一華が目に入る。自分が慰めたところで何の意味があるのだろうか。
全ての元凶が、自分を不幸に叩き落とした張本人が慰めてきたら、少なくとも自分ならその場で掴み掛かる。
「四月から新しいおうちで暮らすことになりました……って言っても市内ですけどね。メールで住所送っておきますね」
「一華……あかんよ。もうな……」
「ちょっと駅まで遠くなっちゃうから、バイトして、原付の免許取ろうと思ってるんです。日向も取るんですよね?なんかちょっとだけ楽しみだなぁ……」
「一華っ」
誤魔化しきれない悲しみを顔に宿したまま、一華は明るい声色で未来の話をした。一緒に過ごそうと、そう言っている気がして、いたたまれなくなる。
もう彼女の隣に、自分の居場所なんてあるはずがないのに。
「やめてっ……なあ、怒ってぇや……ウチのこと。き、消えろって言って……っ、二度と顔見せんなって……言うてよっ……ほんだらもうさっ……一華の人生に関わらへんから……」
「……」
「どう考えてもウチのせいやんかっ……一華の両親がっ、離婚したんも……っ、西城落ちたんもっ……一華のこと不幸に、してんのも……ウチやんか……何で責めてくれへんの?死ねって……」
「っ……!勝手なこと言わないでっ!」
言葉の途中でいきなり押し倒され、思わず小さく悲鳴をあげてしまった。
馬乗りになってこちらを睨みつける彼女と、今日初めて目が合った気がする。
「私の人生は、私のもの!日向には関係ないっ!お父さんとお母さんのこと、馬鹿にしないでよ!」
「うっ……ご、ごめんなさいっ……」
手首を抑えられ、思い出したかのような鋭い痛みに、歯を食いしばって顔を歪める。
一華のブラウンの瞳が揺れたかと思うと、狭かった視界が広がっていった。
手首から手のひらへ、彼女が指と指を絡めるように手を握ると、安心するようなあたたかさが伝わってきた。
「でもね……私が幸せなのは、あなたのおかげ。生きたいって……そう思えるのも、あなたのおかげ」
そう言って自分を抱き寄せた一華の鼓動が、自分の胸から鳴ってるみたいに心地良く響いた。
ざらついていた胸の内が、呼吸するごとにほぐれていく。
「自分は幸せだ」と、彼女のそのまっすぐな言葉が、心に火を灯したようだった。
「……こわいよ、また誰かの人生変えてまうかもしれんやんか」
「普通のことです。私だって、あなたの人生を変えたでしょう?」
少しずつ変わっていく未来が怖い。自信を持って歩いていた一本道が、まるで迷路に迷い込んだように心細い。
だから、そのあたたかさを手繰り寄せるように、一華の背中に腕を回して抱きしめた。
自分が彼女の存在を確かめるように、一華も自分の存在を証明してくれている。
嬉しい。生きている。
しばらくしてお互いに腕を解いて離れる。今更になって一華が上に乗っていることが、なんだか落ち着かない気分になる。
彼女も同じ思いなようで、赤くした顔をパタパタと手で扇いでいる。
「あ、あはは……なんだかちょっと……ねぇ?」
「う、うん……あかんよ……」
「えへへっ、お、襲っちゃいますよぉ、なんて、あはは……」
「……おっ……」
「……?おっ?」
「……お風呂入ってないから、あかんよ」
「????????????????」
「あっ……あかんって、汚いからっ……んぅっ……」
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三月十五日、卒業式の二日前。午前中で学校から下校し、そのまま駅前のファーストフード店でダラダラと過ごしている。
机を挟んで向かいでは、春樹がポテトをつまみながら携帯ゲーム機で遊んでいる。向かって右手では、巴がファッション誌を開いており、クロスワードに悪戦苦闘している。
自分はというと、スマホだ。最先端、最前線、最北端。ついに日本にも普及しだしたスマートフォンを、高校の入学祝いに買ってもらった。へぇ、まだ携帯パカパカしてるの?ふぅん……
物理ボタンを否定するわけではない。むしろ文章を打つときは、誤字が少ない物理ボタンは最強とも言えるだろう。しかし、タッチスクリーンでしか実現しないゲーム体験が、スマートフォンのアプリには詰まっている。まだアプリ開発が進んでいないとはいえ、暇を潰すには無敵のガジェット筆頭株を手に入れた。と、いうのにだ……
先ほどからスマホの背面の、林檎の齧られた部分をずっと中指で弄っては、落ち着かない心を誤魔化している。
一時間ほど前に一華から『試験終わりました!もうちょっとすたら学校出ます!』と、誤字のあるメールが届いていたので、もうそろそろ着く頃だとは思う。
「一華、大丈夫やったかなぁ……」
「あんなけ人様に心配かけまくってた奴が何言ってんだ?」
「あんたほんと、反省しなさいよ?」
「はひぃ、ごめんなさい……」
机の下で二人から足蹴にされていると、入口の方で店のクルーの元気な挨拶が聞こえた。なんと、無料で笑顔もついてくる。
弾かれたように顔を上げると、こちらを見つけた一華が、柔らかい笑顔で手を振ってくれた。
「一華っ!おかえり!」
「はい、一華ですよ。ただいま帰りました」
左手側に座った一華が、机の真ん中に置いてある冷めたナゲットを遠慮なく食べ出す。どうやらお腹が空いていたみたいだ。口いっぱいに頬張っているのが可愛い。
「お疲れさん、試験どうだった?」
「ばっちしです!見直しまでしっかりやりましたから!」
「ふふっ、なんだかんだで、みんな同じ学校になったね!いっかちんには悪いけど、私はやっぱり嬉しいよ」
西城高校に落ちた彼女は二次募集の受験先を、定員割れしていた東砦高校へと定めた。
元々進学校を目指していた彼女の学力なら、心身ともに良好な状態であれば、東砦に落ちることはないだろう。
そんな一華が、自分とお揃いのスマホを取り出して、こちらに席を寄せてきた。
「あのね日向、なんだか画面が暗くなっちゃったんですけどどうやったらもとに戻るんですか?」
「んー?あぁ、これね。お外明るいと、勝手に画面暗くなんねん。設定開いて……ほいっ」
若者がスマートフォンの基本操作に戸惑っている時代。操作指南の教室とか開いたら、もしかしたら金字塔になれるんじゃないだろうか。
「いいなぁ、スマホ……私も欲しいよぉ」
「いいでしょう!あれ、ともちん……まだパカパカさせてるんですか?あ、逆に?」
「はぁーー!?喧嘩か!?今度は私と喧嘩するか!?」
スマホによっぽど浮かれているのか、受験がひと段落した気の緩みか、珍しく巴をからかって遊ぶ一華。一緒に撮った写真に落書きをして笑い、うっかり落としたスマホが割れていなくて安心して、また笑う。幸せそうにしていた。
一華にオススメのアプリを教えるために画面を覗き込んでいると、向かいに座る春樹が、勘ぐるように一華に声をかけた。
「なんか最近……二人近くねぇか?」
「うん、私も思った。なーんかね……」
「ふっふっふ……どうしてでしょう?ね、日向?」
「んんっ…………や、やめてやっ!あほちゃうっ!?」
怪しい声色で耳元で囁く一華に、顔が茹で上がっていくのを感じる。彼女が机の下で意味ありげに指を絡ませてきて、知らず知らず体が火照ってしまう。
春樹の愕然とした顔と、巴の納得したような顔が、羞恥心をさらに加速させる。
「おっ……おまっ……ひな、お前っ」
「ああっ!せやせや、苗字っ!一華の苗字よ、ふぅ……どないなったん?」
自分の態度に、一華はしばらくポカンとしたあと、鞄から紙切れを一枚取り出した。よく見ると二次募集試験の受験票で、受験校と受験番号、それと氏名の欄に名前が書いてあった。
「私、冬咲一華になっちゃいました」
ちょっと困ったような顔で笑う彼女は、新しい苗字と新しい未来。そのどちらにも、ゆっくりと、追いついていくのだと語ったのだった。




