64.明るい未来
無の状態から少しずつ自分を認識していき、意識が完全に起き上がる前に、鉛のように重たくなった身体を自覚する。
息をすることさえ億劫で、胸の窮屈さに現実を思い出し、飽きるほど泣いたというのにまた涙が出てくる。
誰にも会いたくない。自分という存在が、知らず知らずに変えた未来で、誰かが不幸になるかもしれない。
一華に会わせる顔がない。謝罪の言葉なんて、最早何を言っていいかも分からない。
春樹だってそう、夢を追った先で出会った人との結婚も、全部全部ぶち壊した。
巴だって、この先どうなるか分からない。そんなの当たり前と言えば当たり前だけど、もう誰かの人生を変えるようなことはしたくない。
「ひなっ!あんた今日受験やろ、出てこいっ!」
扉越しに姉の夕陽から叩き起こされるのは、いつ以来だろうか。受験と言われて、反射的に身体を起こすと、何も考えないで準備を始める。
先週から部屋に放ったらかしだった鞄を掴んで、今にも蹴破られそうな扉をあける。
「……ごめん、行くわ」
「お、おぉ……大丈夫か?目ぇガサガサやで」
外の明かりを見て軽く目眩を覚えて深いため息を吐くと、早くも部屋から出たことを後悔した。
泥の中に沈んでるような気分のまま、一階へ歩き出そうとすると、無意識に掻きむしっていた手首を夕陽に掴まれる。
「……あんたこれっ!」
「痛っ……ごめんっ……っ、い……」
まだ新しい瘡蓋が破れて、湿った感触を手首に感じる。
夕陽に見られた。いたたまれない罪悪感と羞恥心が合わさって、逃げ出したい思いだった。
それに、声色からも怒っているのが分かったから。
「おかっ……。あぁ、もう!ちょっと待っとき!」
そう言って自分の手を離すと、自室の方へ消えていった。
ドタバタとうるさい足音を立てながら戻ってくると、また自分の手を取った姉は、傷の上に黒いリストバンドをかぶせた。
「なんでこんなことすんの……?受験……はあんた余裕やろ?もしかして、またいじめられてるんちゃうやろな?」
「ちゃうよ……しんどなっただけ」
「……言えや、私からお父さんに言うぞボケ」
そう言われて、いじめのことを相談しなくて散々叱られたことを思い出す。姉の剣幕にも押し切られ、不本意ながら掻い摘んで話すことにした。
自分のせいで、一華に取り返しのつかないほど悪い事が起こった。もう人と関わるのが怖いと、誰かの人生に影響を与えるのが怖いと、そんなことを打ち明けた。
「ふーん……」
「……興味無いんやったら聞かんといてや」
「いや、うーん……別にあんたのせいちゃうと思うけど……」
何も知らなかったら、前世など何もなかったらそう思えたかもしれない。だけどそうじゃない未来を知っているから、自分のせいで間違いない。そうとしか思えなかった。
「……もう行く、リストバンドありがと」
「あ、せや……受験票。昨日ハルが持ってきてくれたで。最寄駅に八時集合言うてた」
二週間ほど前に記入した受験票を手渡されると、複雑な気分でそれを受け取り鞄にしまう。
どんな顔して会えばいいのか、出来ることなら会いたくない。だけど、受験の日まで顔を見せなかったら、余計に心配をかけそうだ。
「ひな……少なくとも私は、あんたのおかげで高校楽しいよ」
身に覚えのない言葉を背に受けて、重い足取りで家を出る。
忌々しいことに、空は気持ち良いほど晴れ渡っていた。
知らない間に自転車は家に帰ってきていた。これも春樹が届けてくれたのだろうか。
最寄駅へ着くと、春樹と巴と桜が問題集を見ながら待っていた。目が合うと春樹と巴は安心したように息を吐き出し、申し訳なく思う反面、顔を合わせるのが気まずかった。
「良かった、来なかったらどうしようと思ったよ……」
「……ごめん」
「とりあえず行くか」
丁度ホームに停まっていた快速列車に乗り込む。満員とまではいかずとも、そこそこ混雑した車内は席が埋まっており、扉に背中を預けて立つ。
喋らない自分と、どう声をかけるか伺っている二人と、状況が分からなくて双方に目を泳がせる桜の三すくみの構図が出来上がった。
しばらく無言で電車に揺られていると、最初に均衡を破ったのは桜だった。
「喧嘩したのぉ?」
「……ちがうよ、なんというか……すれ違いかな」
「ま、それにしても連絡ぐらい返して欲しかったけどな」
その言葉を聞いて、初めて携帯を開けた。メールが二十六件溜まってて、着信履歴はその倍ほど、我ながら呆れるほどの放置っぷりだった。
画面を三人に見せると、信じられないといった面持ちで自分に目を向けた。
その視線から逃げるように携帯に視線を落とすと、春樹や巴からの心配するようなメールや、クラスメイトからの連絡、学校からの着信。
一華からの連絡は、メールも電話も無かった。
また、ずんと心が重くなって、携帯をしまってリストバンド越しに手首をいじる。
しばらくすると、東砦高校の最寄駅に電車が止まり駅に降り立つ。改札を抜けて、見覚えのある駅前ロータリーまで来ると、近くにあった地図看板に三人を集める。
「今ここや、このデカい道まっすぐ行って、左手に小学校あるから、通り過ぎたら右側に長い坂が見える。それ登って行ったら東砦や。歩いたら二十分ちょいや、バスも出てるよ……」
ちらりと三人を見ると目が合い、先週、自分に向けられた視線と重なって見えた。
足がすくんで逃げ出したくなる。これ以上、誰の人生にも踏み込みたくなかった。
二人と気まずい空気のまま一緒に歩く勇気もない。
「ごめん、先行くわ」
「待って!ヒナ、大丈夫だって。誰もヒナのこと恨んだりしてないから」
巴に左手を掴まれて、思わず勢いよく振り解いてしまった。
驚いた顔の彼女に申し訳なさを覚えつつも、突き放そうとしているのに、手首の傷を後ろめたく思って自己嫌悪に陥る。
気分の悪くなるような感情が、また腹の底から湧き上がってきた。
「ほっといて……お願いやからっ!」
「待てって!」
走り出そうとした自分に、春樹が立ち塞がる形で視界に入ってくる。巴なら躊躇しただろうが、彼なら遠慮はいらない。押しのけてでも行こうと体当たりすると、跳ね返されて尻餅をついた。むかつく。
春樹が自分の鞄から何かを取り外してこちらに放り投げる。無視するわけにもいかず、胸の前でキャッチすると、受け取ったそれは合格祈願のお守りだった。
「せめてそれ、持って行ってくれよ……俺たち、お前と高校行けるの楽しみにしてるんだよ」
優しい笑顔を向けられて、思わず目頭が熱くなる。こんなことでいちいち泣きそうになるぐらい弱い自分が嫌になる。
いつのまにか隣にいた巴も、自分の鞄にお守りをくくりつけていた。
次に二人の視線が桜に向き、自然と合わせるように彼女を見ると、たじろぐように後ずさってお守りを隠した。
「えぇ、私のはあげないよぅ」
春樹と巴が思わずといった様子で吹き出して、それに釣られて桜が笑う。
そんな三人が眩しくて、目を背けたくなって逃げ出した。もう消えてしまいたい。
そんな思いと裏腹に、未来への道を高校に求めている。
どうすればいいのか分からない。
どうすれば、誰も不幸にならないのかも……
深くなっていく泥だまりの中を走っている。そんな心細さに安心感を覚えながら、三人に背を向けて逃げ出した。
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「行っちゃったねぇ……」
走り去っていくひなの背中を見て、状況を把握していないままの宮崎が、心配そうにそう溢した。
どう説明したものか。今朝、合流した時から彼女もひなを心配していたので、話してあげたいのは山々なのだが……
「あの、すいません。東砦高校を受けるんですけど……道って分かりますか?」
意識の外、駅の方から声をかけられて振り向くと、知らない制服の女子生徒が立っていた。
長い黒髪に、少しだけ赤みがかったような黒い瞳。身長は多分、隣にいる柊と同じぐらいだ。少し冷たい印象を受けるその他校の生徒は、紛れもなく初対面だ。
……誰かに似ている。誰だ?
「あぁ、俺たちも東砦受けるんで、一緒に行きましょうか」
「すいません、ありがとうございます」
まだ時間に余裕はあるので、ゆっくり歩いて東砦高校に向かう。
妙な既視感を覚えるのは俺だけではないようで、柊も不思議そうに彼女を見ている。
特に会話が弾むわけではないけれど、妙にテンポだけが合う。
初対面のはずなのに、彼女の所作に引っかかる何かがある。
「どこかで会いましたか?」そんな、ナンパの常套句を投げかけたくなるような、妙な既視感。
「じゃあお互い受かったらさぁ、連絡先交換しようよぉ、えーっと……私、宮崎桜ですよぉ」
「あ、関ヶ原秋です。受験頑張りましょう」
「出たっ!!」と思わず叫びそうになるのを必死に抑えて柊を見ると、同じように驚いた顔でこちらを向いた彼女と目が合う。
ひなの前世の奥さんだった人が目の前にいる。超常現象でも起きたような気分だった。
いきなりの遭遇に思わずジロジロと見てしまい、訝しむような視線が返ってくる。
「……なんですか?ウチの顔になんかついてます?」
「ふふっ……いやごめん、友達に似ててついな」
俺の言葉に物言いたげに眉を上げる様子も、口の端から空気を出すため息の吐き方も、面白いぐらいひなと似ている。
秋からの第一印象は悪くなるかもしれないが、柊と二人で顔がニヤけて仕方がなかった。
「ねぇ、宮崎さん。あの二人ウチのこと馬鹿にしてる?」
「んんー、ほんとにねぇ……関ヶ原さん、なんだか友達に似てるのが、面白いんだよぉ。日向っていう子」
「ひなた……?同級生?」
「うん。東砦受けるよぉ、いい子だけどぉ……なんか走ってっちゃったぁ」
「ふーん」
興味なさげに話を切ると、そのまま特に話すこともなく高校まで歩いていく。
かなり長い坂道に、桜と秋が息を切らしながらも、なんとか校門をくぐる。
受付を済ませると案内に従って受験番号が振り分けられた教室へ向かう。どうやら秋とは別の教室のようだ。
まだ試験までは時間に余裕があり、各教室を覗くと、受験生達が最後の追い込みに励んでいる。
そんな中、自分たちが試験を受ける教室で一人、机に突っ伏している奴がいた。
「あ、ほら……あれが日向だよぉ、あの寝てる子ぉ」
「……余裕そうね……むかつくわ」
軽く別れの挨拶をして隣の教室へ歩いていく秋の鞄には、なにやら形容しがたいキャラクターのキーホルダーが吊るしてあった。
「うわぁ……マニータちゃんだ……」
柊はゲテモノ料理でも見たような顔でそのキーホルダーを見ていた。流行っているのだろうか?
自分の受験番号を確認しながら指定の席に座ると、周りに倣って教科書を開く。二つ後ろでは、意地になって顔を上げない日向を、前後から柊と宮崎がつついている。
しばらくして試験監督が教室に入ってきて、問題用紙が配られる。
簡単な説明と注意事項を済ませると、少しして腕時計を見ながら開始の合図を告げた。
受験生が一斉に問題用紙をめくり、鉛筆がコツコツと音を立てだす。
名前を書き終わって一問目の問題文を読んでいると、試験監督がこちらに向かって歩いてきた。
自分の席を通り越して少し後ろで止まると、小声で試験中に寝てる馬鹿を起こしている。
元々学力的には余裕があったから、試験自体は問題なく終えることができた。
ただ、面接が終わると、いつの間にかいなくなっていたひなだけが、心配だった。
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春樹にも、巴にも、桜にも何も言わずに帰ってきてしまった。いてもいなくても迷惑なら、もう自分の身の置き所すら分からない。
そんな思考の負の連鎖に陥っているのに、そこから抜け出そうとする気力すら湧いてこない。
体から力が抜けきって、あと数歩先のベッドまでが遠い。薄暗い部屋の中、床に身を放り出して、先程からずっと窓明かりに照らされた埃を見ている。
差し込む光の角度が変わっていき、やがて埃も照らさなくなると、理由もなく涙が出てきた。止まっていた思考が、少しだけ動き出す。
「いちか……ごめん……」
腕に力を込めて身体を持ち上げ、勉強机の引き出しを開ける。一番上にあった日記帳を放り投げて、人生計画書を取り出すと、最初のページから目を通していく。
なんでもいい、一華のこと。一華の両親のこと。引っ越したこととか、いつ何があったとか。誰と何があったとか。
頼むから、言い訳させてくれよ。
「無い……ないっ……っ、なんで無いねんっ…………ああぁッッ!!」
どこを見返しても、一華に関することは書いていなかった。それどころか、予定外のことが起こりすぎて、斜線で取り消した項目ばかりが目に入った。
激情にまかせてノートを壁に叩きつける。どこに苛立ちをぶつければいいか分からない。またギリギリと頭が締め付けられるようだ。
「もう嫌っ……っ、もう切りたくないっ……あぐっ……」
手のひらを思い切り噛んだまま嗚咽をあげる。顎から力を抜いた時、またふわっと頭が軽くなって、息苦しさが幾分か楽になる。
四つん這いのまま、放り投げたノートを拾いに行くと、開いたページの一項目が目に入る。
『東砦に入学して、秋と会う』
「……あぁ……今日、秋もおったんやろなぁ……っ、何してんねやろなぁ、ウチ……ぐすっ、うぅぅぅ……」
ノートを拾い上げて胸に抱くと、止まらなくなった悲しさに身を任せ、自室の隅でうずくまって泣いた。
もうこれ以上未来を変えたくない。嫌われてもいい。蔑まれてもいい。みんなを不幸にしたくない。それが出来ないなら、もう消えたい。
そんなことを思いながら、その日はベッドで泣き疲れて眠ってしまった。
後日、一華が受験に失敗したことを、巴からのメールで知った。




