63.押して、引いて
かじかんだ指先にハァっと息をかけて、気休め程度の暖を確保してから、第二の自室とも言える部屋に入る。
本格的に寒くなってからは、布団から出るのを拒むようになった親友一号機の布団に近づくと、布団に手を入れ体温を吸収しながら体を揺する。
「ハル……ハル起きて、朝やで」
「んん、寒っ……ひな、俺は無理だぁ」
モゾモゾと布団の中で駄々をこねる春樹の脇腹を探し、スウェット越しにギュッとつねる。
布団の中で「いてっ」と声がしたあと、億劫そうに出てくると、二月の寒さに体を震わせながらひたすら手を擦っている。
ベッドに腰を下ろして時間を確認すると、まだいくばくか余裕がある。背中越しに春樹の存在を感じながら、ここ最近の不安を口から吐き出す。
「なあ、ハル……一華、どんどん元気なくなってるよ……」
「……うん、だいぶ辛そうだな」
去年の十一月にあった文化祭の日、一華から両親が離婚協議に入ったことを聞いた。初めは取り乱していた彼女だったが、一週間ほど経った頃にやっと笑顔を見せてくれた時は、ホッとして胸を撫で下ろした。
それが十二月の半ばごろからまた徐々に元気が無くなってゆき、冬休みが明けて学校が始まってからは、暗い顔で下ばかり向くようになってしまった。
「前の時はさ……離婚なんてしてへんかったで?ほんまやで!最後まで苗字は藤宮やったし……。中学おった間は、あいつのこと気にかけてたから、さすがにそれぐらい覚えてるよ……」
母方に引き取られるなら苗字も変わるはずだ。
卒業後も、たまに耳に入った一華の話題で、両親が離婚した話など聞いたことがない。
だけど、どれだけ否定する理由を述べても、いくら気を紛らわせても、拭いようのない不安が胸中でとぐろを巻いている。
「大丈夫やねん、大丈夫なはずやねん。でも……なんかこわいわ……」
自分が認識していなかっただけで、前世でも同じことがあったのかもしれない。結局、離婚の話は無くなって、関係を再構築したのなら何も問題はない。
でも仮に、そうではないのだとしたら……
そこまで思考が巡ったとき、春樹が頭に手を乗せてきた。前から後ろへ優しく撫でて、時折ポンポンと叩いてはまた撫でる。身を委ねていると、じわっと瞼の裏が濡れてくる。
「一華、大丈夫かなぁ……離婚せぇへんよなぁ……なんでこんな不安なんやろなぁ……」
「……きっと大丈夫だよ。だから今は、あいつと一緒にいてやらないとな」
大切な親友の悩みごとに、一緒にいるだけで碌な助言も出来ない。自分は全未来人キャラ中、最も雑魚キャラだ。今も、現地の男子中学生に頭を撫でられ、慰めてもらっている。
「なぁハル、お前は変わらんといてや……これ以上、変わらんといてぇな……」
口から出たのは、縋るような弱々しい言葉だった。
未来の大筋を知っている夏野日向。その前提が、唯一無二のアイデンティティが、足元から崩れていくような感覚が、今はとにかく怖かった。
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受験シーズン真っ只中ということもあって、教室は試験がすでに終わった者と、まだ教科書に齧り付いている者とで、独特の空気感となっている。
本日試験を受けるのだろう生徒たちは、公欠扱いで登校しておらず、まばらにある空席を場違いにも懐かしく感じる自分がいた。
そんな中で一人、どちらにも属さない空気を纏って、窓際の席から外を眺めている少女に声をかける。
「一華、おはよーさん。やっぱ雪降ってると寒いなぁ」
「おはようございます。そうですね、なんというか……寒いですね」
「ふふっ……しゃーないからウチがあっためたろ」
そう言ってキンキンに冷えた手を一華の首筋に当てると、彼女はびくっと肩を跳ねさせたあと、眉を下げながらも笑ってくれた。たとえそれが形だけの笑顔だったとしても嬉しかった。
「勉強の方はどう?ちゃんと寝れてる?ご飯は食べてるか?」
「もう……そんなにいっぺんに聞かれても答えられないですよ……」
「ごめんごめん、ほいで、どう?」
「……っ……大丈夫ですよ。昨日はしっかり寝ました」
なんとなく、言葉を引っ込めたような気がした。
普段から気を遣うことが多いのだろう。一華の顔には目に見えて疲れが出ている。両親のことや、弟のこと、ましてや公立高校の一般選抜試験が一週間後に迫っている。
よくもまあこんな時期に離婚だなどと言い出した彼女の両親に、責任の外側から腹を立ててしまう。
「トモもおはよーさん、勉強捗ってまっか」
「……うん、なんとかね。でも、いくらやっても不安は不安かな」
近くの席で過去問を解いていた巴に話しかけると、顔を上げた彼女は、やはり普段通りとは言えなかった。
余裕がないのは彼女も一緒だ。なんせ初めての受験で切羽詰まっているのだから、一華のフォローは自然と自分が引き受ける形になっていた。
とはいえ、元気づけることもできないフォローに、何か意味はあるのだろうか……
「……おトイレ行ってくるわ」
「私も行こっかな。いっかちんは?」
一華に声をかけるも小さく首を横に振り、また窓の外へ視線を戻してしまった。
その後ろ姿になんと声をかければいいか分からず、微妙な空気を残したまま教室を後にした。
用を足し終わり手を洗っていると、思わず深いため息が出てしまった。
「なんかさ、私たちってさ、誰か一人が元気なくなったら、みんな元気なくなっちゃうね」
「ふふっ、確かに。ほな、一華には元気なってもらわなあかんなぁ」
「うん……大丈夫だよね?私イヤだよ、このまま卒業なんて……」
「えっ……と……うん、大丈夫や。少なくとも、ウチが知ってる限りは……。せや、試験終わったらさ、三人で遊びにいこっ!最後にいっぱい楽しい思い出作って、一華にも……」
泣きそうな声でそう溢した巴に対し、言葉が詰まってしまった自分に嫌気が刺す。
それを誤魔化すように、あるいは自分に言い聞かせるように言葉を並べるも、払拭しきれない気まずさが二人の間に流れる。
「あかんなぁ……ウチが不安になったらあかんのに、ごめん」
「ううん、私もごめん……戻ろっか」
教室に戻るとホームルームの時間が迫っており、それぞれの席に戻る。前まで気にならなかった離れた席の距離を少し寂しく感じてしまう。
休み時間の度に一華の席に集まっては、適当な話をしたり、英単語の問題を出し合ったりした。
浮かない顔の一華にどうにか笑って欲しくて、肩を揉んでみたり抱きついてみたりした。その度にどこかぎこちない笑顔を見せる彼女は、何度か、喉まで出かかった言葉を飲み込むようにしていた。
四時間目が終わり昼食の時間がやってくる。春樹も入れた四人で、旧・夏野日向専用教室で昼ごはんを食べることにした。教室の鍵は、自習するという名目で借りてきた。
「懐かしいな……って言っても、別に見た目は他の教室と変わんねぇな」
「アホ、全然ちゃうわ!見てみぃこの落書き、ウチが暇過ぎて描いたんや。小学校におった亀」
「懐かしっ!うわぁ、ちょっと久しぶりに小学校行きたくなっちゃった……」
「……」
弁当を広げて、あれこれと話しながら昼食を食べ進める。
途中、春樹と巴に目を向けると、困ったように眉を下げて一華を見る。
心ここにあらず。その言葉は今の彼女の状態を言うのだろう。あまり箸が進んでいない。
春樹と巴の頼るような視線に、ハンバーグとため息を飲み込んで、一華に話しかける。
「一華ちゃんや、なんか言いたいことあるんかえ?」
「ぇ……」
「ほれ、朝からこう……なんか言いたいけど言えへんみたいな感じやからさ、ちゃう?」
「…………あ……のっ……」
そこまで言って口を閉ざしてしまう。俯いてしまった彼女に、これ以上追求しても辛いだろうと思い、話題を変えることにした。
「まあなんにせよ、ご飯はしっかり食べぇや、お腹空いてたら気分も落ち込んでまうで」
「そう……ですね、ちょっとずつでも食べなきゃ」
「ふふっ、また卵焼き交換しよ!ほいっ」
自分の弁当箱から卵焼きを取り出して、一華の口に入れると、少しだけ自然な笑顔になった。
そのことに満足して、一華の弁当箱から卵焼きを掻っ攫う。
ほんのり優しい甘さの卵焼きを想像して口に頬張った瞬間、予想外の味に意表を突かれた。
「あれっ?出汁や……これはこれで美味しいけど」
「あっ……本当ですか?良かったです。それ、私が作ったんです」
「ええやんか、美味しいよ。お弁当作り挑戦中?」
「…………そうですね。多分、これからは私が作ることになるかなって……お母さん、忙しくなるだろうから」
息苦しくなるような感覚が、腹の底からじわじわとやってくる。嫌な予感と、ここ最近の不安が一気に体を駆け巡って、足が落ち着かなくなった。
一華の小さな唇から放たれる言葉を、初めて聞きたくないと思ってしまった。
「……離婚すること……決まりました」
春樹と巴が絶句してるが、それどころではなかった。
「なんでっ!!なんっ……そんなわけないやんかっ……だ、だってさ……ウチ知らんよ!前はそんなことなかったっ……て……」
決定的になってしまったことで、嫌でも意識した前世の記憶は、一華がいじめを受けて辛そうにしている顔だった。記憶の中の一華は誰からも手を差し伸べられず、暗い顔で卒業式を迎えた。
卒業証書の筒を持って、ひとり寂しく歩く一華を、両親が沈痛な面持ちで迎えていたことを、今になって思い出す。
そこから自分は、最悪の答えを弾き出した。
自分という存在が、そもそもの引き金なのではないだろうか?
自分が干渉したせいで、一華の両親は離婚が決まったのではないだろうか?
胃の中身がせり上がってきて、喉が気持ちの悪い音を立てる。
なんとか堪えて、恐る恐る顔を上げると、みんなの視線が集まっていた。
特におかしいところはない。自分を心配するような表情が、まるで自分を責め立てているように見えた。
「ぁ…………ちがうっ……っ、ウチじゃないよ……ウチじゃないっ!」
「あっ……ヒナっ!待って!」
情けないことに、その場から逃げた。あんまり覚えていない。変に冷静に、鞄を取りに戻って、近くにいた健人に教室の鍵を渡したことは覚えている。
弁当箱と自転車を忘れてきたことを、今になって思い出した。
帰ってきて、母に心配されたことも今思い出した。
先ほどまでは扉をノックする音が聞こえていたけど、今は鳴り止んでいる。代わりに扉の隙間から紙が滑り込んできた。多分何か書いているのだろうけど、今は読む気になれなかった。
「ウチの……っ、せいちゃうっ……! ぜっ、絶対ちゃう……っ、は、大丈夫……だいじょうぶやから……っ、ウチやない……ウチじゃないっ!!」
一華。たまに暴走するけど優しくて、辛いことがあったらいつも寄り添ってくれる。嬉しいことがあったらふにゃって笑う子。
「知らんやん……そんなわけっ……ないやろ……っ、あはは……だいじょうぶ……っ、ありえへんからっ……」
一緒にいたら心地よくて、でも二人で遊びに行ったら緊張して、いつのまにか好きになってた。
前世ではいじめられてたから、今度は代わりに……
「ふぅ……っ、はぁ…………ぅ……っ、はぁ……」
助けなかったら一華はどうなってた?そもそも、別のやり方を考えるべきだった?それとも、一華の知らないところで終わらせるべきだった?
最初から出会わなければよかった?
「ぁ……あぅ、あぁぁぁ……っ、うっ……ウチのせいや……っ、ウチがわるい……」
手が震える。涙が止まらない。冷静じゃないのは分かっている。でも自分という存在が一華を不幸にしたのだ。
頭が締め付けられるような閉鎖感があって、思考の真ん中に大きな鉄球でも置いてあるように、考えの通り道を塞がれてる。気持ち悪い。
ふと、化粧ポーチが目に入った。不気味なほど、その考えに一直線に行き着いて、めまいがするような思いだった。
震えたままの手でポーチを開くと、中から新品のカミソリを取り出す。
ここにきてはじめて、自分の鼓動がうるさいことに気づいた。
こんなことする奴は、弱い奴だ。そうだと思っていた。
「っ……な、なにやってんねやろ……っ、あかんよなぁ……」
胸が苦しくて、頭が熱い。涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃで気持ち悪い。
刃を押し当てた左手の手首が、ちりちりと燃えている。
指先に力を入れて横に引くと、何かに引っかかりながら刃が沈んで進む。
「ぁいっ…………うっ、ぅぅ……」
思った以上に浅かった刃の通り道は、少し遅れて血を流した。
全身を締め付けていた力が緩んでいき、頭がふわっと軽くなる。
部屋の中が静かに感じる。さっきまであんなにうるさかったのに。
「はぁ……はぁ……。うっ……っ、ごめんなさい……」
今更になって、やってしまったことへの罪悪感と嫌悪感を覚えて、また涙が出てきた。
両親なのか、一華なのか、友達なのか、自分なのか。
誰に謝っているのかもわからないまま、傷つけた手首を胸に抱えて、その日はひたすら泣き続けた。




