62.不穏の足音
十一月某日。
硬くて、冷たい。掃除すら碌にされていないような汚い床に横たわると、今しがた衝撃のあった腹部を押さえて、濡れた感触に顔をしかめる。頭を打ったからか、酷く耳鳴りがする。
乱れた呼吸をそのままに、手のひらを持ち上げると、目眩のするような光景に息継ぎを忘れてしまった。
「あっ……ぎぃ……っ、これ血ぃか……?うぐっ……」
地面から伝わる微かな足音に、ビクリと身体が跳ねて、影になった足元側に目を向ける。
一華が、あんなに優しかった一華が、紅い雫が滴り落ちる包丁を片手に、ゆっくりとこちらに歩いてきた。その目には正気の色が宿っていない。
「痛っ……待っでぇ……はぁっ……なんでなんよぉ……」
「……裏切ったから……なんで、なんでお前なんかにぃ……」
ひゅぅひゅぅと喉が汚い音を鳴らし、必死に這いずろうとするも、足に力が入らない。
無言で振り上げられた刃が、そのまま胸に吸い込まれていくのを、情けない声を出しながら見ていたと思う。
「……死ね……死ねっ……!死ねよっ……!!!」
何度も何度も突き立てられる刺突音が、次第に水っぽい音に変わっていくのを、暗くなっていく視界の中聞いていた。
静まり返ったこの場で、一華の啜り泣く声だけが響き渡ると、ゔぃーんという機械音と共に舞台の幕が閉まっていく。
「……あれっ?拍手とかは?」
「どうしたんでしょうか……なんだか静かですね」
本日は文化祭のため、体育館は生徒達がぎゅうぎゅう詰めになっている。クラスでの舞台発表が終わったというのに、いつまで経っても物音ひとつ聞こえてこない。
普通は社交辞令でも拍手ぐらいするのが、優しさだろうが。血糊まで使って迫真の演技をしたのだ、もうちょっとリアクションがあってもいいと思う。
一華も納得がいかないようで、一緒に舞台袖から体育館を覗くと一年生の女の子が泣いていた。哀れにも周りの同級生が慰める中、青ざめた顔で「怖かった」と声をあげている。
「……一華のアドリブのせいやな」
「なっ!?私は気持ちを込めて演技しただけです!」
ラストは少しずつ死に向かう自分を一華が見届けて終わるはずだったのだが、気持ちを込めた結果、死ねと言いながら包丁で滅多刺しすることになったらしい。
舞台脇から脚本兼総監督の紬が出てきて、丸めた台本で自分と一華の頭を叩く。全然納得いかない。
「ふたりとも何してんのよっ!しんみり終わるはずだったのに……お客さん引いちゃってるじゃないのさ!」
「コイツが悪いんですっ!私の育てた花を!あんなことに使って……っ!!」
未だ、役から抜け出せていない一華にコイツ呼ばわりされた。そのことに密かにショックを受けながらも、撤収作業を進めてゆく。
我らが三年五組のクラス発表で、午前中の演目は最後だった。昼からの体育館では、演劇部の発表や有志で募ったバンド等がステージに立つそうで、自由に出入りして良いこととなっている。
「お昼からはどこ回りましょうか?どこか気になるところありますか?」
「ウチは二組のプラネタリウムが気になるかなぁ、作んの頑張ってやったし!トモは?」
「私は二年五組の占いかな、後輩に誘われててさ」
体育館前では、PTAがカレーと豚汁を振る舞っているのと、卒業生が営んでいるお店が出店をしているぐらいのもので、正直物足りなさは否めない。
それでも普段は勉学に励む場所である学校が、よくわからない展示物で溢れているのだ。そんな光景を見ていると、ちゃんと文化祭らしくなっているのだから、賑やかで非日常的な雰囲気に心が躍るものがある。
風に運ばれてきた香ばしい香りを前に、無力にもカレーの列に並ぶことを余儀なくされた。
普段とは違い、あちらこちらに人が行き交う光景は、どこかお祭りのような空気感を感じる。
「そういえばヒナ、あんたいつまで血だらけでいるのよ?」
「きひひっ……これで歩いとったら、みんなウチのこと『さっき刺されてた人や』みたいな顔で見るんよ、一年とかびっくりしてんの見たら可愛いくてなぁ」
「うぅ……私は『さっき死ねって言って刺してた人だ』みたいな目で見られて辛いです……」
確かに、一華が鬼気迫る顔で包丁を振りかざしているのは、妙に様になっていて怖かった。
そんなことを思っているとまた一人、一年生の男子生徒が一華を見ながらこっちへ向かってくる。
未来ある一年生の青春の一ページが、血みどろの思い出となったことを嘆いていると、彼の顔は見覚えのあるものだった。
「ありゃ?一華、あれ弟君ちゃう?」
「ほんとだ、大樹君だね。久しぶりー」
巴の挨拶にぺこりと頭を下げる大樹。一華の家にお邪魔することが少ないのであまり面識はないが、小学校の頃は廊下ですれ違うと、何かと一華が気にかけていた。大切な弟なのだろう。
「大樹、あのね、お姉ちゃんは悪く無いからね。全部コイツが悪いの!」
またコイツって言った!
「……また姉ちゃんが暴走したんでしょ?俺の友達も引いてたよ……。そうそう、お母さんが来てたよ」
「お母さんが?来るって言ってなかったのに。ごめんなさい二人とも、ちょっとお母さんのところ行ってきます」
「はーい、いっといで。じゃあヒナ、しばらく二人で回ってよっか」
「ん!そないしよ!一華もあとでなー」
ひらひらと手を振って、人混みに入っていく藤宮姉弟を見送る。面倒見の良い姉によく懐いているのか、お互い思春期真っ盛りだというのに学校でも良い距離感で接する姉弟だ。
カレーを雑に流し込んで栄養補給を終えると、文化祭のしおりを片手に校内を散策する。気になった展示があれば足を止め、特に感想を述べることもなくまた歩き出す。
二年五組がやっている占いの館に来た。教室内にカーテンとダンボールで四つの小部屋が作られており、中からはボソボソと話し声が聞こえる。
巴が受付の女子生徒に話しかけると、奥から二番目の部屋に通される。中に入ると、手作り感のある占い衣装を身に纏った鳴海杏が、威厳たっぷりに座っていた。
「なるみん二号や。後輩って杏ちゃんやったんやな」
「夏野先輩……先輩のせいで私、バスケ部で二号って呼ばれてるんですけど?」
「ぶふっ!ごめんやん……ふふふっ……」
抗議の目を向けてくる杏に謝りつつ、巴と二人並んで椅子に腰掛ける。
気を取り直した杏から誕生日や携帯の番号など、いくつか質問されて答えてゆく。
占いばかりは前世から一ナノメートルも信じていない自分は、まあ少し斜に構えているのだろう。
隣でワクワクしている巴の付き合いで来ている。その程度のものだった。
「……あれ?夏野先輩……女性ですよね?」
「んぇ……?う、うん……どっからどう見ても美少女やろ?」
「あれ?なんだろこれ……混じって……ぅ……ぐぅっ!?あああぁぁぁっ!?」
突然立ち上がって奇声を発する杏に、巴と二人で戦慄する他なかった。
しばらくすると、何故か髪がくちゃくちゃになった彼女に退室を促され、意味もわからないまま教室を後にした。
「……なあ、ウチが二号って言ったん怒ってんのかな……」
「あははっ……いやぁ、びっくりしたねぇ。普段もっと大人しいのに……ふふっ、文化祭だからはしゃいでたのかな?」
三年二組の教室には、ダンボールで作った大きなかまくらみたいなものが設置されていた。専用のプロジェクターが、思ったよりも本格的なプラネタリウムを見せてくれた。
「綺麗だったなぁ、私ずっと見てられるかも!ああいうの自室にあったら素敵だなぁ……」
「ふふっ、じゃあ次のトモの誕生日プレゼント候補やな」
そしたら巴の部屋にお邪魔して、一華と三人で寝転がって星を眺める。高校に行ってもそんな三人でいられたらいいな。
もう十一月だ。残された中学校での時間はもう少ない。
隣を歩く巴と、高校に行っても一緒にいられることが、堪らなく嬉しい。
今頃どこかで男子同士で遊んでいるであろう春樹も、少し複雑な気分だけど一緒の高校を目指すことになって、どこか喜んでいる自分がいる。
一華。彼女だけが別の道を歩むことになった。人生の岐路へ立った今、それは仕方のないことだとわかってはいるが……
「やっぱりちょっと、寂しいよなぁ……」
一華を助けようと、決意して始まった中学生活。
初めて制服を着た日、なんだか女の子の象徴みたいに思えてムズムズしたけど、なんだか嬉しくて、胸がぎゅっとなった。
一年生は散々だった。人生計画などと言っておきながら、碌に計画性もないものだから、酷い目にあったものだ。
朝起きるのが辛くて、学校に行くのが怖くて。でも、自分にしか出来ないと思い込んで、暗い学校生活を送った。屋上の一件で、初めて死にたいなんて思った。
二年生はそこそこ頑張った。日常を取り戻すのに必死で、去年の今頃から、やっと教室で問題なく授業を受けることが出来るようになった。
今でも知らない男の人が近くにいると、お腹に力が入って不安になるけど、普通に生活出来るぐらいにはなった。高校は大丈夫だろうか……
三年生は、楽しかったな。それまでの中学生活を取り戻すみたいに楽しい毎日だった。
一年、二年に比べて日記に書く内容が明るくなっていて、それを見返しては嬉しがって、毎日学校に行くのが楽しみだった。
そんな中学校も、もうすぐおしまい。
「ヒナ、そろそろ片付けだって、教室の方戻ろっか」
「あいよ。いうてもウチのクラス、展示とかあんましてへんけどなぁ」
教室に戻ると、もうほとんどの片付けは済んでおり、後はゴミを纏めるぐらいしか仕事が残っていなかった。
春樹からゴミ捨てを命じられ、巴と文句を言いながらも、校舎裏まで持っていく。
教室に戻る頃には、全員帰路に着いており、誰も残ってはいなかった。
「はぁ……薄情なクラスメイトやなぁ」
「……そういえば、いっかちん帰ってこなかったね。メールも返ってこないし、どしたんだろ?」
昼に別れて以降、音沙汰もなく姿も見ていない。もしかしたら弟と母親と文化祭を回っていたのだろうか。
噂をしたからだろうか、教室の扉がカラカラと弱々しい音を立てて開くと、一華が入ってきた。
「いっかちん!メール見てよー、プラネタリウム良かったんだよ…………どしたの?」
俯いたまま黙っている彼女を見て、なにか嫌な予感がした。いつかも思った、嫌な予感というのは往々にしてよく当たる。その考えがまた、不安を加速させる。
心配になって近づく、自分の足音がやけに響いて聞こえる。
顔を上げた彼女は、目を真っ赤にしてなお、涙を流して顔を歪めていた。
「……お父さんと……っ、お母さん……り、離婚しちゃうって……っ……」
はじめ、一華が何を言っているかわからなかった。
胸に飛び込んできた一華は、いつもより小さく感じて、今にも消えてしまいそうな危うさがあった。
「だ……大丈夫やで一華……大丈夫、ウチはそんな未来知らんよ……大丈夫やから……安心して……」
言い訳のように放った言葉は、誰に向けたものだったか。
真っ白な頭の中で、背中を伝う気持ちの悪い冷や汗だけが、日常を暗く染める合図のように思えた。
大きなズレの、合図のように。




