60.夢の中で
ぼんやりとした視界に、忘れようもない光景が飛び込んできて、危うく意識が覚醒しそうになる。
やけにリアルな絨毯の感触と、見慣れたはずだったソファとローテーブル。
前世の自宅のリビングに、ぼぅっと突っ立っているところから始まるこの夢を、確か前は十歳の誕生日に見た気がする。
そこまで考えてから思い出すのは、本日が私、夏野日向の十五歳の誕生日だということだ。
「久しぶりやなぁ……なんか規則性でもあるんかいな」
目線が急に高くなったのに、あまり違和感を覚えないのは、三十年連れ添った体だからだろうか。
正直、前回の夢はあまり良い思い出ではないので、ローンの残った自宅のリビングで身構えていたところ、思いがけず声をかけられる。
「……どしたのよ、コーヒーいらないの?」
ここは夢の中だというのに、動くはずのない心臓が大きく脈打つのを確かに感じた。
六年もの間、聞いていなかったその声色は、まるで記憶の引き出しをひっくり返してぶちまけるように、自分の心を揺さぶった。
時間が引き延ばされたように、ゆっくり後ろを振り返り目に映ったのは、いつもと変わらないあの日の姿で、マグカップを片手にこちらを見る秋だった。
「ぼーっとしちゃって……えっ?ウチのコーヒーが飲めないって?贅沢な奴だなぁ」
「……秋っ……?秋や……あきやぁ……っ、うっ……あきぃぃぃ……」
「えっ、ちょちょちょっ……なーんで泣いちゃうのよ……どうしたの……?」
久しぶりに触れた秋は、ここが夢の中だと信じられないぐらい、秋だった。頭を撫でてくれる手があたたかくて、抱きしめると返ってくる感触は、紛れもなく彼女のものだった。
本当は全部嘘だったのじゃないかと、棘のように刺さっていた不安が、ゆっくりとほぐされていくようだった。
しばらくの間、正しく年甲斐もなく泣きじゃくった。そんな自分を時折困ったような声を出しながらも、仕方のない子供をあやすように慰めてくれる秋に、落ち着くまでじっくり甘えさせてもらった。
「……ぐすっ……っ、うっ…………ぐすっ……」
「大丈夫……?ほら、コーヒー飲んで落ち着いて……」
結婚祝いに春樹から貰ったマグカップが机に置かれ、その懐かしさに思わず吹き出しそうになる。
鼻をかんで息を整えると、コーヒーを迎え入れる準備が完了した。
またこのリビングで、妻が入れてくれたコーヒーを飲めることに感謝しながら、ゆっくりと口に含む。
当たり障りのない味わいは、どこか生産工場の機械音が聞こえてくるようだった。大量に並んだボトルに次々と注がれていく景色が脳裏をかすめた。
あぁ、白いマスクをつけた工場の方々がこちらを見ている。紛れもなくこれは……
「安もんやぁ……」
「文句あるなら飲むな」
取り返される前にカップの中身を空にして、むくれる妻を無視して部屋を見渡す。
寝室への扉が目に留まり、秋の方へ確認するように目を向けると、彼女は怒りを引っ込めて答えた。
「四季ならまだ寝てるよ。起こさないであげてね?昨日夜更かししてたから」
「……なぁ、遊びたい……あかん?」
「ダメ、可哀想でしょ」
「えぇぇ……ほな、寝顔見るだけっ!」
「……別にそれぐらいは良いけど」
その言葉を聞いて、はやる気持ちを抑えて足音を殺しながら寝室へ向かう。
ドアノブのネジが緩んでいるのに気づいて、倉庫にある工具箱を思い出した。夢から覚める前にでも締め直すか……
寝室に入ると、なんの変哲もなく息子が寝ていた。
穏やかな寝息を立てていて、寝返りを打つと何か食べてるように口を動かす。そんな姿が愛おしくて、起こさないようそっとその頬に触れると、さっき止まった涙がまた溢れてきた。
あぁ、四季だ。秋と自分が、一緒にいた証。
記憶にある息子の姿より、少しだけ大きく感じるのは、そう願う自分の願望なのだろうか。
首元をくすぐると、嫌そうに手を払い除けられるのも、何故か心から嬉しかった。
「なぁ、ウチらの息子、めっちゃかわええなっ」
「ふふっ……そうね。でも、あんまり甘やかさないでよ?すぐおやつ買うんだから……」
無理なことをおっしゃる。本当なら、久しぶりに抱っこでもしながら買い物に行って、好きな玩具を好きなだけ買ってあげて、財布の中身を空っぽにするところだ。夢の中だったら、それぐらいしても許されるだろう。
息子を間に、川の字になって、ゆっくりと時間が流れていく。
たまに四季の頬をつついては秋に怒られて、彼女の頬を撫でると、気持ち良さそうにする。
自分にとっては儚く散ったそんな日常が、いつかは覚める夢の中にはあった。
四季が寝苦しそうにし始めたので、名残惜しく思いながらも寝室を後にする。
リビングに行ってソファの感触を楽しんでいると、秋がボトルコーヒーを机に置き、マグカップを二つ持って隣に腰を下ろした。
「それで……なんで泣いてたのよ?それに……なんか日向、ふふっ、女の子っぽいよ」
「きひひっ……まあそれも踏まえて聞いてぇや。こっからは聞くも涙、語るも涙、六年間のひなちゃん大冒険譚を……なんかこれ前にも言うたな……」
「はいはい」
「もう……多分きっかけはなぁ、大人版ハルから聞いた話で——」
この家で迎えた最後の夜、目覚めた後の変わってしまった世界と自分。そこからあった出来事や、思っていたこと。春樹や一華や巴との新しい関係や、秋への想い。
途中何度も謝りながら、ボトルが空になっても話し続けた。
彼女は自分の話を楽しそうにしたり、時にムッとした顔をしたりして、それでも馬鹿にせず最後まで聞いてくれた。
「——ほんで、先週修学旅行が終わったんよ。やから……まだ秋とは会ってない……」
「……浮気?」
「あぅ……ちゃうんよ……秋、えっと……」
「ふふっ……これはお母さんに報告だなぁ」
当然言及されるであろうことを、真正面から言われてぐうの音が出るわけもなく、悪戯っぽい表情でからかわれる。
申し訳なさで項垂れていると、背中をバシンと叩かれて背筋が伸びる。
秋の方へ顔を向けると、今度はまた違った顔をしており、どこか嬉しそうな、でもどこか寂しそうな顔で背中をさすってくれた。
それが無性に気持ち良くて、喋り疲れたのもあってか、強い眠気がやってくる。
「別に、怒ってないよ。そりゃ、性別変わったら人生も変わるでしょ。それに、一生懸命生きてたら、みんなが日向のことを好きになった。それにあなたがちゃんと向き合ってるってことよ。ま、本当かどうか、分からないけどね?」
「ほんまやってぇ……ってまあ、夢の中で言うてもなぁ……」
「……ねえ、髪結ってみて」
「んあ?はいはい……どんなんがええ?」
「んー、じゃあこれっ!」
久しぶりに見たスマートフォンに映し出された写真を見ると、自分はやったことのないアレンジだった。
頭頂部付近からサイドにかけて、大きな三つ編みが垂れているようなその髪型は、少なくとも雑誌などでも見たことがない。
「へぇ、なにこれ可愛い!サイドは編み込みやな……えー、ちょっと横向いてっ!」
写真を見つつ、欠伸を噛み殺しながら髪を編み込む。何度かやり直しながらも、秋の長い髪を結うのが楽しくて、つい気合を入れて進めていく。
怪訝な顔をしている秋に苦笑いを返しながら、ほぼ写真の通りに髪型を完成させると、仕上げに彼女の髪に口づけをして離れる。
「ほいっ、どう……?あ、ちょっとほぐした方が可愛いかな?」
「……上手くない?編み込みなんて……日向……」
「むふぅ……トモ先生直伝の技やで。ちゃんと練習しました」
肩下まで垂れた三つ編みを持ちながら、なおも複雑な顔をする秋は、何かを飲み込むように間をあけると、優しい笑顔で口を開いた。
「柊さんかぁ……懐かしいなぁ。高二の時に同じクラスだったわ。いつも暗くて、喋ったこと無かったなぁ」
「へぇ、トモは高校の時暗かったんか……あんま想像でけへんなぁ……」
「藤宮一華さんは……私は知らないけど……前にハルから聞いたわよ、日向の元カノが自殺しちゃったって」
「うん……ウチ、頑張ったで。いじめって怖かったわぁ……死ぬかと思った……でも、最後は一華に助けてもらってん……」
「ハルとも、相変わらず仲良いみたいね?」
「うん……ちょっと気持ちは変わってもうたけどなぁ、相変わらず一緒に遊んでるよぉ……っ、あふっ……」
「……その世界で、生きてるのね」
微睡の中で、秋のその言葉は、何故か問いかけのようにも聞こえた。
少しずつ眠気が増してきて、目を擦っても視界がぼやけていく。
「うん……やからなぁ……もうちょっとだけ待っといてぇな……ウチ、会いにいくからさぁ」
ため息が聞こえたような気がする。
ごめんごめん。ちゃんと起きてるよ。
瞼が重すぎて、寝てるように見えてるだけ。
「あーあ、私も違った人生歩んでみたいなぁ」
「大丈夫やでぇ秋……またなぁ……三人で……なぁ……」
あったかい……撫でてくれてる……?
優しい手と……秋の胸の中で……眠れる……
「愛してるよぉ……あき……」
愛してるよ、秋。
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「んぇ……あれ?俺、そっちに立ってへんかった?」
「日向?」
「いや、ドライバー取りに行こおもて……寝室のドアノブのとこ、ネジ緩んでたんよ」
「……ふぅん」
「夢遊病か……?こわぁ…………ってか秋、えらい若い子みたいな髪型してんなぁ」
「……おばさんって言いたいの?」
「ちゃうって、えらい流行に乗ってますねぇ言うてんの!」
「ふふっ……ねぇ、今度さ、私の髪結ってくれない?」
「まあ……ポニーテールぐらいやったら……出来るかなぁ?」
「ぶふっ!あはははっ……はぁ、日向ってやっぱり面白いわね」
「はぁ……さいですか……」
「……愛してるよ日向」
「……きひひっ……なんやねん急に…………愛してるよ、秋」




