58.そのひととき
小さい頃は、よく乗り物酔いをしていた記憶がある。
女の子になってもそれは変わらず、特に荒いわけではない父の車の運転でも、遠出となると度々車を止めては、胃の内容物を確認することがあった。
一番酷かったのは十二歳のときに乗ったフェリーで、雑魚寝の大部屋で一晩中吐き続けた。近くにいたお兄さんが見兼ねて、両親が爆睡する近くで朝まで背中をさすってくれた時は、ちょっと好きになりそうだった。冗談だけど。
飛行機は、離陸の瞬間が肝でここを越えれば大丈夫だっ!!
「いいいちかぁ!フワッとしてぇ……フワッと……ぅおえっ」
「と、ともちん!袋!袋かしてっ!」
「ちょちょちょっと待って!はいっ……あっ」
——あぁ、そういえば、朝ごはんウインナーパンだったなぁ。
行き先は北海道。目的は見聞を広め、公衆道徳について望ましい体験を得ることらしい。
そんなものは皆、出発前に燃えるゴミとして出してきたかのように飛行機ではしゃぎ、騒がしいままに修学旅行の地、北海道へと降り立った。
みんなは飛行機の窓から北の大地を見て実感が湧いているのだろうが、ずっと座席を倒していた自分はただただ目を瞑って、若者たちの歓声に耳を傾けていただけだった。
「うぅ、まだちょっと気持ち悪い……帰りが憂鬱や……」
「こっからまだバスで二時間ぐらい移動するってさ」
まだ離着陸時の浮遊感から抜け出せないでいる自分を、何故か巴は更なる試練へ誘う。
前夜の高揚感が嘘だったかのように鬱々とした気分でバスに乗り込むと、一日目の目的地である富良野へ向かった。
隣に座る一華の肩を借り、少しでも楽な姿勢を探す。他意は無い。
「大丈夫ですか?いつもあんまり酔ってるイメージ無いですけど……」
「電車は大丈夫やねん、バスは……長距離はちょっとキツいかなぁ。やから優しくして!」
先日のこともあり、彼女との距離がまた少し縮まった。ダメだと分かっているのに、この子の優しい香りと温もりに、なかなか抗えないでいる。
今日もいつも通り柔らかい笑顔で自分を見るこの眼差しに、吸い込まれそうになるのと同時に自然と頬が熱を帯びる。
すると、一華も香りを確かめるように鼻を鳴らし、目を合わせてくる。なんだか、嬉しいな。
「日向……」
「一華……」
「……ゲロの匂いがします」
好きと言ってくれたのは嘘だったのか?あまりにもストレートな物言いに、ぶん殴られたような感覚に陥る。
これは煮え切らない態度を取る自分への罰なのだろう。
死にたくなるほど居た堪れなくなり、無言で離れようとすると、ガッチリ体を掴まれて動けない。
「んなっ!?やーめーて!絶対匂い嗅がんといて!」
「ふふっ、嘘ですよ。落ち着く匂いがします」
いつも通り、ただ遊ばれていただけだということに胸を撫で下ろす。
安心したら仕返しとばかりに、思いっきり一華の匂いを嗅いでおいた。
胸がいっぱいになった頃には、乗り物酔いのことなど、とうの昔に忘れていた。
座席の隙間から視線を感じて目を向けると、巴がこちらを見てニヤついていた。
「むふふっ、ヒナ、陥落寸前じゃなぁい?」
「う、うるさいなっ!一華がいい匂いなんが悪いのっ!」
「ほほぅ?私の匂いに弱いと?それそれぇ」
自分の髪をはためかせ誘惑してくる一華は、面白がって悪い顔をしていた。
誤魔化すように窓の外を見ると、目に飛び込んで来たのは一面に広がる紫色の花だった。
なんとなく目を奪われて窓に張り付くと、惜しくも通り過ぎていってしまう。
「せや、ラベンダー畑……日の出公園や」
「うん?そうだよ、栞に書いてたでしょ」
「うん……でも、なんか今思い出した」
目的地に到着し、はやる気持ちを抑えてバスを降りる。
人生二度目の自分にとっては、目の前の景色は当然、二度目の経験となるものだ。
ラベンダーっていう花がいっぱいある場所。そのぐらいの認識だったこの場所が、今はなんだか、思い出に残したい風景になっていた。
地面に落ちてしまった花を見て、少しだけ寂しく思う。この花は、前来た時も落ちていたのだろうか?
「どうしたのヒナ、感傷に浸ってるじゃない」
「うん、なんかなぁ、綺麗やなって……」
想像するのも馬鹿らしくなるほど広い空と、気が遠くなるほど続く大地に、北海道に来たことを今更ながらに実感した。
ああでもそうだ。自然が好きだと実感したのは、就職して実家を出た後の事だ。見え方が違うのも無理ないのかな。
周りを見ると、実里と桜が手遊びをしていた。
いっぱい写真を撮ろう。いつかその写真をみんなが見返した時、良い思い出だと思えるような写真をたくさん。
「ん?どうしたのよ日向、アンタも指スマやる?」
「ふふっ、ウチ今日はカメラマンになっとくわ」
撮った写真を確認すると、実里も桜も半目になって白目をむいていた。学校の雇ったカメラマンなら消してしまうような、その瞬間すぎる写真に思わず笑ってしまう。
二人に見せるとぷんすかと抗議され、ちゃんと花畑を背にもう一枚。
小学校から仲の良かったこの二人も、別々の進路に進む。桜は東砦を受けるみたいだけど、実里はまた別の高校へ。
またいつか会えるだろうけど、今この時間を振り返ったとき、その時の自分たちは、もう少し大人になっているのだろう。
「一華、トモ、こっち向いて」
一眼レフ買うのも悪くないな。
「三人で撮ろ!」
自撮り棒っていつぐらいに流行るっけ?
「あはっ、これ盛れたってやつや」
楽しいなぁ、修学旅行。
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ラベンダー畑を後にした一行は、またバスに揺られながら本日の宿へと向かう。
道中は移動の疲れもあってか、バスの中は静かなもので、修学旅行本番の夜を前に、力を蓄えているようにも思えた。
前の座席に座る巴が、小さく寝息を立てている。それがなんだか可愛く思えて、起こさないようにこっそり写真を撮って、一華と二人で顔を見合わせて笑った。
しばらくすると、宿泊施設に到着した。
あんまり記憶になかったけど、改めて見てみると、どことなく懐かしく感じた。
部屋割りは四人部屋三つの三人部屋が一つ、ウチは三人部屋でゆったり使わせてもらっている。
「わぁ、良い部屋ですね!ベッドおっきい!」
「ほれ、トモ!寝るのは全部終わってからや!今からご飯食べてお風呂入らんと!」
「……はぁい」
出てきた料理は意外と普通のメニューで、北海道の幸を想像していた自分は、少し肩透かしを食らった気分だった。
晩御飯を済ませて部屋に戻る頃には、すっかり日も暮れていた。
入浴の時間まで少し間があり、みんな意味もなく廊下を歩いている。
「ウチらもどっか行く?それともダラダラしますか」
「私はお風呂まではダラダラしたいかなぁ、でも、お風呂入ったらお菓子食べたいなぁ」
「ふふっ、じゃあ三人でダラダラしましょうか」
三人でベッドに寝そべって、携帯でゲームをやったり、今日撮った写真を見返したり、くだらない話をして時間を潰した。
いつもとあまり変わらない時間が、地元から遠く離れた北海道でも流れてゆく。
でも、寂しくなるから、進路の話はしなかった。
セットしたアラームが鳴って入浴の時間を告げると、二人ともブーブー言いながらも準備を始める。
暖簾にはデカデカと「天然温泉」の文字。看板にはこの温泉の効能これでもかと記されていて、どうやら慢性関節リウマチにも効くらしい。良かった良かった。リウマチって何だ?
「おー、日向。温泉入んないの?」
「つむちゃん……いや、リウマ——」
「ほら、入ろ!私らで最後だよ!」
泉に言葉を遮られ、流されるように脱衣所に連れ込まれる。あの、リウマチって……
温泉特有のモワッとした熱気が、脱衣所の方まで流れてきている。
この時間はうちの学校が貸し切っているので、一般客はいなかった。
人前で肌を晒すのは未だにちょっと抵抗があるので、一番端のロッカーに着替えを置いて服を脱ぎ出す。
「ヒナ、私ら先……跡、残っちゃったね……」
「ん……?あぁ、タバコの跡?消えへんやろなぁ」
市川と、知らない男達につけられたタバコの火傷跡。背中の下の方に四つ残っていて、普段はあんまり見えないようになっている。
みんなの視線が集まって、なんだか居た堪れなくなり、タオルで身体を隠す。
「あんま見やんといてや、スケベやで」
「もう、そうやってすぐ茶化す……」
「くくっ……もう終わった話やで?働きだしたら整形して消したろ思てんねん」
あまり気持ちの良いものでもないが、実際自分でも忘れていたほどだ。
気にするなは難しくとも、もう心配するようなことでもない。
体を洗おうとお湯を頭にかけると、巴が頭を優しく洗ってくれる。
「おっ?なんやなんっ、ほぇぇ……気持ちいぃ……」
「ヒナ、今日は私が洗うよ」
自分でも気を遣って洗っているけれど、いつもと違った感触に、思わず開放的な気分になる。
巴の洗髪に気をほぐしていると、今度は一華が背中を流してくれる。
「ひゃっ、一華まで、ええのに……」
「ふふっ、お背中流しますよー」
「なにぃ、至れり尽くせりやぁ……」
その後、少し熱めの温泉をゆっくり堪能し、ポカポカと心地良い気分のまま、パジャマに着替えて売店へ向かう。
ここから消灯時間までは自由時間となっており、みんな部屋を行き来したり、好きな人を呼び出したりと、思い思いの青春を送っている。
さすが中学生と言うべきか、ホテルから抜け出して、意味もなく夜の街を歩く連中もいた。
ホタテサイダーなる心惹かれる物資を購入しようか迷っていると、失礼にもその考えを真っ向から否定する声をかけられる。
「お前、変なやつ買うなよ。最後いっつも文句言うくせに」
「ハル?お前も風呂上がりか、失礼なやっちゃな、変なもん買うんは旅の醍醐味やろ」
「大人しくコーヒー買っとけ。あっちにご当地ものあったぞ」
春樹にゲテモノドリンクを取り上げられ、渋々従うことにする。
でも確かに、あと二日修学旅行は残っているのだ。ここで散財していては、後々のお土産の選別に響くやも知れない。
ふと無言の間があり、彼を見る。どうやらこちらを見ていたようで、パチっと目が合うと、照れくさそうに顔を背けた。
その様子には心当たりがある。自分も中学生の頃は、お風呂上がりの女子の寝巻姿にときめいたものだ。
「なぁハル、どう……?パジャマ」
「どうって……」
「ウチ、可愛いかな?」
「……うん、可愛いぞ」
「…………やった」
顔が綻んで、思わず嬉しくなってしまう。ちゃんと女の子らしく出来ているみたいでなにより。
上がった頬を手で隠していると、視界を遮る影が春樹との間に入る。
一華だ。彼女はしばらく春樹と目を合わせたあと、スゥっと冷たく目を細めて口を開いた。
「私はさっき、日向の背中を流しました」
「なんっ!?」
「空港からのバスでも、ずっとくっついていました」
「うそ……だっ……」
崩れ落ちる春樹を見下ろす一華は、勝ち誇った顔をしており、彼女はそのまま売店から消えていった。
膝をついたままの春樹に別れを告げて、自分たちの部屋へ向かう。
「彼とは日向をシェアする同盟国、つまり味方すが……牽制は必要ですからね」
「シェアて……ポテトちゃうねんぞ」
旅行の夜らしく、おしゃべりを始めようとお菓子を広げていたら、一華がそんなことを言い出した。いつの間にそんな協定が結ばれていたのか……
ふと、パジャマ姿でお菓子を食べながら話す二人を見て、また思い出したかのように写真を撮る。
一華が嬉しそうに微笑みながらチョコレート片手に話していて、それを優しい笑顔で話を聞く巴。
そんないつも通りの二人を、なんとなく写真に残しておきたかった。
「ふふっ、今日ずっと写真撮ってるね」
「うん、なんかな、人生やり直してるからかなぁ……こういう時間とか、何気なさすぎて忘れそうな瞬間とか、写真にしたら思い出せるかなぁって」
年を追うごとに、若い頃のことを鮮明に思い出せなくなるのを、自分は体験として知っている。
飛行機に酔ったことは覚えていても、それに誰が笑ったとか。二人とラベンダー畑を見たことは覚えていても、どんな景色だったとか。
「中学校の修学旅行なんて、楽しかったかどうかも覚えてへんもん……でもほら、写真の二人は楽しそうやろ?」
「ふーん……そういうもんかな?」
「そういうもんや!あと十五年ぐらいしたら分かるよ、ともちゃん」
「うわっ!その呼ばれ方久しぶりだぁ!ひなちゃん!」
小学生の頃みたいに戯れてくる巴とベッドでゴロゴロして、それに嫉妬した一華が飛び込んでくる。修学旅行の夜を、なんとも平和に過ごしていた。
気づけば消灯時間が迫っていて、自分が欠伸をしたことを皮切りに、寝支度を始める。
歯を磨き終わり、明日の予定を楽しみにしながらベッドに戻ると、自分に割り当てられたベッドで二人が寝ていた。
明らかな狸寝入りであり、ご丁寧に真ん中が空いていた。だから、隣のベッドで寝ることにした。
「ちょっと!なんでこっち来ないんですか!」
「アホ!狭いやんか!あっ、こっちこんといて!ゆっくり寝たいの!」
「いいじゃんか!修学旅行ぐらい一緒に寝ようよ!」
結局、一番窓際のベッドで三人川の字となり寝ることに。左腕に巴をのせて、右腕に一華がしがみついて、ぎゅうぎゅうになりながら布団に入る。
「君らさ……ウチこんなんでも、元々男ですよ」
「こんなちっちゃくて可愛いのが男ぉ?ちょっと何言ってるか分かんないなぁ」
「私はどっちでも構いません。こうしているのが幸せですから」
「もう……そっちもうちょっと寄ってよ」
寝苦しさを感じつつも、今の自分の大切な人たちとこうして一緒にいられることに、胸がいっぱいになる思いだった。
そんなひとときも、いつかの自分に届けたくて、手元にあった携帯で三人くっついての写真を撮る。
部屋が暗くて、三人の顔は少しぼやけていた。
それでも、なんとなく楽しそうなのは分かる。
いつか、この写真を見る自分に言っているみたいだった。あの頃は、こんなにも楽しかったんだぞって。
……しばらくは、待ち受けにしようかな。
そう思って、携帯を胸元に置いた。
明日も、その先も、まだこの時間は続いていく。
今はただ、それが嬉しかった。




