52.九月二十一日
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机に片肘をついて、目を覆う。このまま、ただひたすらに時間が過ぎるのを待つ。
今のでたしか十二回、チャイムが鳴ったはずだ。
肘の痛みに不快感を覚えると、腕の座りの悪さに苛立ちながら体勢を変える。
そしてまた同じように、今日が終わるのを待つ。
市川に会った日から十日。脳裏に焼きついたフラッシュバックの余韻が、取り戻しつつあった日常から自分を遠ざけていた。
一華と巴が、帰り道にたくさん慰めてくれた。
取り乱したまま帰宅した自分を、家族が暖かくほぐしてくれた。
泣きながら電話すると、春樹が夜遅くまで付き合ってくれた。
だから翌日の月曜日は、落ち込みつつも普通に登校した。
校門を抜けて昇降口に近づくにつれ、むずむずと足が落ち着かなくなった。小さな違和感に首を傾げたが、靴箱から上靴を出すと、おのずと理由が目に入った。
靴の中敷についたシミ。去年の五月に上靴に画鋲が入っていて、踏み抜いた時に出来た古い血痕。
あぁそうだ。学校って、怖い所だった。
なんの変哲もない廊下。トイレの個室。モップや箒。果ては人の笑い声まで、全部、指を添えただけで、一年前から銃弾が飛んできた。
痛みも、屈辱も、匂いも味も、全て昨日のことのように思い出された。
市川響子が、愉しそうに笑ったから。
「ひっ……っ…………」
学校が怖い。もう誰も自分を虐げないのに、過去だけが自分を苦しめていた。
だから、分かっているから、縋るような思いでこの教室に来ている。時間が解決してくれるんじゃないかと。
こうやって目を瞑って、ただチャイムが鳴るのを待つ。
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…………………………わかってる……
意味ないって……でも…………
……………………こわいよ。
「日向」
ギシっと体が強張った。恐る恐る声がした方に目を向けると、さっきまでの陰鬱とした気分が、嘘みたいに晴れていった。
「いちかっ!えっ、どうしたんよ?なんでおんの?」
「……もう放課後ですよ」
「……放課後!そっかそっか!帰ったら何しよっかなぁ……一華部活は?」
チャイムを数え間違えていたのか、いつの間にか放課後になっていた。
朝から何も出していなかった鞄に、今日出された分の課題を突っ込むと、早々に帰り支度を済ませる。
不意に、返事が返ってこないことを不思議に思い顔を上げる。一華は心配そうな、何か決意したような、そんな顔をしていた。
「泣いてたんですか?」
「ぅ……ごめん、心配かけて」
「いえ、ただ……このままでいいんですか?」
「このままって……」
言葉の意図がつかめなくて、何故か叱られるのではと感じた。彼女の瞳が一瞬、揺れたように見えた。
「向き合わないと、ダメですよ……」
「……」
「明日も、明後日も。こうやって誰とも話さず、一人で時間が過ぎるのを待って。それで……いつか、元に戻るのを待つんですか……?」
悲しそうに一度瞼を閉じて、開く頃には力強い光を放っていた。
「いつまで、逃げるつもりなの?」
「い、いちか……ウチ……」
「明日も逃げるんでしょ?」
「……なんでそんな事言うんよ……っ」
苛立っているのか、普段の彼女からはあまりみられない刺々しい態度に、悲しくて握りしめた手に力が入る。
理解してくれてるものだと思っていた。こうなった原因を知っている彼女なら、優しい言葉をくれると、勝手に思っていた。
「わかってぇや……ウチが何されてたかも、知ってるやんか……」
「だから何っ?」
「なにって……っ!怖いのっ!市川と会うてから、学校全部怖いねん!教室もトイレも怖い!戻れへんって思ったら……こわい」
喧嘩なんてしたくないのに、もどかしい思いが、そのまま勢いよく口から出た。
駄々をこねる子供みたいに、そのまま泣き出しそうだった。
両目から溢れかかった弱さが、がっかりしたように続く彼女の言葉で、別の感情に変わった。
「じゃあ、あなたの覚悟ってその程度?秋さんと、また会うって言ってたのは……まあ、運が良ければね」
紙にクレヨンでぐちゃぐちゃに塗りたくったみたいな、そんな感情に。
「……なんでそこで秋が出てくんねん……関係あらへんやろが」
「え?あるでしょ。同じようなことあったら、また逃げるんでしょ?」
「……やめろや」
「中学も高校も一緒だよ。日向が変わらないなら、どうせ一緒」
「っ……ええ加減に……」
口の中に、鉄の味が広がった。
爪の食い込んだ手に、破裂しそうなほど力が入る。
「あーあ、一ノ瀬君、可哀想だなぁ……振り回されて……こんな中途半端な想いのために、フラれて」
こめかみに酷い痛みが走った。
「一華ぁッッ!!!」
気づけば視界には、ただ一点、鋭い目つきをした一華だけが、鮮明に映り込んでいた。
いつ以来だろうか、コイツのこんな鋭い目を見たのは。前にもあった気がする。
でも、コイツをこんな目で見たのは初めてだ。
「調子のんなやお前ぇ……言うてええ事と悪い事あるやろが……」
「図星?やっぱかわいそうだね」
「っ!待てやボケこらぁ!」
身を翻し逃げ出した一華を追って、机と椅子を蹴飛ばしながら教室を飛び出す。三階の廊下を全力で走る後ろ姿は、まだ意外と近くにあった。遅っ。
「クソボケェ!逃げれる思うなやぁ!!」
「うっさい!!臆病者っ!!」
なおも挑発する一華に追いつくべく、掴みかかる勢いで駆け出す。
そもそも足の遅いアイツに、逃げ切れるわけがない。そんなことは本人も分かっているはずだ。
一華は息も絶え絶えで、廊下の角を左に曲がった。姿が見えなくなると、角の先から大声を上げた。
「一ノ瀬君!お願いっ!!」
「っ……!ハルっ!?」
………………。
身構えたものの、いつまで経っても春樹は出てこない。
一華の遠くなっていく足音だけが、静かな廊下に鳴り響いた。
「……むかつく」
一華を追って、また走り出す。あんなに怖かった廊下を、怒りに任せて疾走する。怒鳴りながら、飛んできた箒を蹴っ飛ばす。ちょっと楽しい。世界が、ちょっとだけ広く見えた。時間にしたら一分半。
顎が上がりきった走り方で逃げ続ける一華を、とうとう手を伸ばせば届くところまで距離を縮めた。
一歩踏み込んで届くはずだった手は、一華が最後の力を振り絞って飛び込んだことによって、音を立てて空を切った。
「痛っ……ぅ……」
「おいっ!なにして……」
飛び込んだ先は階段だった。三階から上に上がるための階段。つまり、屋上へ続く階段だった。
一華は、よろよろと四つん這いで十段ほどのぼると、こちらを向いて座った後、満足げな顔で笑った。
「はぁっ……っ、ひぃっ……ひぃ……どうしたのっ……捕まえたらっ……?」
「……お前、ええ性格してんなぁ」
屋上。市川に髪を切るよう、鋏を渡された場所。市川が自分を売って、襲われそうになった場所。自分にとって、一番怖い思い出が詰まった場所。ここから始まって、ここで終わった。
「はぁ……ふぅ……悔しかったら来てみなよっ……意気地なし」
「……」
まだ荒い呼吸もそのままで、汗でびしょびしょになった彼女は、言葉とは裏腹にお願い事をするような目をしていた。階段でぶつけたのか、目の下が赤く腫れている。
深呼吸をして、自分の鼓動に耳を傾ける。
走った後だから、少し早いけど正常な範囲内だ。緊張はしているけど、大丈夫。期待に応えたい。
「っ……なあ、手ぇ握って」
「ダメ。一人で来て」
一年前、この階段を不気味なほど軽快な足取りでのぼっていったのを覚えている。
どこにも居場所がなくなった自分にとって、市川は唯一役割をくれる存在だと、そんなことを、本気で思っていた。今思えば、依存していた。
「……っ、ほんま……最悪や……」
一段目に足をかけると、底冷えするような不安が襲ってきた。情けないことに、体を持ち上げるほどの力が入らない。
固く閉じた瞼の内側が濡れていくのを感じる。
「……っ……泣きそうっ……」
二段、三段と上がっていくにつれて、手で押さえても止まらないほど、膝の震えが大きくなる。
背中を冷たい汗が流れて、思考がバラバラになるような思いだった。
「いちかぁ……助けてよぉ……」
「……頑張れ、日向」
「頑張ってるよっ……うぅぅ……」
息苦しいし、怖い。胸が痛いし、足も痛い。怖い。
「もうちょっとだよ……日向」
一華が扉を開けると、風が勢いよく入ってきて顔をしかめる。
オレンジ色の光が階段に差し込んで、足元を照らした。
「ほら、怖いだけじゃないよ」
「……ぐすっ…………うん……」
階段を上り終えて、屋上が見えた。
あっちのフェンスの前で、大事な髪を切った。入ってすぐ右に曲がったところで、二年生に乱暴されそうになった。
他にも、何度もこの屋上で辛い思いをした。
「一華、一緒におってや……?」
「はい……足元、気をつけてください」
敷居を跨いで、屋上に足を踏み入れる。
夕焼けが顔にあたった。
風が髪をなびかせた。
怖かった。
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「夕焼け、綺麗やなぁ」
いつの間にか、体の震えは小さくなっていて、冷たくなった心はゆっくりと温度を取り戻していった。
「まだ、ちょっとこわい……」
「でも、ここまでこれましたよ。逃げないで、立ち向かった証ですっ!」
「ふふっ……頑張った……」
多分、この場所にはもうこないだろう。苦手だから。
だけど、屋上から見た夕焼け空は、一年前と変わらず綺麗だった。




