48.狼煙
朝一番、蛇口からお湯を出すと、それを掬って顔にかける。いつもはそれを二、三回繰り返して終わるところ、母が使っている洗顔料が目に留まった。
よく泡立てて使ってみると、しっとりと肌に当たる泡が気持ちよかった。効果はよく分からない。
タオルで水気をしっかりとって、鏡で自分の顔を見る。
「…………そら寝れんよ……」
目の下にわかりやすくクマが住んでおり、どんよりした目を見ると、百人中、百五十人ぐらいは寝不足だと言い当てるだろう。
分母が崩壊したことにため息をつきながら、髪にブラシを当てる。
さて、どんな髪型にしようか。最近ずっと下めのルーズなツインテールにしていたけど、ちょっと変えてみようかな?
ハーフアップ、ちょっとお姉さんっぽいイメージ。
サイドを編み込み、小学校の頃は巴によくやってもらってた。
思い切って巻いてみるのも良いかもしれない。
「……やめよ、やめやめ!やめーっ!!」
「ひなちゃんうるさい」
「ごめん」
後ろにいた母に注意された事によって、少しばかり冷静な判断力が戻ってきた。
変に意識して髪型を変えていくと、それこそ彼女の思う壺だ。
また遊ばれて、手玉に取られるのがオチで、また恥ずかしい思いをするんだから、いつも通りで良いのだ。
ありがとう、お母さん。
「…………今日は編み込みかな」
「鏡使いたいねんけど」
「ごめん」
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「おはよーさん、ウチか?ウチは寝れたで」
「いや、まだ何も言ってないんだけど」
教室に入って開口一番、巴に挨拶をすると呆れたような返事が返ってきた。挨拶ぐらい返してほしい。
今日は直接二年三組の教室に登校したので、教科書類を机に入れて、ロッカーに鞄を放り込む。
すとんと自分の席に座ると、特に意味もなく教室を見渡す。
「……あ、いっかちん?図書室だよ、委員会の当番だから」
「ふむ、そっかそっか」
「……?てかヒナ、髪ほどけてきてるよ」
「うそっ!?」
せっかく朝から頑張ったのに、どんな気持ちでせっせと編んだと思ってるんだ。
巴に鏡を借りて、解けてしまった髪を最初からやり直す。最後まできっちり仕上げたところでヘアゴムがない事に気づいた。
「トモ、髪ゴム貸して」
「はいはい、珍しいね。最近ずっとツインだったのに」
「ふふん、だいぶ伸びてきたからなぁ。似合ってる?」
「ええ、可愛いですよ」
ビクッとわかりやすく肩が上がってしまい、次いで体が縮こまる思いだった。
聞き間違えるはずがない。去年を除けば学校がある日はほぼ毎日、飽きる事なく一緒に過ごした。
昨日はあんなに近くで、その声を聞かされたのだから……
「おはよう、日向」
「ぅ……おはよーさん……」
「ヒナ?本当どうしたの、今日調子悪い?」
「トモ……トモ!聞いてっ!一華がウチで遊んでんねん!ほんまやねんで信じてや!見てみぃ!あの目……は普通やな……あっ!目ぇつむってって言ってきた!あとはあれ、あの、教科書見してくれたっ!」
巴を盾にしつつ、昨日、一華にされた悪事を報告する。心なしか巴は遠い目をしており、途中から自分の話を聞いてなかったように思う。
対して一華はと言うと、こちらを見る目が昨日から変わっていない。愉しそうに目を細め、その瞳が自分のことを捉えて離さない。
「いちかぁ……怖いってぇ……」
「ふふっ、私はたのしいですけど?」
「あぅ…………ともたすけて」
「なるほどね。いっかちん?あんまり遊んだら可哀想だよ?」
巴がため息混じりにそう言うと、自分を見る一華の目から、ゆっくりと怪しい色が引いていく。
優しい笑顔とふわふわした雰囲気は、いつも通りの彼女だ。だというのに先ほどの余韻なのか、ぼぅっと一華のことを見つめてしまう。
「ちょっとヒナ、しっかりしなさい!鏡見て鏡!」
そう言われて先ほど使っていた鏡を覗き込むと、潤んだ瞳に半開きの口、耳まで真っ赤になったその表情は、とても人に見せられるものではなかった。
「か、顔……顔洗ってくる」
それだけ言い残して、ふらふらとその場を後にする。
なんとかして切り替えなくては。さもなくば、昨日の二の舞、三の舞だ。彼女に攻撃の隙を与えてはいけない。
攻撃は最大の防御。敵の敵は味方。そう、つまりはこちらから攻撃を仕掛けている間は、向こうにも同様にダメージが入るはずだ。
冷たい水をかけた事により、思考のスイッチが音を立てる。
思い知らせてやろうじゃないか、あまり大人をからかうものじゃないと。
「きひひ…………いてもうたらぁ……」
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あの後少しして、教室に帰ってきた日向は飄々とした顔をしていた。
昨日は彼女に意識して欲しくて、あんな大胆なことをしたけれど、私だってかなり恥ずかしかった。
その甲斐あってなのか、日向が髪型を変えてきたのを見た時は手応えを感じたのに……
今は授業中にも関わらず、日向は切り取ったノートに、何かを一生懸命書いているみたいだ。
凄く真剣な表情でペンを走らせ、時折小声で何かを呟いている。
幼い顔立ちからは想像しにくいキリッとした瞳は、彼女の外面と内面のアンバランスさが生み出す一つの魅力だ。
正直、ずっと見ていたい。しかし先ほどから、やたらと目が合うのだ。最初は意識してくれてるのかと思ったが、どうにも違うようで、パチリと目が合うと優しく微笑んで前を向くよう注意される。どの口が言っているのか。
授業が終わる十分ほど前、左隣から丁寧に折り畳まれた手紙が届いた。
日向の方を見ると、余裕の表情でウインクをしながら、こちらに手を向けている。
一体何が書いてあるのか、恐る恐る渡されたものを開封する。
「……ぇ…………」
渡された紙には、一目で分かるほど上手に私の肩から上の横顔が描かれており、余白には彼女から見た私のチャームポイントがいっぱい書いてあった。
「ふにゃって笑うのが好き」「まつげが長くて綺麗」「ちっちゃいお口が可愛い」「良い香り」などなど……頭が沸騰しそうだ。
色も丁寧に塗られていて、足りない部分はいろんな色を使って塗られており、まるでキラキラと光っているようだった。
日向から見たら、私ってこう見えてるのかな……
隣を見ると、悪戯が成功した子供みたいに無邪気な顔をしていて、きゅぅっと胸が締め付けられる。
言いたいことはいっぱいある。授業中何やってるとか、そもそも絵が上手すぎるとか、でもそんなことより何よりも、嬉しくて鼻の奥がツーンとした。
こんなのずるいよ、喜ばないわけが……
「一華、いま、めーっちゃ可愛いよ」
システムがエラーを検知しました。
このプログラムは処理を続行できません。
回線の保護を目的とした強制的なシャットダウンを実行します。
再起動する際は、メーカーへの問い合わせを確実に行ってください。
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「いっかちんどしたの?」
休み時間に入り、完全に動かなくなった一華を見て勝利を確信した。美酒を持ってこい。
まさかこんなところで、前世で無駄に磨いた落書きのスキルが活きるとは……
ここまで効果があるとも思っていなかったが、結果としては早期決着に持ち込めたので良しとしよう。
「ワンパンやったわ」
「それってどういう……ん?」
一華が握りしめてる絵に巴が気づいて、手にとってまじまじと鑑賞している。
しばらくして顔を上げた彼女は、ジトッとした目でこちらを見てきた。こちらから攻撃したことを特に悪いとは思っていないが、なんとなく、これまた無駄に磨いた口笛スキルを披露した。
「これさぁ……逆効果じゃない?」
「……やられっぱなし、嫌やったんやもん」
「どうすんのさ、いっかちんこれで加速しちゃったら……ヒナ、もっとグイグイこられるんだよ?」
正直言って、そこまで考えて始めたわけではない。
反撃する為に描きだした横顔も、途中からは喜んで欲しくて、自分が一華をどう見てるか知って欲しくて描ききった。
「うん……でも、これもウチの本音やもん」
「……はぁ…………んで、どうすんのこれ」
机に突っ伏したままの一華を見下ろすと、ヨダレを垂らして恍惚とした表情のまま動かない。
とりあえず二人で写真を撮ってから、体を揺すってみると、ビクッと震えてから起き上がった。
「……問い合わせはしましたか?」
「はっ?」
「なんでもありません……」
巴から受け取った絵を大事そうに抱えて俯いてしまうと、申し訳なさそうに一華は口を開いた。
「ごめんなさい……日向のこと、からかったりして」
「……」
「振り向いて欲しくて、ドキドキして欲しくて……ごめんね……」
そう言って、一華の頬をつぅっと涙が伝った。
距離感を測り間違えた結果がこれだ。まったく、反省が足りないだろう。
この子も、自分も。
「一華、泣かんといて」
「ごめんなさい……ひぐっ……日向の事考えないで……」
「それはウチも一緒やんか……一華の想い、知ってんのに……」
「それは、だって貴方には……」
「一華、ウチ、一華のこと好きやで」
言われて数秒固まった後、今度は目をまん丸にする。
彼女が持っている絵を指差して、照れ臭いけど、正直に言う。
「それも、ウチの気持ち」
「…………うん」
「やからな……一華がウチのこと……す、好きって言ってくれたんも嬉しいよ?」
「……ほんとに?」
「ほんま」
「私が、日向のこと好きなの……嬉しい?」
「嬉しいよ」
「……そっか」
一華は涙を拭いながら、それはそれは、嬉しそうに笑った。
背伸びしていない年相応の彼女の笑顔は魅力的で、本当に、難儀な自分を恨んでしまう。
「じゃあ……一歩前進ねっ」
「一華……これからも……」
「よろしくお願いします。日向」
「ごめん、二人とも……その……」
珍しく、巴が空気を読まず会話に入ってくる。
いつの間にか二人だけの世界に浸ってしまっていた。
いつだって巴は自分に思い出させてくれる。そう、ここは教室で、授業の合間の休み時間だったということを
「「…………」」
クラスの注目が自分たちに集まっている。
真剣な話しだったからこそ茶化すこともできない。そんな、大人な対応を選んだクラスメイト達は、しばらく目を泳がせた後、音を立てないように席についた。
廊下から、こちらの様子を伺っていた渚先生がタイミングを見計らって教室に入ってくる。
誰が始めに音を出すかを、互いに譲り合うような教室は、隣のクラスの笑い声にて、やっと均衡が崩れた。
気まずい空気を孕んだまま、ぬるりと授業が始まって、一華と二人ずっと下を向いたまま、ただ、地獄のような空気が過ぎ去るのを待つしかなかった。




