47.明日からの自分へ
「どうですか、体調の方は?」
一時間目が終わって日向の席へ向かうと、上機嫌でもなく、不安がっているわけでもなく、呆けた表情で黒板を見たまま固まっていた。
開いた口から覗く八重歯が可愛い。彼女は歯磨きが面倒だと言っていたけれど、活発な日向にはぴったりのチャームポイントだと、私は思う。
「……ほぁ」
「ふふっ……どうしたんですか?ぼぅっとして」
目を丸くしたままこちらを向いた日向は、空気が抜けたような音を出した。授業中は幸せそうに目を細めたり、キョロキョロと周りを見たり忙しそうにしていた彼女だったが、どうしたのだろう?
「なんか、いっぱい考え事してたから……ノートいっこも取ってへんかった……久しぶりやったから、綺麗に取ろうと思ってたのに……」
呆然と手元を見下ろす彼女に倣って、机の上のノートを見ると、「・代入法と加減法 計算の」とだけ書かれており、授業が始まってすぐのところで止まっていた。
久しぶりの教室に、もっと緊張するかと思っていたが、楽しそうでなによりだ。
「ヒナ、どうだった……ぷふっ……ノート真っ白」
「うえぇ……どっちか後でノート見せてぇ……」
「いいけど……要る?ヒナ分かるんじゃないの?」
「代入法と加減法って……確か連立方程式やろ?こんなもん忘れたわ。ウチの貯金もおしまいやぁ……」
勉強らしい勉強をしていないのに頭の良い日向は、周りから見たら天才に映るかもしれない。その天才のタネを知っているのはともちんと私と、もう一人、一ノ瀬君だけだ。
頭を抱えながら教科書をめくる日向なんて初めて見た。なんだか可笑しい。
「それにさ、せっかく教室で授業受けてるんやからさ……ウチは皆んなとおんなじことやりたいんよぉ」
普段は課題のプリントばっかりやってる彼女だから、思うところなのだろうけど、こういう健気なところも、私は好きになったんだろうな……
もしかしたら、そのうち日向に勉強を教えるなんて日が来るかもしれない。そう思うと、一緒に成長出来てるみたいで嬉しいな。
「はいどうぞ、明日にでも持ってきてくださいね。この後はどうするんですか?」
「ありがと!んん……いけるとこまではおりたいかな!先生とも相談してやけど」
そう言われてともちんの方を見ると、彼女も同じ考えなのだろう、私の目配せにこくりと頷き返してくれた。
ならばしっかり見ておかないと。放っておいたら、日向はどこまでも無理をし続けそうだから。それこそ、先週の体育祭がいい例だろう。
予鈴が鳴ると、皆んなそれぞれ自分の席に戻って、次の授業の準備に取り掛かる。
黒板の横に貼ってある時間割を見ると、次の授業は社会だった。
分厚目の教科書を取り出し、前回習ったところを適当に流し見していると、左隣から肩をつつかれた。
なんだろうと思い、先週までは空席だったそちらを見ると、少し恥ずかしそうにしながら、隣の人はこう言った。
「一華……教科書忘れた……一緒に見して?」
へにゃっと笑うその顔は、人を引き寄せる魅力が詰まってて、断る選択肢を遥か彼方に吹き飛ばしていった。
本人は無自覚に、この可愛さを近距離で振りかざしてくるのだから、モテないわけがない。
今の彼女の状態と、一ノ瀬君という抑止力がなかったら、どうなっていることやら。
しかし本人には心に決めた相手がいて、「なびきそうで絶対と言っていいほどなびかない」とは一ノ瀬君の言葉だ。
我ながら、難しい恋をしてしまったなぁ……
「ふふっ、仕方ないですねぇ……机くっつけましょう」
「ありがと!くふっ……机くっつけんの、なんか学生って感じやなぁ」
そう言って嬉しそうに笑う日向は、一瞬一瞬を楽しんでいる。最近まで無かったその余裕は、彼女が取り戻しつつある日常の、その過程なのだろう。
「日向、ちょっとちょっと、お耳かしてください」
「んぃ?どーした?」
その、何気ない日々に私も含まれてるって思うと、やっぱりすごく嬉しい。
日向が笑って、私がそれを見て、また明日も同じように笑える。そんな日々が続いてくれたらいいと思う。
でも、だとしても私は、その日常に潜むイレギュラーになりたい。
「貴方のこと、大好きよ」
耳を押さえて、みるみる真っ赤になる日向を見ると、「してやったり」そう思っちゃうのはイジワルかな?
あぁ、可愛いな。許してね。これが私の日常だから。
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がらんとした教室に一人、遠くから聞こえる街の音を聞きながら、英語の課題を進めていく。
午前中の授業が終わり、三階の教室に戻って昼食をとった後は、そのままこっちで過ごすことにした。
いつも以上に静かに感じるのは、午前中が賑やかだったからだろうか。二年三組だって、授業は粛々と進んでいたのに。
「…………あかーん、ねむい……」
誰もいないのに、癖で口に手を当てて欠伸を噛み殺す。
思ったより疲れているのか、先ほどからうつらうつらとしては、つい船を漕いでしまっている。
久しぶりの教室は、良くも悪くもそこそこ神経を使うところだったのだろう。皆んな知ってる顔なのに一人だけそわそわして、ちょっとからかわれて、昨日のバラエティ番組の話をして、飽きるほど経験したはずの教室での時間。
「賑やかやったなぁ……」
殺風景な教室に戻ると、誰の話し声も聞こえない。
物音もしなければ、人の気配もない、去年の十月頃から通っている、もうすっかり慣れ親しんだこの教室。
もっと寂しく感じると思っていたが、いつまでたっても想像していたような孤独は襲ってこない。眠気でそれどころではないのだろうか。
授業に疲れて眠くなるなんて、子供じゃあるまいし……
「ふぁ…………ぁ、よだれ……」
汚なっ……拭かんと…………
ハンカチ……あれ……どこいった…………
………………………………………………
…………ぃ……
…………。
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体を揺すられる感覚と、優しい香りがして、ゆっくりと意識が持ち上がった。
まだ微睡の中にいる空っぽの頭で出来る事なんて、とりあえず伸びをするぐらいのもので、自然と出た欠伸を隠すこともしなかった。
「…………あふ……」
「おはよう、日向」
「んん……いちかや…………おはよぅ……」
一華からの挨拶に目を擦りながら応えて、深い息をつく。
鼻から入った酸素がいくらか思考をクリアにすると、目の前の情報を、段階的に理解していった。
「あり?一華……なんでおんの?」
「えっと、ハンカチ教室に忘れてたので、届けに来ました」
「あ、忘れてたんや。ありがと……なんで鞄持ってんの?」
「そりゃ、部活行きますから……」
「えっ!?今何時!!」
驚いた拍子で、椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がった。
十五時五十五分、時計の針が指している時間が正しければ、現在は掃除も終礼も終わり、放課後に入っていた。
「ウチ、五時間目からずーっと寝てた」
「ぶふっ、何やってるんですか、もう……」
「笑わんといてぇや……なんか、眠たくなったんよ」
「あははっ……寝顔、可愛かったですよ?」
よだれの跡がついてないか、口の周りを袖で拭いて、髪の毛も手櫛で整える。
寝顔を見られたのが無性に恥ずかしくて、正面から顔を見られなかった。
今朝、耳元で言われた言葉も意識してしまう。ああいう事を言う時の一華には、いつも調子を狂わされる。
それを知ってか知らずか、ニコニコと笑顔でこちらを見る彼女は、こちらの出方を待っているような気がした。
「ぅ……知ってんでその顔!またウチで遊ぼうとしてるやろ!」
「そんな、日向で遊ぶなんて……」
「普通にしてやぁ……」
一歩二歩と近づいてくる彼女にたじろいで、先ほど蹴飛ばした椅子につまづいて座ってしまう。
自分を見下ろす一華は、なんだか少し怖く見えた。
「ねぇ日向、目、瞑って下さい」
「あ、あかんよ、そんなん……」
「はやく」
「……」
なに期待してるんだと、節操の無い自分が嫌になる。
でも、しょうがないじゃないか。こんなに胸が高鳴って、一華ならって、全然嫌な気持ちにならないんだから。
なにされたって別に……
「期待した?」
また耳元でそう言われて、へなへなと腰の力が抜ける。
目を開けると林檎みたいに真っ赤になった一華が、後ろ手を組んで悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「じゃあ、また明日」
「……あぃ……またあした……」
教室から出ていく彼女を見送った後も、しばらく胸を押さえたまま動けなかった。
いつまで経ってもおさまらない鼓動を確認するように体を丸めて、言い訳を言ってやろうと口を開く。
「……好きやんか……こんなん」
口から出た言葉は、呪いのように自分を縛った。
もう言い逃れ出来ない。顔が熱いのも、胸が苦しいのも、全部全部、一華のせい。
せっかく教室に復帰したのに、明日からどんな顔して行けばいいですか。




