45. 36.6°C
傷跡から目を背けることは悪いことではないはずだ。
一華は同じ痛みを知っている。だから彼女の手を握って、少しでも慰めてもらおうと……
優しい声をかけてくれるのも、労うような目で見てくれるのも、全部、自分を裏切るための芝居だったと、その時初めて知った。
「いででっ!痛い痛いっ!優しくしてぇな!」
「しょうがないでじゃないですか、ちゃんと消毒しておかないとバイ菌入っちゃいますよ」
二人三脚で転んで、遅れに遅れてゴールテープを切った時になって初めて、自分も一華もあちこち擦りむいていることに気がついた。
運動場に出張中の保健の先生が捕まらず、救急箱も出払っていたので、こうして保健室までやってきた。
一華の傷の手当をしている時は痛そうにする彼女を見て、いたたまれない気持ちになり手加減したというのに、攻守が交代するや否や、彼女は傷口を執拗に攻め立ててきた。
「サディストや……一華は痛がってるウチ見るんが好きなんやろ!!」
「……さて、戻りましょうか」
「否定してや!!なぁ!」
さっさと行こうとする一華に慌てて着いていく。
納得できないところは多々あるが、とりあえず手当が済んだので、隣を警戒しつつも一緒に戻ることにしよう。
さっきまで二人三脚で走っていたからか、自然と歩調が合って足音が一つになる。
同じ歩幅の足を見ていると、おかしくなって笑えてきたが、それは隣の彼女も同じだった。
「ふふっ……真似しないでくださいよ」
「いっち、に!いっち、に!」
「あははっ!もう、すぐそうやって笑かしてくる」
外靴に履き替えて昇降口を出ると、体育祭の活気が、風に乗ってやってきた。
今度はお互いに肩も預けて、少しだけ痛む擦り傷を庇いながら、ゆっくり二人三脚でクラスのところまで戻っていった。
——————
「「ただいまー」」
クラスメイトの元に戻ると、ちょうど男子は出払っていた。どうやら次の騎馬戦に向けて入場口に向かったらしく、二年生の区画は女子だけが残ってがらんとしていた。
「おかえり、二人とも傷どう?」
「聞いてやトモ、一華が消毒のヤツでグリグリしてきてん」
「人聞きの悪い……入念に処置しただけです」
「あ、帰ってきた!最下位コンビ!」
失礼な!事実は時に人を傷つけると授業で習わなかったのか。
半分暴言のような呼び名で自分たちを呼んだのは、クラスメイトの佐々木泉。少しずつ、クラスに顔を出すようになった自分に、興味ありげに話しかけてきたのがきっかけで仲良くなった。
「失礼な!事実は時に……」
「日向のせいで転けてたじゃん!ぷぷぷ……」
「最後まで言わせてや……その節は大変ご迷惑を……」
「いやぁ、二人の写真いっぱい撮ったからさ、赤外線で送るよ」
「全然話し聞いてくれへん……」
そう言われて、学生鞄から携帯を取り出そうとしたが、どこにも無い。そこで、ふと思い出した。保健室に行く際、ポケットに入れて持って出たのだ。おそらく保健室に置き忘れて、そのまま帰ってきてしまったのだろう。
「ごめん、保健室に携帯忘れたわ!ちょっといってきます!」
来た道を、今度は一人二脚で戻っていく。
保健室に着くと、携帯は椅子の上にポンっと置いてあり、無事回収できた。
戻りながら、今日一日撮った写真を見返していると、自然と顔が綻んでしまう。
校庭まで戻ってくると、男子たちの騎馬戦は、既に終了しており、見逃してしまった事を後悔した。
「夏野さん、だよね?」
「……?はい?夏野ですけど……」
背後から声をかけられて振り返ると、知らない男子生徒が、携帯片手にこちらを見ていた。体操服の模様の色からして、三年生の先輩だ。
近づいてきた彼に、少し気圧されながらも、普通の対応を心がける。
「もし良かったらさ、一緒に写真撮ってくれない?」
「えっ……と、すいません。自分……男の人が……」
「えー?結構友達とは距離詰めてたじゃん。お願い」
そう言って頭を下げてくる彼からは、悪気も下心も感じない。
体育祭で、せっかくだから名物生徒と写真を撮りたい、そんな感じだと思う。
「……ごめんなさい。知らない人とはちょっと、難しいかもです……すいません」
「そっか、ごめんごめん。じゃあ、単体ならどう?」
「……まあ、それなら?」
その場でピースサインで写真を何枚か撮ってもらう。
正直言うと、ちょっとだけ不快だ。よく知らない相手から写真を撮られるのに不安を覚えるのも、女の子になったからだろうか?
そもそも、そんな状況になったこともないから分からない。
「ありがとう。ごめんね引き止めて」
「ッス、あざっした」
「あ、そうだ。今の写真、赤外線で送るよ」
そう言って彼は、自分の携帯に手を伸ばしてきた。
その手が、なんて事ない普通の手が、あの日、自分の口を塞いだ手と、重なって見えてしまった。
「っ…………ぅっ……ぅ……すいませんっ……」
返事も待たず、その場を後にする。いくら息を吸っても取り込めていないような感覚がして、とにかくこの場を離れたくて人混みを縫っていく。
「はっ……はぁ……っ、あれ……息、入って…………あっ!?」
競技場の入場口まで来たところで、携帯を投げるように落としてしまい、また、嫌な予感が頭をよぎった。
拾い上げてみると、角の塗装が剥がれただけで、故障はしていなさそうだ。
安堵したからか、息が整ってきた。これで画面でも割れていたらと思うと……
「……スマホやったら……終わってた」
「ひな?」
携帯から顔を上げると、春樹が調子を伺うようにこちらを見ていた。
とっくに騎馬戦は終わっているのに、何故こんなところに?
『次の種目は、クラス対抗リレー、二年生の部です』
「……あぁ……次か」
「お前……大丈夫か?」
「疲れた……疲れただけや。次でウチら最後やで。ハルは、ハンデとして逆立ちで……」
「あ、ヒナ!やっぱりこっちにいた!」
後ろから巴に声をかけられ、会話が中断させられる。
少しだけ、澱んだ気分が晴れるような気がして、足に力が戻っていく。
できるなら楽しいまま体育祭を終わりたい。
せっかく良い思い出にできそうなんだから。
「むふぅ……張り切ってんねん」
「ひとこと言ってくださいよぉ……頑張りましょうね!」
「うん……なんか疲れてるから、調子出ぇへんかもやけど勘弁してや」
「あ、それで顔色……時間まで休んでおいたら?」
近くの木陰に腰を下ろし、自分に落ち着くよう言い聞かせる。
今朝から鳴り続けている耳鳴りも、気分が悪くなるほどの動悸も、考えが纏まらないフワフワした思考も、どうしたら治るのか、どうしたら消えてくれるのか分からない。
「おーいヒナ!入場だよ!」
「はーい!がんばるッス!」
競技場に入って感じたのは、大勢の人と、日差しの暑さと、音割れした音楽。それら全てが、今の自分には辛いものだということ。
次いでピストルの破裂音が聞こえ、一斉に皆んなが応援を始めた。
「……いける、大丈夫や」
自分の番までもう少し余裕がある、といっても、何ができるというわけでもない。
一華も巴も、陸上トラックの反対側にいる。
ちょっとだけ座って、出番がくるまで休んでおこう。
帰ったらゆっくり休もう。お風呂に入って、晩御飯は豚カツって言ってたから、卵出汁に漬けていっぱい食べて……豚カツだったら普通、前日かお弁当じゃない?
寝る前にちょっとだけゲームして……今日は日記に色々書けるな……楽しかったこととか、怪我したこととか、写真もまた見返して……
「夏野、そろそろだぞー」
顔を上げると、ちょうど自分の二つ前の走者が出発した瞬間だった。
二年三組は現在四番手と、少し遅れ気味のようだ。前から走り終わった春樹が歩いてきているから、彼に引き離されたのかもしれない。
足の速さはそこそこ自信もあるし、自分の番で巻き返せれば良いが……
「ハル……手加減せぇよ……」
「……するわけねぇだろ。お前こそ、ゆっくり走れよ」
「あほお前、ウチのごぼう抜き見とけや」
レーンに入ると、やたらと重く感じる足を鬱陶しく思いながら、手足をほぐす。
トラックの反対側を見ると、もうすでに直前の走者はスタートを切っていた。
いよいよだ、大丈夫、たった二百メートルを走るだけ。
「つむちゃーん、勝たせてもらうでぇ」
「はぁん?こっちのセリフだわ!吠え面かかせてやんよ!」
コーナーを抜けてきた走者達は、三人が団子になってこちらに向かっている。
自分にバトンを渡す創も、少し遅れて必死の形相で追いかけてきている。
大丈夫、バトンパスは何度も練習した。顔さえ見なければ大丈夫。絶対大丈夫。
先頭の二人が、それぞれ次の走者へバトンを渡す。
その直後、走り終わった男子の一人がレーンを抜けようとして、後ろから来た者と接触した。
こちらに弾かれた男子が、避けきれないまま驚いた顔で向かってくるのが、やたらとゆっくりに感じた。
「ぇ……あぅっ!」
突っ込んできた男子にそのまま吹っ飛ばされて、ぐらぐらと揺れる視界ですぐ起き上がると、もうすぐそこまで創が迫ってきていた。
「っ…………なんでっ……うぁっ!」
バトンを貰い、嫌な感覚を振り切るように走り出す。
ギリギリと痛む胸を無視して、うるさい耳鳴りを振り払って、寒気のする背筋から目を背けて、とにかく走った。
次の走者である巴にバトンを渡すと、すぐに一華が駆け寄ってきて手を引いてくれた。
「大丈夫でした!?怪我とか……男の子とぶつかったんですか?」
「うん……痛いから……なんか、ちょっと……先生のとこ行く」
どんどん胸が苦しくなっていき、見えている景色が波打っているように揺れる。
皆んなが何か言っているけど、聞き取りづらい。
やたらと地面が遠く感じて、足を踏み出すのが怖い。
今はとにかく、何処かで一人になりたかった。
競技場の出入り口まで来ると三年生が集まっていた。
その人混みを、縫って通り抜ける余裕もなくて、白ボケてきた視界でなんとか避けていく。
すれ違う人がこっちを見ているのも、怖くてたまらなかった。
呼吸が浅くなって、体に空気が入ってこない。
「……はぁっ……は、ぁ……ぃっ……どっち……行ったら……」
「ひな!」
「あぇ……ハルや……ひっ、ぅ……どうしっ……」
ドンっと背中から衝撃を受けて振り返ると、戯れあっていたらしい男子生徒の背中が見えた。
頭が真っ白になって、次いで膝に鈍い痛みが走った後は、なんだか手足が痺れてきた。
寒い場所で微睡んでいるような感覚は、すごく不安だったけど、しばらくしたら、体の正面があたたかくなって、すごく安心したのを覚えている。
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鈍くなっていた思考がゆっくり覚醒してきて、目から入ってきた情報を正確に処理しだす。
「……なんで、どこ……」
「あ、起きた」
「ハル……?あ……保健室?」
保健室でカーテンを閉め切ってベットを使ったことがなかったので、病院にでも運ばれたのかと思った。
呼吸も整っていて、心が冷え切っているような感覚も無い。あの耳鳴りも、いつのまにか止んでいた。
今は、とても穏やかな気分だ。
「いきなり倒れたからびっくりしたぞ……やっぱ無理してやがった」
「……ごめん。無理してました」
「体調どうだ?」
「うん、今はだいぶええよ」
先ほどまでの感覚を思い出すとゾッとする。
気絶とまではいかなくとも、何も考えられなくなるとああなるのか……
どうでもいい事かもしれないけど、貴重な体験をしたみたいだ。
「あれ、ウチどうやってここ来たん?」
「……すまん」
「……?なに?どしたんよ……」
「突然だったし……背負って連れてきた」
「…………えっ!?」
ベッドから勢いよく起き上がると、両膝の痛みで顔をしかめる。
そういえばと、ぼんやりとした意識の中、膝を打ったことを思い出した。
その後少しして、心地良いぬくもりを感じて安心したことも……
「……そっかぁ」
少し開いた窓の隙間から、体育祭の閉会式をしている放送が聞こえた。
乗り切れなかったけど、良い思い出にはなったかな。
皆んな心配してるだろうから、いっぱい謝らないと。
「……そろそろ行くよ。ゆっくりしとけよ」
「あっ、待って!」
「ん?どした?」
「……手、かして」
「……」
カーテンを開き、春樹が右手を差し伸べる。
その右手に、自分の右手をゆっくり近づけてみる。
もう少し、あと少しといったところで、ぴりっと指先が反応する。でも、それ以上に先ほど感じたぬくもりが、あとほんの少し指を近づけてくれた。
音もしないほど優しく触れ合った指先は、じんっと熱を伝えてくれて、その熱が、今度は彼の手を握らせてくれた。
「ひなっ……だ、大丈夫なのか?」
「……怖いよ……まだ怖い」
でもそれ以上に、あたたかいことを知っているから。
握った手を今度は頬に持ってくると、そのぬくもりを確かめるように、頬をそっとすり寄せる。
嬉しくて涙が出るなんて、久しぶりだ。
「ハル……やっと…………やっとや……」
「……ゔん……ひな……っ……良かった……」
「……ありがとう」
少し開いた窓から吹く風が、カーテンをふわりと持ち上げる。
なんとなく、この光景も写真に収めたかったな……
長かった体育祭、楽しかったし、大変だった。
でも、あの日に払い除けてしまった手をもう一度握れたことは、とても、とても嬉しかった。
なんやかんやで体育祭は三話構成になりました。
あちょー!




