44.楽しんだよ
「日向……恥ずかしくないですよ、もっと見せて……」
家族以外の誰にも見せたことがなかったのに、隠そうとする自分の手に彼女が自らの手を添えると、この日ばかりは自分の非力さを恨んだ————抗えない……
露わになった二つの山に、一華が覗き込むようにして視線を巡らせる。
「いちか……みんなが……」
「ふふっ……ねぇ、食べていい……?」
「……知らんよっ……ぁ……」
彼女が口をつけると、形を変えるそれを楽しむようにして舌先で……
「……あっ、卵焼き出汁派なんですね」
「えっ、一華甘い派?」
「二人とも、馬鹿なの?」
盛り上がっていた体育祭は、午前中の種目が終了して、お昼ご飯の時間になっていた。
基本的に教室に戻って昼食を取るよう言われているが、家族が観覧に来ている場合や希望者は、運動場で食べても良いとのことなので、休憩用のテントで弁当を広げていた。
「にしてもヒナのお弁当、珍しくない?二段で、しかも山盛り……」
「普段は少食ですもんね。小さいお弁当箱一つのイメージです」
「聞いてや一華ちゃん。この子朝から頑張ってたんやで?『一華と二人三脚出るからお弁当食べてもらうねん』って、むっちゃ早起きして作ってたわ」
母がそう言うと、一華がバッとこちらを向く。驚き顔が、みるみる嬉しそうになっていくのを見ると、作った甲斐があったとは思うが、こちらはどんどん顔が熱くなっていく。朝、母に口止めしなかったことを後悔した。
「お母さん……言わんといてぇや……」
「お義母さん、私、本気ですからね」
「うちの娘は押しに弱いから、グイグイいきやぁ」
「お母さんっ!!」
なんで娘を売るようなことを言うのか。言わんこっちゃない。一華が嬉々としてこちらを見ている。
親からの公認を得たとばかりに隣に座ってきた一華は、自分の弁当箱から卵焼きを取り出しこちらに差し出した。
「はいっ、あーん、です」
「うぅ……恥ずかしいやんか……それこそみんな見てるし……」
「交換っこです、あーん」
「…………あむっ……ん、甘いのも美味しい……」
優しい甘さが舌先から広がって、口の中が幸せな気分になる。
その優しさが、なんとなく彼女らしいと思ってしまい、顔の熱を誤魔化すために水筒のお茶を飲んだ。
隣を見ると、一華は幸せそうに微笑んでおり、巴と母はニヤニヤとこちらに不躾な笑顔を送っている。
「……なんよ!見んといてっ!」
「むふふ、ヒナ、今可愛いよ」
「ひなちゃんはホンマ押しに弱いな。お父さん似やわ」
「もうっ!お昼ご飯ぐらいゆっくり食べさして!!」
体育祭の再開を告げる放送が学校中に鳴り響き、ちらほらと戻ってきていた人波は、たちまち奔流となり運動場に流れ込んできた。
母に戻ることを告げ、自分のクラスの区分へ戻ると、しばらくして、昼一番の種目である応援合戦の開始が放送された。
「応援合戦……去年はどうでしたっけ?」
「えーっと、ほら……去年は……」
「あー、ウチそもそも参加してへんわ」
去年のこの時期は、ちょうど市川からのイジメが始まったばかりだったこともあり、三者三様に体育祭の思い出が薄かった。
一華は巴を市川から守るのに神経を使い、巴は市川に怯え、自分は確か……掃除用具入れに一日……
「……ほんまに大変やったなぁ」
「なんと言うか……やっと体育祭を楽しめてるんだね……」
「あ、新しい思い出にしましょう……ん、始まるみたいですよ!」
一年生から三年生まで、各学年五組ずつのクラスがあり、それぞれ自陣の色の鉢巻を巻いた応援団が、運動場中央に向かって花が開くように整列すると、太鼓の一打を合図に会場が静まり返る。
そこからは、各クラスの応援団長が先頭に立ち、掛け声を上げる。それに迫力のある和太鼓と団員達の声援が重なり、やがて各クラスの生徒も加わって、大きな応援合戦へと変わっていった。
「あっ……これっ、きつい……」
この一日で慣れてきたとはいえ、真横で怒号のようなコール&レスポンスを浴びていると、突然押し寄せてきた不安につい耳を塞いでしまう。
音が静まるのを感じても、しばらくそのままでいた。
先ほどよりも大きくなった耳鳴りを聞いていると、不思議と落ち着いて息を整えられたから。
肩に軽い衝撃を受けて意識を外に向けると、巴から声をかけられていた。
「ダメそう……?無理だったらすぐ言って」
「まだいける」
「まだ……って、結構キツかったんでしょ?先生呼んでくるから……」
「トモ」
肩から離れた巴の手を掴んで、少しだけ揺れる視界で巴の瞳を捉える。
周りの状況も、自分の状態も分かっている。
皆んなに迷惑かけるかもしれないけど、ちょっとだけ、わがままを言わせてほしい。
「もうちょっと無理させてぇや。ウチ今日、めっちゃ楽しいねんから……」
「……」
「みんなと一緒なん、久しぶりやねんもん」
「……ずるいよ、断れないじゃん」
困ったように眉を八の字にした巴は、そっと頭を撫でてくれた後、両手でほっぺたを引っ張ってきた。
「ごえんな……ひんふぁいひへふへへふおに」
「アホやアホ。ヒナはアホやなぁ」
「……いんほえーひょん|きっひょ!」
競技が終わり、待機所へ移動するため、一華に目配せしてから席を立つ。
気持ちよくは見送れない。そんな顔の巴に、精一杯の笑顔で行ってきますを伝える。
「見といてやトモ、一華と全員しばいてくるから」
「ばかっ、気をつけてね」
相変わらず生徒達が行き来する中を、誰とも目を合わせないよう、一華の手を引きながら歩いていく。
楽しさで誤魔化せていたものが、じわじわと肌の下から溢れてくるような感覚だ。最近は調子が良かったこともあり、久しく感じていなかった心が寒くなるような不安を、荒れた呼吸で体の外に逃がしていく。
「日向」
繋いでいた手を引っ張られ、立ち止まると、一華が硬い意志の宿った目で自分を見ている。
「大丈夫だ」と、そう言う前に、彼女が両手を握って深呼吸を繰り返す。
「はい、吸ってぇ……吐いてぇ…………吸ってぇ……」
呼吸を整えるよう、彼女のリズムで息をする。
心の換気が出来たころ、一華は優しい笑顔で言った。
「楽しみましょう。今日を、あなたの良い思い出にしましょう」
「……ううん…………三人の新しい思い出に」
無理をしていることなんて百も承知なのに、一華も巴も、こんな自分のわがままを聞いてくれる。
だったら、あの日勝ち取った今日を、思い出として返そう。
去年のことなんて嘘みたいに思えるように、笑ってる自分を見てもらおう。
待機場に到着する頃には、自分たちの出番が近づいていた。
無理して楽しもうとしていたさっきとは違い、今は心からワクワクしている。
自分は今、体育祭を心から楽しんでいる。
「ありゃ、日向に一華だ。あんたらも出るんだ」
「実里さんっ!桜さんっ!ふっ……手強い二人ですね……」
「一華、変なスイッチはいってるよぉ」
「あれま皆さんお揃いで、負けらんないな」
「紬さんも!?ふぅん?面白くなって来ましたね……」
「だからなんなのさ……日向、あんたの相方、芝居モード入ってるわよ」
呆れたような顔を向ける実里に、鋭い視線を返すと、彼女はびくりと肩を震わせた。
自分は今、体育祭を楽しんでる。ならば狙うは勝利。
目に映る者どもは、一華以外は皆んな敵だ。馴れ合いは不要。
我は鬼、修羅、辻斬り……えーっと、幽霊。
「むぅん…………」
「なんなのこの二人……なんでこんな前のめりなの」
前の競技が終わり、入れ替わって競技場に入場する。
午前中はうるさく聴こえた音楽も、楽しむ余裕が出てきた。踵でリズムをとりながら、体を揺らして出番を待っていると、足同士を結ぼうとしていた一華に注意される。
「もうっ、じっとしててください」
「ふふっ……ごめんごめん」
「一位取って、ともちんに持って帰りましょう」
「うん……せや一華、どうせやったら、これで結ばん?」
頭に巻いた鉢巻を解いて、軽く引っ張りシワを伸ばす。
三人で交換した緑色の鉢巻、自分が頭に巻いていたものの端には、「柊巴」と書いてあった。
しかしそうは言ってみたものの、少し汗が染み込んでいて、目の前の彼女に渡すのを躊躇してしまう。
「ともちんも一緒に走ってるみたいで、良いじゃないですか」
「一華……」
「それにね」
一華は自分の手から鉢巻を掠め取ると、自身の鼻先にそれを持っていき、目一杯息を吸い込んだ。
「日向の汗なら、ぇ……」
「あ!やめて!くさいから!絶対くさいから!」
「あなた達、次ですよ。早く結びなさい」
先生に注意され、急いで自分の右足と、一華の左足を結ぶ。
体をピッタリくっつけて、肩を預け合って、それを結ぶ巴の鉢巻。
最初に一華と引き合わせてくれたのも、巴が声をかけてくれたからだったな……
「あっ……やばい泣きそうぅぅ……」
「えぇっ!!ど、どうしたんですか!」
「ぐすっ……なんでもないぃぃ……」
「位置についてぇ!よーいっ」パァン!!
ピストルの炸裂と同時に、真ん中の足を前に出す。
そういえば、打ち合わせたわけでもなかったのに、示し合わせたように、自然と真ん中の足からだった。
いつのまにか、掛け声すら忘れて走っていた。
隣を見ると、一華が満面の笑みで楽しそうにしている。
それを見る自分もまた、自然と笑いが込み上げてきた。
「あははっ!速い速いっ!こけてまうぅ!!」
「ぶっちぎりですよぉ!このままいきましょう!」
コーナーを抜けて直線に入り、ゴールテープが見えてくる。その少し手前に自分たちのクラスの区間があって、巴が身を乗り出してこちらを見ていた。
「あ!トモや!」
「ともちーん!写真撮ってぇ!!」
「二人とも!一位だよっ!!頑張れぇ!!」
「ありがとう!!トモ!!」
左手を出して見せると、少し驚いたような顔をして、巴も左手を伸ばしてくる。
差し出されたその手に、思いっきりハイタッチをして、ゴールテープを目指す。
「あっ、やばっ!」
「えっ?あうっ!?」
ハイタッチから体勢を戻しきれず、バランスを崩して一華共々盛大に転げる。
やってしまった。とにかく一華を起き上がらせようと隣を見ると、何が起こったのか分からなかったかのように、ポカンとした表情でこちらを見ていた。
顔中砂だらけの唖然とした彼女を見ていると、先ほどまでの勢いは嘘だったのではないかとすら思える。
そのまま巴の方を見ると、彼女も全く同じ表情でこちらを見ており、おそらく自分もまた、同じ顔をしているのだろう。
「ご、ごめんいちっ……ぶふっ」
「ひ、ひなた……ぶはっ」
「二人とも、何笑ってんの……っ……あははっ!」
当然のように結果は最下位で、クラスの皆んなの所に帰ったら、散々つっつかれたけど。
三回あった中学校の体育祭で、二十年後も話題に上がるのは、この時の話ばかりだ。
めちゃくちゃ楽しかった、十三歳の思い出。




