39.一歩
硬い手のひらで口を押さえられた時、抵抗することを諦めた自分は、自由になった右手でただ、苦しくなる胸を押さえることしかできなかった。
足を持ち上げられた時は、羞恥と屈辱、恐怖と嫌悪感が綯い交ぜになった感情で頭が割れそうなほど痛かった。
それらをどうすることもできない自分の体が、名前も知らない目の前の男に、これから好き勝手弄ばれるかと思うと……
もう、死にたいと思った。
「あぁっ!?はぁっ……ぁ…………うぅっ………っ」
つんざくような耳鳴りと、口に広がる鉄の味が、夢と現実の境を曖昧にする。
あの日感じた圧迫感、記憶にこびりついた匂い、鮮明にフラッシュバックしたそれらは、未だに自分を布団から飛び起こす目覚ましとなっている。
「うぐぅ……ぅ……………………寒っ」
自室の温度を異常に思い、布団を被りながら部屋を見渡すと、換気のために開けた窓がそのままになっていた。
悪態混じりに布団を出ると、雪がはらはらと降り注いでいるのが、街灯に照らされていた。
「そら寒いわ……はぁ……」
窓を閉めると、さっきまで無音だった室内が、更なる無音で満たされた。
気がつくといつもの発作は止まっていたが、全身に立った鳥肌は窓を閉め忘れていたことが理由ではない。
少しずつ、良くなってきているのだが……
そう簡単に克服できるとも思っていなかったが、丸二ヶ月間、父親以外の男性とまともに会話すらできていない。
どれだけ自分に言い聞かせても、ただ目を合わせただけで、あの日の暗い感情が心の底からじわじわと肌の下を這いずる。
「……ハルに会いたいのになぁ」
また春樹を拒絶してしまうのが怖い。
屋上で春樹の手を払い除けた時のとても寂しそうな顔が忘れられなくて、遠目に姿を見ても声をかけられずにいる。
会って確かめたい。幼馴染など、心の底から無害だと分かりきっている相手となら、比較的症状も落ち着いたものになると、児童精神科の医師も言っていた。
「アイツほど安心出来る相手もおらんやろ……」
それでもあの日、指先から伝わってきた悪寒が拭いきれず、自分のことを信じさせてくれない。
何だか泣きたくなって、ふて寝するように布団を被って目を瞑ったところで、毎朝聞いている機械音が頭上で鳴り響いた。
「っ……なんやねん……中途半端やなぁ……」
枕元のデジタルなボロ時計を見ると、時刻はきっかり午前六時〇〇分、日付は十二月二十五日。
冬休み二日目、イルミネーションが街を綺麗に彩り、日本ではフライドチキンを食べ、赤い服を着たおじさんがやってくる。いわゆる、クリスマスだ。
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少し遡って十二月十八日。
「クリスマス会がしたい」実里がそう言い出したのは、日向の教室で日向と一華と桜との四人でお昼ご飯を食べていた時だった。
クリスマスなんてカップルにとっては外せないイベント、しっかり交際が続いている小林佑樹と過ごすものだと思っていたのだが、どうやら前日のクリスマスイブに街へデートに行くそうだ。
「実里はねぇ、日向と遊びたくてしょうがないんだよぉ」
桜曰く、どうやら自分と遊ぶためにクリスマス当日は、小林に譲ってもらったと言う。
言い繕う実里の頭を撫でて可愛がり、どうせならと紬を誘って日向の家でクリスマス会をすることになった。
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時は戻って現在。クリスマス直前に決まったということもありケーキの用意ができず、買い出しついでに小さいをいくつか買おうとしていたところ、ケーキのスポンジが目に入った。
「トモ、もうちょい上から絞った方がええよ」
「ふむふむ……あ、ほんとだ」
どうせなら思い出に残る事をしたいと、昼前から夏野家に集まって、一華と巴と一緒にホールケーキを作っていた。
と言ってもスポンジも生クリームも出来合いのもので、フルーツを切ったり生クリームを絞ったりと、実に中学生らしいケーキ作りをしていた。
「……ふぅ、形になってきましたね」
「小さい頃は、よくお母さんとケーキ作ってたなぁ」
「トモはもっと女の子女の子してたのに、今じゃバスケ女子やもん。感慨深いわぁ」
初めて会った時の巴は、日向が思い描く女の子そのものだったのに、気がつけばどんどん成長していって、今では身長も三人の中では一番高いお姉さんになっていた。
相変わらずオシャレをするのは好きだけど、子供の成長を見ているみたいで、何となく寂しい思いもある。
「それを言ったらヒナじゃない?くくっ……これで元は男だって言われてもなぁ……」
「ぐふふ……季節限定は一味違いますねぇ……」
上から順に、赤いポンチョに赤いショート丈のワンピース、赤白ボーダーのニーハイソックスと、いわゆるサンタクロースのコスプレをしている自分に、一華が舐め回すような視線を巡らせる。
バットを持っていた一華は、あんなに格好良かったのに……
「え、ええやんかべつに……可愛いかなって……思ったんやもん……」
「日向、あなたの部屋行きましょう?大丈夫、何もしないから」
「うん、ヒナはそれで良いと思うよ。男の子っぽくて、でも女の子らしくて……それが、ヒナらしい」
「トモ……すんっ…………もう、泣かせんといてぇや」
「あれ?無視されてます?ひなたー?」
巴は、心も大きくなったんだ。
こっちに引っ越してきてから、ずっと一緒にいて、色々な事を経験した。
一華との仲を繋いでくれたのも彼女。
誕生日の日、辛いなら一緒に悩もうと言ってくれた。宿泊研修の時も、修学旅行の時も、そして、二人で喧嘩した時も。
ずっと、自分を見ていてくれた。支えてくれた。
「ふふっ……何で一回目の時は仲良うならんかったんやろなぁ……ウチら、高校同じやってんで?」
「……多分さ、私もヒナと同じだったんだよ」
「……同じ?」
「おーい、お二人さーん」
「うん……私もさ、あの子から目を背けてたんじゃないかな?市川から庇ってもらって、でも怖くて支えられなかったんだよ。きっと。だから、ヒナ……君?に声かけられなかったんじゃないかな」
「あ、この場にいない事になってますよね?だって「一華うるさい」……」
「だから……今度はヒナの支えになりたい。だって、ヒナは私を助けてくれたヒーローだもん」
照れくさそうに笑う巴の言葉は、じんわりと心が温めてくれた。
ずっと支えてくれてたよ。それを言うのは野暮だろうな。
「トモ、大好きやで」
「うん……私も大好き」
「泣きそうなんですけど」
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「「「メリークリスマス!」」」
あの後、実里と桜と紬が合流してからパーティ始まった。
パーティーといっても、時間がなかったためしっかりした計画は立てていなかった。
少し早い時間から始めたのもあり、お菓子を食べながら駄弁ったり、外に遊びに出て道の端に少しだけ積もった雪で、小さい雪だるまを作ったりと、行き当たりばったりな集会になっているが、皆んなも楽しんでくれているようだ。
「あ、このピザ美味しいねぇ。つむちゃんも食べるぅ?」
「貰っちゃおっかな。実里も食べよ!」
「グググ……昨日も食べすぎたのに……はぁ、冬休み太るんだろうなぁ……」
「ふふ……実里ちゃん充分痩せてんねんから、あんま気にしやんでええ思うけどな」
日向の部屋で、少し早めの晩御飯を食べながら話していると、そんな話題になった。
女の子は少しお肉がついてた方が抱きしめた時にやわらかくて、男としては嬉しいものなのだが、男女で感覚が違うところだ。
好きな服を着たいし、自分に自信が持てるからもっと痩せたい。
どちらの考えもわかるからこそ、実里は今のままで大丈夫だと思う。
「お腹ぽっこり出ちゃったら……佑樹に見せられないよ」
「す、進んでるんですね……大人です……」
「へっ?あ、違う!ほら、夏プール行ったりするでしょ!そ、そういうのは……まだ……」
「じ、実際はどこまでいってるのかなぁ?紬さんに聞かせなさいなっ!」
「え……っと……添い寝とか……その、キスしたりとか……」
その場にいる全員が、顔を赤くして興味深げに実里の話を聞いていた。
そりゃ付き合っていたらキスぐらいするだろうと、それは大人の感覚だ。
思春期真っ只中の十三、四歳の男女、付き合っていても、なんとなく恥ずかしくて前に進めない。
インターネットもそれほど一般的ではない時代、皆んなまだ、手探りでお互いを知ろうとしていた時代だ。
ふと、一華の方を見ると、彼女もしたり顔こちらを見ていて、気恥ずかしくて目を逸らしてしまう。
「ふふっ……」
「うぅ……」
「……なんでそこ二人はそんな感じなのかなぁ?」
「桜さん。私が日向の事、好きなんです」
「ちょっと、一華ぁ……」
「えっ、えっ……女の子……」
「ふふふ……好きになったら、性別なんて関係ありません」
一華はそう言うと、こちらに体を寄せてきて、自分の頭を肩に預けてきた。
髪の毛からいい香りがしてきて、あの日キスされたことを思い出して頭がクラクラしてきた。
「一華……皆んな見てるやんかぁ……」
「嫌だったら、振り払ってください」
「もう……恥ずかしいわ……アホ」
「なんなのさ……この桃色空間……」
今度は自分に注がれる先ほどの視線に、顔を俯かせて真っ赤にすることしかできなかった。
「プ……プレゼント!プレゼント交換!」
「……ちょっと早くない?」
「ええねん!トモ!くじ引き作って!!」
居ても立っても居られなくなって、強引にプレゼント交換に移行する。
急に動いたから、支えを失った一華が派手に頭をぶつけて、恨みがましくこちらを見てきた。
ちょうどその時、一階の方からチャイムの音が聞こえてきて、来客を知らせた。
しばらくすると、自室のドアがノックされ、母が顔だけをこちらに覗かせてこちらを見てきた。
「ひなちゃん、誰やった思う?」
「えぇ、いや知らんよ……誰やったん?」
「ふふふ…………ハル君やったわ。プレゼント持ってきてくれたで」
「ハル!」
そう言うと母は、春樹から貰ったというプレゼントを手渡してくれた。
綺麗に包装された箱を開けると、なんの変哲もない、まさしく中学生がお小遣いで買えるような、コーヒーカップだった。
「……」
「うわぁ……嬉しそうな顔。いっかちん、負けてらんないよ」
「うぐぐ……彼にも恩がありますから……少し遠慮していたというのに……」
どうしよう。お礼を言いたい……
何も用意していなかった申し訳なさもあったが、ちゃんと自分のことを思ってくれているのが嬉しかった。
でも、今から走って追いついて、自分は声をかけることができるのだろうか。
また、声も出せなくなって、春樹のことを傷つけてしまうのではないだろうか。
貰ったばっかりのコーヒーカップを見ながら、一歩を踏み出せないでいると、一華と巴が両脇から声をかけてくれた。
「お礼言いたいなら……行ってみましょう!ちょっと複雑ですけど……」
「大丈夫だよヒナ。ほら、遠くからなら、声かけられるかもよ?」
「……うん、ありがとう……ちょっといってくる!」
部屋を出て一階に降り、玄関で最近買ったブーツを履いている時に気づいた。サンタクロースのコスプレをしたままだと。
急いで着替えに自室に戻ろうと途中まで引き返したが、そんな時間も勿体無いぐらい、早く会いに行きたかった。
「あぁ!もうっ……!ええわもうっ!」
ブーツを履いて家を飛び出し、雪がちらつく薄暗い道を走っていく。
春樹の家との、ちょうど真ん中ぐらいにある曲がり角で、その姿を見つけた。
「ハ……」
声をかけようとして、自分の格好を思い出して躊躇する。
恥ずかしくなって、曲がり角から春樹が少し遠のいたところを見計らって、声をかける事にした。
「ハ、ハル……」
「えっ……ひな?」
「うん、お礼言いたくて。来た」
「別に良かったのに……その、大丈夫か?」
「大丈夫……こんなけ離れてたら、多分」
「そっか……何で隠れてんの?」
「いや、ウチ変な格好してるから……恥ずかしいねん」
春樹が立ち止まってこちらを向いている。
いつもならこれぐらいの距離だったら、目が合っててもちょっと緊張するだけだ。
それなのに、なんとなく目を合わせるのも緊張してしまい、春樹の足元を見ている。
「……ぷはっ、サンタの格好してるのか?」
「な、なんで!?」
「いや、だって帽子が」
「あっ……うぅ……」
「……なぁ、ちょっとだけ、見せてくれよ」
「…………」
目を瞑って、どうぞと言わんばかりに両腕を広げて曲がり角から全身を出す。
心臓の音がうるさくて、でも心地良い久しぶりの感覚に、なんだか少しだけ安心する。
「あはは、似合ってるぞ。それに、楽しそうで安心した」
「うん……ごめんなハル。ウチなんも用意してない……」
「大丈夫だって。こうやってお前と話せたのが嬉しいから」
きゅぅっと胸が締めつけられるような感覚に任せて薄く目を開けてみると、久しぶりにちゃんと見た春樹の顔は、いつも通りの春樹の笑顔だった。
「ハルや……ちゃんと喋れてる……」
「結構遠いけどな」
「それは……ごめん。まだ怖い……」
「うん、大丈夫。ちょっとずつ、ひなのペースで」
「ハル」
言わないといけない事、謝りたい事、もっといっぱいあったけど、少しずつ日常に戻っていって、いつかまた普通に喋れるようになったら、全部聞いてもらおう。
「メリークリスマスや!カップ、大事にする。ありがとう」
「ふふっ……メリークリスマス」
これからもこうして声をかけよう。
だってこんなに離れているのに、離れたくないと思えるんだから。
思ったより長くなっちゃった




