37.後日談と
「おとーさん、きて」
両手を広げて父親に抱擁をせがむ娘という構図は、傍から見れば微笑ましい光景なのだろう。
実際のところ、父と抱擁する事にそれほどの抵抗を感じる事はないが、それは少し前までの話である。
「ぁ……うぅ…………ごめっ……ん……」
「だ、大丈夫か……?お母さんお願い!俺コーヒー持ってくる」
「ひなちゃん!大丈夫やぁ、私やで……」
全身がぶるぶると震えて硬直してしまうのは、学校の上級生から暴行を受けそうになった事が起因となっており、二ヶ月程経った今でも、改善する兆しは無かった。
「うん……大丈夫……きょ、今日はちょっと……調子悪い……かも……?」
「お母さん、コーヒーここに。ごめんなぁひな……もっと早よ離れなあかんかったな」
「ぅ…………ふぅ……ううん、大丈夫、ありがとう」
手渡されたコーヒーの香りで心を落ち着かせる。
口をつけてみると、丁度飲みやすい温度になっており、父の気遣いに感謝しながらくいっと口の中へと運ぶ。
苦味が控えめのスッキリした飲み心地は悪く言えば物足りないとも言えるが、自分としてはいついかなる場面でも飲めるクセの無さが非常に親しみやすい良いコーヒーだと評価する。
「ん゙ん゙んぉ……あふぅ……」
「なんなんこの子……さっきまでの空気なんやったん」
「コーヒーに飲まれとる……」
毎朝とはいかずとも、できる限りこうして父と接触することで、少しずつでも克服できるようにと最近始めたこのリハビリは、改善には向かっていないものの、傾向を掴むきっかけとなっていた。
「やっぱり体が密着すんのはあかんみたいやね」
「手ぇ握るぐらいは出来んのにな。」
「いや、ゾクッとはするよ?いけん事は無いって感じ……お父さんだけかもやけど」
あの日以来、ほとんど男性との接触を絶っているので分からないが、少なくとも教室で授業を受けることが辛くて、現在は別室で一人寂しく課題をこなす日々を送っている。
一人で勉強して、ひと段落したら外を見てぼーっとしたり、落書きしたりと気楽なものだが……
「普通の学校生活送りたかったなぁ……」
「「…………」」
「あ、暗くならんといてぇや!そもそも誰にも相談せんかったウチが悪いんやし……」
両親からしたら、娘の髪が突然短くなったと思ったら、結構なイジメを受けていて、しまいには強姦されそうになっていたのだから、心中穏やかで無いのは当たり前だ。
普通なら転校させてもおかしくない。
それでも、今の学校に留まりたいという希望を聞いてくれた自らの両親には、感謝してもしきれない。
「ひな、分かってんな?俺らは家族や。そんでお前は夏野春日と夏野陽子の娘、夏野日向や。なんかあったら助け合う。親は子の事を絶対守らなあかんねん。その事をその空っぽの頭に叩き込んどけ。ええな?」
「お父さん、もう……」
「お母さん、大丈夫。はい……ごめんなさい」
父からの言葉はこの二ヶ月で何度も聞いた。
それでも言われる度に刻み込まなければならない。
自分も未熟ながら、子を思う親だったのだから。
「さて……ひなっ!父の胸に飛び込んでおいで!」
「お父さん最低やわ」
「あんた、ちょっとこっち来ぃ。しばいたるわ」
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校庭から体育の授業でサッカーをしている音を聞きながら、日向は渡された課題を進めていく。
時計を確認すると授業終了まで十五分ほどあり、本日のノルマも達成していることから、残り時間は思い切ってサボることに決めた。
教室は一人きりでがらんとしていて、立ちあがろうと椅子を下げる音が寂しく室内に響く。
全身をグッと伸ばしながら教室のドアを開いて廊下の手すりに体重を預ける。
ここは校舎の三階、空き教室だった一番端の部屋を学校に少し無理を言って、専用の別室として開放してもらった。
空き教室が並ぶこの廊下は日向にとって、良くも悪くも思い入れのある場所だった。
何度もそこのトイレで個室にこもって、便器に顔を突っ込まれ、床を舐めさせられ、よくもまあ生きているものだと自分でも思う。
校庭から、自分を呼ぶ声がしてそちらを注視すると、二年生の数人がこちらに手を振っていた。
あの事件以降、生徒の間で有名になったからかこうして遠くから体育を見ていると、声をかけてくれる事がある
体育の男性教師から課題が終わったのか大声で確認されたので、こちらも声を張ってノルマの達成を伝える。
すると彼は手を振って手すりから落ちないよう呼びかけて授業に帰って行った。
この距離なら、目を合わせても大丈夫なのにな……
五月からのイジメに関わった者達は、全員何かしらの処分を受けた。
市川は当時十三歳だったこともあり、家庭裁判所の判断で保護観察処分に留まった。
学校に籍を置いていたが、しばらくして転校という形となった。
二年生の男の名前は……確か池内だ。
こちらは年齢が当時十五歳だったので少年事件として警察やら調査員やらの調査が入り、家庭裁判所からの審判がつい先週の出来事だった。
結果はこちらも保護観察。あんなに怖かったのに……
その他の取り巻き達も学校のいじめ対策組織とやらがなんやかんやとあれこれ……
まあ要するに、どうでもいい。
転校して行った奴もいれば、不登校になってしまった者もいるらしく、今後関わる可能性も極めて低いだろう。
そして、一華にも警察からの事情聴取があった。
友人を助けるためとはいえ、暴力を振るったので調査対象だと、そう説明を受けて、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
自分のせいで、一華の経歴に泥を塗ってしまったような気がした。
結果としては正当防衛が認められたので、処分が下されることは無かったが、一華にも迷惑をかけてしまった。
どうしたら正解だったのだろうか。
あの日の選択に後悔は無い、と、今ではもう自信を持って言えなくなってしまった。
皆んなを遠ざけて、自分を蔑ろにして、家族も蔑ろにして、いろんな人に迷惑をかけて……市川達の人生も……めちゃくちゃにしてしまった。
市川達が許されない事をしたのは事実だ。
あんなクズに一華は、そして自分も、一歩間違えれば悲しい結末を迎えていたかもしれない。
今回はたまたま自分が矢面に立ち、春樹が動いてくれて、紬が心配してくれて、皆んなが助けてくれた。
何か一つが欠けていれば、結果はまた違ったものになっていただろう。
だからこそ思う。市川達にも、別の道があったのかもしれないという事を。
キーンコーンカーンコーン
チャイムが辺り一帯に鳴り響き、授業の終わりを告げる。
体育の授業から帰る二年生がもう一度手を振ってくれたので、全身を使って大きく振り返した。
笑いながら校舎に吸い込まれて行く二年生たちを見送り、教室に戻って三つの机を寄せて固めておく。
カバンから弁当を取り出して、頬杖をついていると、遠くから足音が聞こえてきた。
いつもよりも少し早い到着に、急いで前髪を直していると、「廊下を走るな!」とベタに注意されている声を聞いて、思わず笑ってしまった。
「はぁ、はぁ…………ふぅ、日向、ご飯一緒に食べましょう!」
「はへぇ……何で運動部の私より速いのよ……」
「うん!二人とも、いつもありがとうなぁ」
普通の学校生活とは言えないかもしれない。
たくさんの人を巻き込んで、最善とは言えないかもしれない。
それでも、この二人とまたこうして顔を合わせて笑える日々が戻ってきたんだ。
だったら勝ち越しだろうさ。
「ヒナ、今日は調子どう?」
「今日は調子ええで……お父さんとハグしても立ってられたからな!!」
「ハグ……!なんてふしだらな!調査が必要ですね!」
「あわっ、ハグしたいだけやんか……」
「お、照れてる。ヒナは押しに弱いからなぁ」
「別に照れてへんわ……あ、見て!ちょっと髪綺麗になってきたくない?」
「あ、本当ですね。ふふっ……嬉しそう」
「後でセットさせて!昨日可愛いの見つけたんだぁ!」
早く教室に戻りたいなぁ……
男子も女子も関係なく、また皆んなと一緒にいたい。
「そういや見てや、これ作ったんよ」
「なんですか?」
「お、もしかしてこれ」
「くふふ……ひなちゃん特製クッキーや!」
それが、今の自分の生きる意味。
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一人きりの帰り道から、駐輪スペースに自転車を投げ入れるように停めて帰宅した。
「ただいまー」
「おかえり。春樹、荷物来てたから部屋に置いておいたわよ」
「……?なんか頼んだっけ?」
母さんがニチャッと笑って親指を立ててくる。
いつもは手洗いうがいを促すくせに、今日はやたらと部屋へ追いやろうとする。
階段を上って一番奥の部屋、何の気なしに扉を開くと、アイツの香りがした。
「……ひな?」
ベッドの上には、綺麗に包装されたクッキーと、雑に切られたノートの切れ端が置いてあった。
「……ふふっ、お前らし過ぎるだろ」
『二月に出るオンラインゲーム
おもろいから一緒にやろ!』




