34.断ち切る3
「痛っ……」
昇降口で上履きを履いた瞬間に、鋭い痛みが右足の裏から伝わってきた。
上履きを脱いで足の裏を見ると踵に燻んだ金色の画鋲が刺さっていた。
ため息を吐きながらゆっくり引き抜くと、白い靴下がじんわりと赤く染まっていった。
「こんぐらい……大丈夫」
画鋲を適当に放り投げて、ほんの少し痛む足で廊下を歩き出す。
十歩歩けば慣れてくるような小さな痛みは、ずっしりと重く心にのしかかる。
前向きに考えよう。たった三年間だ。長い人生の中の、たった三年間。
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「ひ、日向……あんた……髪が……」
「きひひ……びっくりした?イメチェンやイメチェン」
一年二組の教室に着くと、紬が開口一番の挨拶をすっ飛ばして驚きを隠しきれず口から漏らした。
目に見える被害は周りの注意を引いてしまうことを市川も分かっているはずだが、恐らくそれも含めて自分でどうにかしろということなのだろう。
ここ一ヶ月程の付き合いだが、お互いそこそこ仲が深まってきた紬からすれば、日向のトレードマークとも言えた綺麗な髪がバッサリ切られたことは並々ならぬ衝撃だった。
「どうしたのさ……あんなに大事にしてたのに……」
「言うたやろ?イメチェンやて。まっ、そのうち伸びてくるわ」
未だ信じられないといった面持ちで日向の頭を触る紬は、純粋に心配してくれているのが見て取れる。
しかし、仲良くしていると紬にまで迷惑がかかりそうで、彼女に手招きをして耳元で距離を取るよう告げる。
「つむちゃん、ごめんな心配かけて」
「ううん……どしたのよ?なんかあった?」
「うん……今な、人とちょっとモメてんのよ。ほいで、つむちゃん一緒におったら巻き込まれるから」
「……うん」
「やからな、しばらくウチと離れといてぇな」
「……なめんなよっ」
奥歯を噛み締める音に次いで、怒号のように紬が吠える。
その表情は普段の可愛らしい丸顔の彼女からは、想像も出来ない悲痛を含んだ険しいものだった。
「私!そんな薄情じゃない!!巻き込まれる?上等だよ!!友達が困ってんなら助けるのが当たり前だろ!!」
「そんな簡単な問題ちゃうねん……ウチかて逆やったらそう言うわ!でもな、どうにもならん事もあるやろが!!」
「わかんないかなぁ?それを一緒に悩むのが友達でしょうよ!!」
「ほな友達じゃなくてええわ!!!」
しんと静まり返った教室に、二人の荒い息使いだけが聞こえる。
心にもない事を言ってしまった。まだ知り合って日が浅い紬だが、ここまで友達想いな彼女に言ってはいけないような事を口走った。
それでも弁明も謝罪もしてはいけない。そんなジレンマに、悔しさのあまり涙が出そうになった。
と、そこへ他のクラスから来た者が、空気を読まず教室に入って来て日向に声をかけた。
「夏野ぉ、どうしたの?喧嘩?」
「市川……」
「仲良くしなきゃ……友達でしょ?」
「……別に、友達ちゃうわ……行こや」
「ま、待って……日向!」
まだ何か言いたげな紬を無視して教室を後にする。
これで良かったのだろう。これ以上首を突っ込んでも碌な事にならないのは火を見るより明らかで、普通に中学生活を送るなら、もう自分に関わることはリスクでしかない。
「髪の毛、似合ってるじゃん」
「……」
「ぷふっ……昨日のまじウケたわぁ、次どうする?何したい?」
「勝手にせぇや……」
まともに会話するつもりは無く、ただ市川の後を着いて行くと、校舎から離れて体育館の裏に連れてこられた。
体育館とプールに挟まれるこの位置は、よく不良の溜まり場になっており、在学中にリンチ事件が起こった事もある。
嫌な予感がしつつも黙って着いていくと、予想とは違ってプールの方に招かれた。
「……?プール……ぁっ!?」
市川に後ろから押されて、そのまま水槽に体が放り出される。
水面に到達する直前に見た市川の顔は、必死の形相ながらも愉快そうで安心した。
イジメなんて、つまらなかったら誰も続けないから。
五月のプールは冷たくて、アオミドロや虫の死骸で汚いことを、初めて実感を持って知った。
口に入った泥水に吐き気を覚えながら、必死に水面を目指して浮上する。
「ぷぁっ!ガハッ……ガハッ……ぅおえぇッ!!お、お前!!うぇっ……ウチが泳げへんかったらどないすんねんっ!!」
「あ、そっか。危なぁ……捕まっちゃうじゃん」
こんな奴に殺されるなんてたまったもんじゃない。
こんな、何も考えてないクズに一華は……
憎しみが腹の底から次々と湧いて来ては行き場を失い、ドス黒い感情だけが胸中に留まり続ける。
殺したい。殺して楽になりたい。
でもそんな事をして、関わって来た全ての人に迷惑をかけるわけにはいかない。
「くっさ!あははは!あんためちゃくちゃ臭い!」
「……」
「……なにその目?文句あんの?あんたが言ったんでしょ。オモチャだって」
「……一時間目、始まんで」
「あ、ほんとだ。バイバーイ。ふふっ、サボるなよー」
市川が急足でプールから去った後、このまま教室に戻る訳にもいかないので、制服を脱いで蛇口を探す。
幸いシャワーの水が出たので、汚れを洗い流しびしょ濡れのまんま屋上へ行って制服を乾かした。
下着姿で屋上の床に手足を放り出して、大の字で寝そべる自分に、もう普通の学校生活は無理だろうと思った。
何もかもが嫌になって、グレる人の気持ちが今なら分かる。
「あーあ、死のかなぁ」
そんなつもりは毛頭無く、わざとおどけて言葉にすると少しだけ心が軽くなった。
大丈夫、まだ心に余裕はある。
ちょっとずつ慣れていけばいい。
「こんぐらい、大丈夫」
朝、何気なくつぶやいた言葉が、また心を軽くしてくれる。
辛い気持ちに押しつぶされそうな自分を騙すようなその言葉は、まるで自分に催眠術をかけているようだった。
弱い自分を受け入れないようにしないと、心がポッキリ折れてしまいそうな気がして、何度もその言葉をつぶやいた。
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放課後まで屋上で寝転がって過ごすと、結局乾き切らなかった制服に袖を通して教室に鞄を取りに行った。
授業をサボった事もなかったので、なんとなく誰にも見つからないように廊下を歩いた。
恐る恐る教室の扉を開くと、自分の席で一華と巴が話していた。
二人はこちらに気づくと、短くなった自分の髪を見て、声をかける口を閉ざしてしまった。
「……」
「ぅ……ヒナ……ヒナ…………ごめん……私のせいだ……ごめん……」
「トモ、大丈夫やで……謝らんでええよ」
巴は憔悴しているのが見て取れる。
前後の出来事から髪の毛がバッサリ切られている理由を察してしまい、涙を流して謝まることしか出来なかった。
そんな巴を安心させるために頬を撫でると、その手を大事そうに抱えてくれた。
「アイツら、二人になんもしてきてへん?」
「はい……嫌がらせは今の所……」
「そかそか……ほいならまあ、今の所は成功かな」
「日向は……?今日ずっといなかったって……聞きましたけど」
「うん……ちょっとな」
どう言い訳していいかも考え付かず、三人の間で今までに無い気まずい空気が流れた。
二人に危害が無くて安心している自分と、心が折れそうな自分がいて、曖昧な感情がそのまま言葉として出てきてしまった。
「一ノ瀬君から聞きました。私たちからも距離を取るって……」
「うん、ごめんなぁ……事情も話せんような奴が勝手なこと言うて……」
「何か手伝わせて下さいよ……じゃないと、あなたが……」
「……大丈夫や……一華のためやったら、なんぼでも頑張るから」
「……私のため?ともちんじゃなくて?」
「ん、えーっとな……ふふっ、それもまた話させてぇや」
また一緒にいられるために、幸せだった三人に戻れるように、大好きな二人の為に、今自分ができる事をする。
こうして顔を突き合わせて話しているだけで、諦めたくないと思わせてくれる。
離れたくはないけれど、それでもやっぱり市川から二人を遠ざけるには自分と離れるべきだ。
「トモの事、よろしく……夏休みぐらいは、ちょっと会いたいかな」
「……離れたくないですよ」
「くふっ……ほんま、惚れてまうで」
鞄を担いで二人に背を向ける。
二人のために自分が出来ること。
もはや光から遠ざかり、暗い場所へと身を移すしかという方法しか思いつかなかった。




