第6話「業と交渉」
第6話「業と交渉」
独房の扉がいた瞬間、蒼介はアニータを見て、目を逸らした。
逸らしてから、もう一度だけ見た。
彼女の目は赤かった。昨日と変わらず赤かった。演技なら、一晩続けるのは骨が折れる。
「行くぞ」と蒼介は言った。
「……信じてくれるの」
「信じるんじゃない」蒼介は立ち上がりながら答えた。「選ぶんだ。お前を使うことを」
それは半分だけ本当だった。残りの半分は、自分でもまだわからなかった。
フレディの執務室に向かう廊下で、蒼介は一つの部屋に立ち寄った。
ダリオの荷物が置かれたままの、誰も片付けていない小部屋。
剣が立てかけてあった。マブイブレード。工匠技術で鍛えられた、マブイの流れを断ち切る刃。剣士が使うものだ。魔法使いが持つものではない。
蒼介は手を伸ばし、柄を握った。
重かった。当然だ。こういうものを握るための手ではない。しかしその重さが、なぜか正しかった。「剣しか取り柄がない」と言っていた男の、最後まで剣を離さなかった手の重さ。
俺が持っていい物じゃないかもしれない。
でも、お前が俺に持たせるなら。
蒼介は剣を担いで部屋を出た。
フレディは執務室で待っていた。
追い詰められた気配はなかった。むしろ余裕があった。工匠の覚醒者らしく、室内の金属という金属が彼の意思に呼応して微かに震えていた。右腕——鎧のように金属で覆われたそれが、蒼介の入室を感知して向きを変えた。
「来ると思ってたよ」フレディは言った。「一人でな」
「一人だ」蒼介は答えた。
「アニータを解放したのは俺の判断ミスだったな」フレディは肩をすくめた。「お前に惚れた女を使うもんじゃない」
「同意する」
精神波を放った。
フレディの金属防壁が展開される。工匠の覚醒能力で構築された精神障壁——物理と精神の境界を金属で塗り固めたような、異質な壁だった。蒼介の波が弾かれた。
フレディが笑った。「そこまでか」
蒼介は内心で、これでいい、と思った。
次の瞬間、金属の右腕が迫ってきた。
剣で受けた。
正確には、剣で逸らした。ダリオに教わった基礎の動き——力で受けるのではなく、流す。魔法使いの細腕でそれを実行するのは限界があったが、連撃を一つ、また一つと角度を変えながら流し続けた。肋に一発もらった。確かに砕けた。それでも動いた。
フレディが舌打ちした。「剣技まで身につけてたのか」
「俺の師匠が剣士だった」
「なるほどな」フレディの右腕が角度を変えた。「だが精神攻撃が失敗した時点で、諦めるべきだったな」
蒼介はその言葉を聞きながら、マブイブレードをフレディの左腕に触れさせた。
刹那、フレディの体内でマブイが逆流した。
工匠の覚醒者の覚醒能力は精緻な制御の上に成り立っている。その流れを断ち切られた瞬間、金属の右腕の動きが一瞬だけ、崩れた。
「俺はお前を攻撃していたわけではない」蒼介は静かに言った。「交渉していたのさ」
窓が、内側から破れた。
ジパングの方角から来た者たちだった。ねずみ族のシャーマンが三人、詠唱と同時にフレディの体を拘束の呪文で縫い止めた。蒼介が先週、別ルートで送った依頼への返答だった。精神攻撃を「失敗」して見せたのは、フレディの注意を前方に釘付けにするためだった。
「どうやら彼らはお前を歓迎していないらしい、フレディ」
フレディは叫び、振りほどこうとした。しかし三人のシャーマンの呪文は強固だった。拘束が緩んだ一瞬、蒼介はマブイブレードを振り下ろした。
金属の右腕が、床に落ちた。
フレディは膝をついた。それでも目だけは、まだ前を向いていた。
「蒼介、俺は必ず——」
「お前は終わりだ」
蒼介は歩み寄り、フレディの前で膝をついた。
手を伸ばし、その額に触れた。
精神の深層へ降りていく感触は、もう何度も経験した。しかしその度に蒼介の手は、何かを思い出す。8歳の朝のロアン。師との決闘。路地裏で倒れた男。そして今。
いつも同じ感触が、掌の奥にある。
これが俺の戦い方だ、と蒼介は思った。誰かの精神に触れて、何かを変えて、そのたびに少し、何かが削れていく。師に教わったことは、そういうことだったのかもしれない。完璧さを求めると、完璧でないものを壊したくなる。
フレディの精神の核が、指先に触れた。
硬かった。工匠の覚醒者らしく、その核さえも金属のように鍛えられていた。だが鍛えられた核は、同時に脆い。蒼介は息を吸い、そして——
握りつぶした。
音はなかった。フレディの体から力が抜けた。意識だけを奪った。殺さなかった。殺せた。殺さなかった。
その違いが自分にとって何を意味するのか、蒼介にはまだわからなかった。
廊下に出ると、アニータが壁に背をもたせて待っていた。
蒼介を見て、彼女は何も言わなかった。蒼介も何も言わなかった。
ただ、蒼介はダリオの剣を担いだまま歩き出した。アニータがその一歩後ろについてきた。
外の空気は、冷たかった。
ダリオが死んだ朝と同じ温度だった。




