第5話「裏切りの色」
第5話「裏切りの色」
手が、覚えていた。
路地裏で、仲間の一人が刃を突きつけられていた。考える時間はなかった。気づいたときには蒼介の意識は相手の精神の中枢に触れていた——そして、押していた。
崩れる音がした。
相手は声も上げずに倒れた。
蒼介は自分の手を見た。何も変わっていない。光も出ていない。ただの手だ。それなのに、掌の奥に、8歳の朝の感触が戻ってきていた。あの「ぐしゃり」という感触が。ロアンが崩れたときと、まったく同じ。
違うのは今回、蒼介がそれを、選んでやったということだけだった。
仲間が「助かった」と息をついているのが聞こえた。蒼介は何も言わなかった。
その夜、ダリオに話した。
「やれてよかっただろ」ダリオは迷わず言った。
「そうじゃない」
「お前が躊躇してたら俺たちが死んでた」
「わかってる」蒼介は壁に背をもたせた。「わかってるけど、俺はあのとき一瞬も迷わなかった。それが怖いんだ」
ダリオはしばらく黙った。それからぼそりと言った。
「お前は、怖いと思えてるじゃないか」
その言葉の意味を、蒼介はすぐには理解できなかった。
翌朝、蒼介はダリオに言った。「ここを出よう」。ダリオは一秒も考えずに答えた。「どこへでも」。
逃亡から二週間が経った頃、彼女に出会った。
市場の外れの、屋根のない食堂。蒼介とダリオが安い昼飯を食っていると、向かいの席に荷物を持った旅人が腰を下ろした。断りもなく、当然のように。
「相席、いいかしら」
言いながらすでに座っていた。
名前をアニータ・ヘストンと言った。どこへ行くとも言わず、どこから来たとも言わなかった。ただ流れているように見えた。蒼介がテレパスで表層を確認しようとしたとき、彼女はまっすぐ目を見てきた。
「やめた方がいいわよ。失礼だから」
読んでいないのに、わかったらしかった。
ダリオが小声で「怖い人だな」と言った。蒼介は同意した。
アニータは三日後もそこにいた。
一週間後も。
蒼介には彼女の目的が読めなかった。テレパスで触れようとすると、必ず先に気づかれた。かといって敵意もない。ただ、蒼介の側にいることを自然に選んでいた。
ある雨の夜、宿の軒下で二人になった。
「あなた、記憶がないのね」アニータが唐突に言った。
「なぜわかる」
「顔よ。過去を持ってる人の顔じゃない」
蒼介はしばらく黙っていた。
「怖くないのか。記憶のない人間が隣にいて」
「怖くない」アニータは雨を見たまま言った。「過去がない人は、過去に縛られない。私にはそれが少し羨ましいくらいよ」
その言葉が、蒼介の何かに触れた。
彼女が何かを抱えていることは、テレパスでなくてもわかった。しかし蒼介はその夜、初めて「読みたくない」と思った。知らないまま、ここにいたかった。
ダリオが死んだのは、アニータと出会って一ヶ月が過ぎた朝だった。
蒼介は別の路地に出ていた。二十分も離れていなかった。
戻ってきたとき、ダリオはもう動かなかった。
似た顔が、地面に向いていた。剣を握ったまま倒れていた。最後まで剣士だったように。
蒼介はしばらく、そこに立っていた。声が出なかった。走り寄ることも、膝をつくこともできなかった。頭が理解を拒絶していた——ダリオが死ぬはずがない、あいつはそういう奴じゃない、と。
隣に来たアニータが何か言っていた。言葉が聞こえなかった。
ただ、ダリオの手が、剣を離していないことだけが見えた。
数えなくていいと思っていた。同じやりとりを何度でもできると思っていた。
もう、できない。
蒼介は考えなかった。
青マブイの本質は理性だ。知識と完璧さを積み上げて戦う——師がそう教えた。しかし蒼介の頭から、その一切が吹き飛んでいた。残っているのは熱だけだった。ダリオが笑った顔。「どこへでも」と言った声。それだけが燃えていた。
フレディの拠点に単身で乗り込んだ。
精神波を放った。防がれた。幻影を展開した。看破された。一手一手が読まれた。冷静に戦う蒼介なら見抜けた罠を、感情のまま動く蒼介は全て踏んだ。
最後は床に膝をついていた。
フレディが上から見下ろして言った。「感情で動く魔法使いは弱い。それ、お前が一番知ってたはずだろ」
その通りだった。だから余計に、悔しかった。
独房に入れられて半日が経った頃、扉が開いた。
アニータだった。
蒼介は彼女を見て、すぐに目を逸らした。テレパスで確認するまでもなかった。彼女がここに来られる理由が、一つしかない。
「話を聞いてほしい」アニータは言った。
「聞く義理はない」
「ないわね」彼女は認めた。「でも話す」
沈黙の中で、アニータは話した。悪魔との契約。それを破棄するためにシヴァと取引したこと。蒼介に近づいたのがシヴァの指示だったこと。ダリオを死なせたのが、自分が流した情報だったこと。
蒼介は聞いていた。
全部聞いてから、静かに言った。
「お前が読めなかった理由が、わかった」
「……」
「読もうとしなかったのは俺の方だった」
アニータは何も言わなかった。目が赤かった。それが演技かどうか、今の蒼介にはもう、確かめたいと思えなかった。
雨の夜に「羨ましい」と言った声を思い出した。
あの声だけは、嘘じゃなかった。
それが余計に、痛かった。




