表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蒼の魔術士  作者: 水前寺鯉太郎
第一章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/18

第5話「裏切りの色」

第5話「裏切りの色」


 手が、覚えていた。

 路地裏で、仲間の一人が刃を突きつけられていた。考える時間はなかった。気づいたときには蒼介の意識は相手の精神の中枢に触れていた——そして、押していた。

 崩れる音がした。

 相手は声も上げずに倒れた。

 蒼介は自分の手を見た。何も変わっていない。光も出ていない。ただの手だ。それなのに、掌の奥に、8歳の朝の感触が戻ってきていた。あの「ぐしゃり」という感触が。ロアンが崩れたときと、まったく同じ。

 違うのは今回、蒼介がそれを、選んでやったということだけだった。

 仲間が「助かった」と息をついているのが聞こえた。蒼介は何も言わなかった。

 その夜、ダリオに話した。

「やれてよかっただろ」ダリオは迷わず言った。

「そうじゃない」

「お前が躊躇してたら俺たちが死んでた」

「わかってる」蒼介は壁に背をもたせた。「わかってるけど、俺はあのとき一瞬も迷わなかった。それが怖いんだ」

 ダリオはしばらく黙った。それからぼそりと言った。

「お前は、怖いと思えてるじゃないか」

 その言葉の意味を、蒼介はすぐには理解できなかった。

 翌朝、蒼介はダリオに言った。「ここを出よう」。ダリオは一秒も考えずに答えた。「どこへでも」。

 逃亡から二週間が経った頃、彼女に出会った。

 市場の外れの、屋根のない食堂。蒼介とダリオが安い昼飯を食っていると、向かいの席に荷物を持った旅人が腰を下ろした。断りもなく、当然のように。

「相席、いいかしら」

 言いながらすでに座っていた。

 名前をアニータ・ヘストンと言った。どこへ行くとも言わず、どこから来たとも言わなかった。ただ流れているように見えた。蒼介がテレパスで表層を確認しようとしたとき、彼女はまっすぐ目を見てきた。

「やめた方がいいわよ。失礼だから」

 読んでいないのに、わかったらしかった。

 ダリオが小声で「怖い人だな」と言った。蒼介は同意した。

 アニータは三日後もそこにいた。

 一週間後も。

 蒼介には彼女の目的が読めなかった。テレパスで触れようとすると、必ず先に気づかれた。かといって敵意もない。ただ、蒼介の側にいることを自然に選んでいた。

 ある雨の夜、宿の軒下で二人になった。

「あなた、記憶がないのね」アニータが唐突に言った。

「なぜわかる」

「顔よ。過去を持ってる人の顔じゃない」

 蒼介はしばらく黙っていた。

「怖くないのか。記憶のない人間が隣にいて」

「怖くない」アニータは雨を見たまま言った。「過去がない人は、過去に縛られない。私にはそれが少し羨ましいくらいよ」

 その言葉が、蒼介の何かに触れた。

 彼女が何かを抱えていることは、テレパスでなくてもわかった。しかし蒼介はその夜、初めて「読みたくない」と思った。知らないまま、ここにいたかった。

 ダリオが死んだのは、アニータと出会って一ヶ月が過ぎた朝だった。

 蒼介は別の路地に出ていた。二十分も離れていなかった。

 戻ってきたとき、ダリオはもう動かなかった。

 似た顔が、地面に向いていた。剣を握ったまま倒れていた。最後まで剣士だったように。

 蒼介はしばらく、そこに立っていた。声が出なかった。走り寄ることも、膝をつくこともできなかった。頭が理解を拒絶していた——ダリオが死ぬはずがない、あいつはそういう奴じゃない、と。

 隣に来たアニータが何か言っていた。言葉が聞こえなかった。

 ただ、ダリオの手が、剣を離していないことだけが見えた。

 数えなくていいと思っていた。同じやりとりを何度でもできると思っていた。

 もう、できない。

 蒼介は考えなかった。

 青マブイの本質は理性だ。知識と完璧さを積み上げて戦う——師がそう教えた。しかし蒼介の頭から、その一切が吹き飛んでいた。残っているのは熱だけだった。ダリオが笑った顔。「どこへでも」と言った声。それだけが燃えていた。

 フレディの拠点に単身で乗り込んだ。

 精神波を放った。防がれた。幻影を展開した。看破された。一手一手が読まれた。冷静に戦う蒼介なら見抜けた罠を、感情のまま動く蒼介は全て踏んだ。

 最後は床に膝をついていた。

 フレディが上から見下ろして言った。「感情で動く魔法使いは弱い。それ、お前が一番知ってたはずだろ」

 その通りだった。だから余計に、悔しかった。

 独房に入れられて半日が経った頃、扉が開いた。

 アニータだった。

 蒼介は彼女を見て、すぐに目を逸らした。テレパスで確認するまでもなかった。彼女がここに来られる理由が、一つしかない。

「話を聞いてほしい」アニータは言った。

「聞く義理はない」

「ないわね」彼女は認めた。「でも話す」

 沈黙の中で、アニータは話した。悪魔との契約。それを破棄するためにシヴァと取引したこと。蒼介に近づいたのがシヴァの指示だったこと。ダリオを死なせたのが、自分が流した情報だったこと。

 蒼介は聞いていた。

 全部聞いてから、静かに言った。

「お前が読めなかった理由が、わかった」

「……」

「読もうとしなかったのは俺の方だった」

 アニータは何も言わなかった。目が赤かった。それが演技かどうか、今の蒼介にはもう、確かめたいと思えなかった。

 雨の夜に「羨ましい」と言った声を思い出した。

 あの声だけは、嘘じゃなかった。

 それが余計に、痛かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ