第2話「銀髪の少年」
第2話「銀髪の少年」
蒼介には、その朝のことを正確に思い出せない部分がある。
教室の空気の匂いは覚えている。窓から差し込んだ秋の光も。だが肝心の、自分が何をしようとしていたのかが、霧の向こうに沈んでいる。
隣の席のロアンが笑っていた。悪意のない笑いだった。単純に、蒼介の書いた計算式を指さして「また難しいこと考えてる」と言いたかっただけだ。蒼介はそれをわかっていた。テレパスだからではなく、ロアンがそういう奴だと知っていたから。
だから余計に、わからない。
次の瞬間、教室に悲鳴が満ちていた。
蒼介の手から青白い光が広がり、ロアンに触れた。それだけだった。ほんの一瞬の、制御を失った精神波。だがその一瞬で、ロアンの目から何かが消えた。焦点が溶けるように失われて、二度と戻らなかった。
精神崩壊。
後からそう呼ばれた。しかし蒼介の記憶の中では、それは言葉ではなく感触として残っている。掌が触れた一瞬に感じた、あの「ぐしゃり」という感覚。建物が崩れるときの音に似ていた。ロアンという人間の内側が、音を立てて潰れた。
髪の色が変わったのは、その三日後だった。
鏡の前で、蒼介は長い時間をそこに立っていた。黒髪が根元から銀色に染まっていく。染まるというより、焼けるように白くなっていく。罰だと思った。罰であってほしかった。罰なら、まだ意味がある。
退学通知は一週間後に届いた。
故郷を出た翌朝、宿の前に一頭の生き物が立っていた。
人の上半身と、獅子の下半身。スフィンクスだと気づくのに少し時間がかかった。街中で見る生き物ではないからだ。
「蒼介・アオ」
声は低く、穏やかで、まるで長年の知り合いに話しかけるような口調だった。
「私はモルドレッドという。しばらく前から、君を見ていた」
「……何のために」
「君のような才能を放っておけないから、というのが正直なところだ」
モルドレッドの瞳は金色だった。獅子の目でも人間の目でもない、もっと古いものを見てきた目。その目が蒼介をまっすぐに見て、こう言った。
「君は友人を壊した。それは事実だ。だが、それは君が制御できなかったからであって、君が悪いからではない」
蒼介はしばらく黙っていた。
「そんなこと、言う人間に初めて会いました」
「私は人間ではないがね」
その静かなユーモアが、なぜか蒼介の警戒を少しだけ溶かした。
モルドレッドの弟子として過ごした二年間は、蒼介の人生でもっとも密度の高い時間だった。
テレパスの制御。幻影術の基礎。召喚の理論。師は惜しみなく教えた。しかし蒼介が後に「あの二年で一番大きかった」と振り返るのは、魔法の技術ではなかった。
修行半年目の夜、初めての単独任務で蒼介は失敗した。
対立する二勢力の調停のために仕込んだ情報工作が、見当違いの人物に渡ってしまった。被害は出なかったが、計画は三週間分の遅延を招いた。蒼介は報告書を持って師の前に立ち、俯いたまま言った。
「申し訳ありませんでした。完璧に仕上げるつもりでした」
モルドレッドはしばらく書類を眺めてから、静かに返した。
「完璧にしようとしたから、判断が遅れた。完璧は目的ではない、蒼介。完璧は手段だ」
その言葉の意味が、蒼介にはすぐにはわからなかった。
だが師の言葉はいつも、時間をかけてゆっくりと体に染み込んだ。師とはそういう人物だった。怒らず、急かさず、ただ静かに水のように蒼介の周りに存在した。
だから、蒼介は信頼した。
それ以外の選択肢を、思いつかなかった。
事件はある夜の訓練中に起きた。
幻影術の実習で、蒼介は師の過去の記憶を「見本」として参照する許可を得ていた。表層の記憶だけを借りる、技術的な作業のはずだった。
だが何かが、引っかかった。
記憶の奥に、まるで扉のように閉じた領域があった。好奇心からではなかった。引き寄せられた、という方が正確だ。精神魔道士として、その扉の向こうに強い「質量」を感じた。
蒼介は、ほんの少しだけ、触れた。
映像が流れ込んできた。
戦場だった。しかしその戦場に、師の姿があった。調停者として立つ師ではなく、戦火の中を歩く師が、何かに向かって手を伸ばしていた。その手の先にあったのは——
蒼介は意識を引き抜いた。
荒い呼吸が教室に響いた。手が震えていた。師はすぐ目の前で静かに茶を飲んでいた。何も気づいていない顔で。いや。
——本当に、気づいていないのか。
蒼介はどうしても、師の目を見ることができなかった。




