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蒼の魔術士  作者: 水前寺鯉太郎
第一章

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第1話「テレパスの少年」

第1話「テレパスの少年」


 少年の背中が、空に浮いていた。

 正確には、屋上の縁から半分はみ出した状態で、両手だけが柵を掴んでいた。眼下には石畳の中庭。風が蒼介の銀色ではなくまだ黒い髪を乱す。七歳の秋のことだった。

 背中を押したのはクラスメイトの手だった。「化け物が」と吐き捨てた声は、もう遠い。

 怖かった。落ちたら死ぬ。それはわかった。

 だが、恐怖より先に奇妙なものが押し寄せてきた。

 人の声だ。声というより、感触に近い。上から見下ろしている三人の少年の、ねっとりとした愉悦。廊下を歩く教師の、書類の締め切りを気にする焦り。はるか下の中庭、水を運ぶ老いた使用人の、膝の痛みと今夜の夕飯への小さな期待——それらすべてが同時に、波のように蒼介の頭に流れ込んできた。

 そのとき、柵を掴む指に力が戻った。

 蒼介自身の意思ではなかった。背中を押した少年が、自ら腕を伸ばして蒼介の手首を掴んでいた。引っ張り上げながら、少年は呆然とした顔をしていた。まるで自分の体が、自分のものでないかのように。

 屋上に引き上げられた蒼介は、震える手で膝をついた。

 ——俺は今、何をした。

 魔術国家アークジェン。世界の各地に魔道士輪と呼ばれる巨大な転送装置が点在し、その所有権をめぐって二つの勢力が長年の火種を抱える土地だ。この国では、生まれながらにマブイ——魂の色——を持つ者が魔術師となる。青は知識と完璧さを求める色。赤は情熱と自由の色。白、黒、緑、それぞれが異なる理を体現する。

 蒼介のマブイは青だった。

 物心ついた頃から、数式のような何かが頭の中に自然と展開された。マブイ力学の定理。精神と精神がいかに干渉し合うかの法則。誰かに教わった知識ではなく、ただそこにある真実として。

 それを父に話した夜、食卓の空気が変わった。父は何も言わなかった。ただ、蒼介の皿を自分から遠ざけるように、少しだけ押しやった。その数センチが、すべてを語っていた。

 学友も似たようなものだった。話せば「気味が悪い」、黙れば「変な奴」。蒼介は次第に一人でいることを選ぶようになった。

 例外は一人だけ。母だけが違った。

 五歳の夏、蒼介は庭の石に触れた。

 ただの石ころだった。なのに何かがあった。耳に聞こえる声ではない。もっと古い、言語になる前の何か。この石が長い時間をかけて感じてきた重さや冷たさ、その上を歩いた無数の足の記憶——それが掌から流れ込んできた。

 蒼介は石を、そっと元の場所に戻した。

 精神を持つ者なら、誰とでも話せる。

 後にそう定義される彼の能力は、このとき萌芽していた。しかし蒼介はまだ、自分が受け取ったものの本質を理解できていなかった。ただ、石が何かを語りかけてきた、という事実だけが残った。

 一週間後、アカデミーからの入学案内が届いた。どこで聞きつけたのかは知れない。魔術の才ある子供の噂は、この国では翼を持つ。

 屋上の出来事の夜、蒼介は荷物をまとめた。

 自分が何をしたか、うすうすわかっていた。相手の意思に入り込んで、体を動かした。気づかなかっただけで、他人の思考はずっと流れ込んでいた。怒り、嘲り、恐怖——そしてあの瞬間の、少年の体を通った蒼介自身の生存本能。

 玄関で母と鉢合わせた。

「どこへ行くの」

「アカデミーに戻る。早い方がいい」

 蒼介は目を合わせなかった。もし視線を合わせたら、彼女の心が流れ込んでくる気がした。それが怖かった。彼女だけには、化け物だと思われたくなかった。

「蒼介」

 静かな呼びかけだった。母の声はいつも静かだ。嵐の前の湖のように。

「あなたは、テレパスなの?」

 足が止まった。

 蒼介は振り返らないまま答えた。「俺が化け物だと思わないの」

 問いではなく、確認だった。どうせそう思っているだろうという、七年分の諦めがこもった言葉だった。

 母は首を横に振った。蒼介の背中越しに、その動きが気配でわかった。

「あなたは完璧な子よ。何者であっても、あなたを愛してる」

 読もうとは思わなかった。彼女の心を覗く気にはなれなかった。

 それでも、その言葉が嘘でないことだけは、わかった。テレパスだからではない。子供が母親の声で知る、あの確かさで。

 蒼介はそのまま玄関を出た。

 完璧な子。

 その言葉が、胸の奥に刃のように刺さったまま、抜けなかった。完璧であり続ければ、愛される。完璧でなくなったとき——自分は何になるのだろう。

 夜のアークジェンの石畳に、少年の足音が消えていった。

 

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