第17話「嘘の温度」
第17話「嘘の温度」
迷路は、静かだった。
静かだが、空ではなかった。各所に仕掛けられた術式が、マブイの流れを乱そうとしていた。蒼介は頭の中の地図と実際の道を照合しながら、マリアを誘導した。角を曲がるたびに、どこかで他のギルドの走者の気配がした。黒と赤の足音、学術評議会の術式の発動音、そして——時折、何も音のしない気配。審判者ギルドの走者だろう。あの走者も、正しいルートを知っている。
妨害は三度あった。
一度目は黒と赤の兵が先回りしていた。蒼介が幻影で迂回させた。二度目は術式の罠だった。蒼介がマリアを引き戻す前に、マリアが自分で見切っていた。三度目は——何もなかった。来ると思ったのに、来なかった。それが一番、不気味だった。
中間の休憩地点に、二人は腰を下ろした。
マリアが水を飲みながら、蒼介を見た。
「最終地点で、何をするの」
「全ギルドの走者が揃ったとき、意思を一つにする必要がある」蒼介は言った。「掟の再構築には、全ギルドの承認が要る。それは術式の問題じゃない、意思の問題だ」
「誰がそれをするの」
「お前だ」
マリアは少し黙った。
「なぜ私が」
「青と緑のギルドの教義は人と人を繋ぐことだ。お前はその幹部だった。マブイの力がなくても、人の間に立つ方法を知っている」蒼介は続けた。「それは技術じゃない。お前が何者かということだ」
マリアはしばらく蒼介を見ていた。
それから、静かに言った。
「蒼介。一つだけ聞いていい?」
「なに」
「私に、隠していることはある?」
蒼介は答えなかった。
答えられなかったのではなく、答える前に、自分の中で何かを確認していた。
言える、と思った。マリアなら受け入れてくれると、確信に近い感触があった。テレパスとして彼女の表層に触れるまでもなく、この三年で積み上げてきた時間が、それを教えていた。
だから——言えなかった。
受け入れてもらえることへの確信と、それでも言葉にした瞬間に何かが変わってしまうという恐怖は、矛盾しながら同時に存在した。この女性の前で「記憶のない迷い子」ではなくなること、この女性の前で覚醒者として立つこと——その変化を、今この迷路の途中で起こすことへの、根拠のない恐怖。
「ない」と蒼介は言った。
嘘だった。
マリアは安堵したように、微笑んだ。
それから、蒼介の腕を握った。
温かかった。その温かさが、嘘をついた場所に直接触れてくるような感触だった。蒼介は表情を動かさなかった。動かせなかった。
「行きましょう」マリアは言った。
「ああ」
ライサンダーのギルド門は、迷路の終盤に位置していた。
「先に確認してくる」蒼介はマリアに言い、一人で中に入った。
扉の向こうは、広い石室だった。
アランベルベルドがいた。
迷路の開幕で号令を告げた男が、走者として自分より先にここにいた。どういう経路を通ったのか——テレパスとして感知しようとした瞬間、壁があった。前回感じた壁より、厚かった。
「来ると思ってた」アランは言った。「銀髪の覚醒者」
「お前も覚醒者か」
「お互い様だな」
二人は少しの間、互いを見た。
「通してくれ」蒼介は言った。「ここを全員が通ることが、この街の——この大陸の——ためになる」
「知ってる」
「なら」
「知ってるから、通さない」アランは静かに言った。感情がなかった。怒りでも意地でもない——何か別の理由があった。蒼介はテレパスの壁越しに、その「理由の重さ」だけを感じた。この男は、誰かに脅されているのではない。何かを守ろうとしている。
「なぜだ」
「お前には関係ない」
「関係ある」
「——蒼介?」
扉が開いた。マリアが入ってきた。
アランの目が、マリアに向いた。
蒼介は「来るな」と言おうとして、言えなかった。言う権利があるのかどうか、一瞬わからなかった。
「彼女は何も知らないのか」アランは言った。笑ってはいなかった。むしろ、疲れたような顔だった。
「知らないって、何が」マリアが言った。
「彼女を巻き込むな」蒼介は言った。
「巻き込んでいるのはお前だ」アランは蒼介を見た。「俺も同じことをしてきた。覚醒者として、非覚醒者には真実を見せなかった。関係する土地を、必要なくなったら離れた。そうやって生きてきた。だからわかる——お前は今、彼女に嘘をついている」
石室に、沈黙が落ちた。
マリアが蒼介を見た。
「蒼介」
蒼介は答えなかった。
「さっき、隠していることはないと言ったわね」
「……ああ」
「それは本当のこと?」
蒼介は、マリアを見た。
テレパスとして表層に触れた。触れることを、今回は止めなかった。
マリアの意識の表面に、恐怖と、信じたいという感情が、同じ重さで存在していた。どちらが勝つかは、蒼介の次の言葉で決まる。
「……嘘だ」蒼介は言った。「隠していることがある」
石室が静かになった。
アランが、何も言わなかった。
「全部話す」蒼介は続けた。「ただし今じゃない。ここを出てから。それまで待てるか」
マリアは少しの間、蒼介を見続けた。
それから言った。
「待てる」
蒼介はアランを向いた。
「お前が通さない理由を、俺はまだ知らない。でも一つだけ言う。この迷路が完走されなければ、街は終わる。お前が守ろうとしているものも、一緒に」
アランは長い沈黙の後、目を閉じた。
それから、道を開けた。
「行け」と彼は言った。「俺のことは気にするな」
その声に、蒼介は何かを感じた。テレパスで読むまでもなかった。この男は——ここに残るつもりだ。
「一緒に来い」
「俺には来られない理由がある」
「なら理由を聞かせろ」
アランはわずかに表情を動かした。それが何の感情だったか、蒼介には判断できなかった。
「……行きながら話す」
三人は、歩き出した。




