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蒼の魔術士  作者: 水前寺鯉太郎
第一章

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第11話「不定形の心」

第11話「不定形の心」


 「暗黙の迷路」というものがある、とエリオットから聞いたのは二週間前だった。

 街の各ギルド門を縫うように走る、目に見えないマブイの流れ。魔術的な地図であり、鍵であり、あるいは罠でもあるかもしれない何か。ライサンダーの研究者たちがそれを解析しようとしており、黒と赤の軍団もまた同じ情報を狙っている——その事実だけが、蒼介の手元にあった。

 答えは、ライサンダーの資料室にある。

 それだけわかれば十分だった。

 潜入自体は難しくなかった。

 テレパスとして、守衛の意識の隙間を縫い、司書の思考から資料の場所を引き出し、蒼介は三時間で目的の棚にたどり着いた。巻物を広げ、「暗黙の迷路」の地図を頭に焼き付け始めた——そのとき、部屋の空気が変わった。

 誰かが、来る。

 資料を元の場所に戻し、出口に向かった瞬間、廊下に黒と赤の外套を纏った人影が五つ現れた。ライサンダーでも、ギルドでもない——軍団の者たちだった。

 一人の意識に触れた。殺意があった。交渉の余地はない。

 蒼介は精神波を展開した。三人が崩れた。残り二人が迷路の術式を発動した瞬間、蒼介の頭の中で何かが逆流した。

 迷路の魔法が、精神に干渉する。

 最悪だ、と思った次の瞬間には、もう考えられなくなっていた。

 手が、あった。

 泥の中を這うような意識の中で、誰かの手が蒼介の腕を引いていた。温かかった。エルフ特有の、少し細長い指。

 引きずられながら、蒼介は考えようとした。自分が誰か——名前が、出てこなかった。青い何かを求める感覚だけがあった。知識を、完璧さを求める、青い何か。それだけが残っていた。

 気づいたとき、蒼介は路地の奥に横たわっていた。

 隣に、マリアがいた。外套が汚れていた。唇が切れていた。

「目が覚めた」彼女は言った。安堵ではなく、確認のような声だった。

「……お前は」

「マリア。覚えてる?」

 蒼介は考えた。マリア。エルフ。緑と青。お腹は空いてる、と聞いた人。

「覚えてる」

 マリアは何か言いかけて、黙った。その目に、蒼介が見たことのない種類の疲れがあった。後から聞いた話では、軍団の者たちが蒼介を捨て置き、マリアを人質として要求してきたとき、彼女は交渉の余地なく「わかった」と答えたのだという。蒼介の命と引き換えに、自分の身柄を差し出そうとしたのだという。

 その話を聞いたのは、もっとずっと後のことだった。

 記憶は二日で戻った。

 戻るたびに思う——消えるのは一瞬だが、戻るのには時間がかかる。最初に消えるのはいつも新しい記憶で、最後まで残るのは古い感情だ。今回最後まで残っていたのは、青い何かへの渇望と、誰かの手の温かさだった。

 それがマリアの手だったと気づいたのは、記憶が戻ってからだった。

 戦争が始まったのは、それから三日後だった。

 青と緑のギルドと黒と赤の軍団が、街の中央広場で激突した。蒼介はその端で、マリアの隣に立っていた。テレパスとして両軍の殺意を感知しながら、どちらにも干渉できなかった。規模が大きすぎた。嵐の中に針を一本立てるようなものだった。

 そのとき、空が変わった。

 雲が割れ、巨大なドラゴンの頭部が現れた。現れた、という表現は正確ではない——投影された、が正しい。幻影だとわかっても、その圧力は本物だった。ブレスが広場の端に着弾し、石畳が砕けた。両軍が動きを止めた。

 静寂の中、声が降ってきた。

 ライサンダーのギルドマスターの声だった。

 迷路の存在。迷路の終点に眠る「大いなる力」。それを手にする権利を、競走によって決める——宣言の内容より、蒼介はその声の温度を聞いていた。感情がなかった。演説ではなく、発表だった。結果をすでに知っている者が、手順を説明するような声。

 蒼介はマリアを見た。彼女は空を見上げたまま、表情が読めなかった。

 拘束されたのは、演説が終わった直後だった。

 マリアの側近の騎士、アルベルトが蒼介の腕を掴んだ。蒼介はその行為に驚くより先に、アルベルトの意識に触れようとして——止まった。

 奇妙だった。

 騎士の外見をした男の内側に、意識の「形」がなかった。精神の輪郭が定まっていない。テレパスとして人の心に触れ続けてきた蒼介が、初めて「掴めない」と感じた。霧に手を突っ込むような感触。核がない。あるいは、核が絶えず動いている。

 地下街に連れ込まれた。扉が閉まった。

 アルベルトが——溶けた。

 正確には、形が変わった。騎士の鎧が外套に。整った顔が、どこにでもいるような顔に。名前をエルマーと言った。

「驚かないな」エルマーは言った。

「驚いてる」蒼介は答えた。「ただ、驚いた顔をする余裕がない」

 もう一度、精神に触れようとした。やはり掴めなかった。霧の中に何本もの偽の核があり、どれが本物かわからなかった。蒼介が触れるたびに、核が移動する。まるで水銀のように。

「無駄よ」エルマーは言った。「あなたのテレパスは、形のある心にしか届かない」

「お前の心に形がないなら、何がある」

「目的だけ」

 エルマーは静かに話した。

 青と緑のギルドと黒と赤の軍団の間に流れた誤情報——両方を蒼介が撒いたという虚偽の証拠、互いの密約の捏造——それはエルマーたちの仕込みだったこと。全ギルドの対立を煽り、戦争寸前まで追い込み、そこにライサンダーのギルドマスターを登場させる舞台を整えたこと。

「なぜ俺に話す」

「あなたに迷路を走ってほしいから」エルマーはまっすぐ言った。「各ギルドの走者は、全員死ぬ予定になっている。あなただけが、それを止められる」

 蒼介は答えなかった。

 エルマーの目を見た。形のない心を持つ男の、それでも本物かもしれない目を。テレパスとして何も読めなかった。だからこそ、逆に考えた——読めないということは、この男は嘘をついていないかもしれない。嘘は感情を持つ者が使う道具だ。

「一つだけ聞く」蒼介は言った。「お前は何者だ」

 エルマーはわずかに表情を動かした。それが笑いなのか、痛みなのか、テレパスでも判別できなかった。

「迷路の、古い番人よ」

 それだけ言って、エルマーは沈黙した。

 

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