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蒼の魔術士  作者: 水前寺鯉太郎
第一章

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第12話「折れない糸」

第12話「折れない糸」


 エルマーは蒼介の正面に座り、しばらく何も言わなかった。

 沈黙は脅しではなかった。ただの間だった。この男に芝居がかった脅しを期待するのは、最初から間違いだと蒼介は思っていた。

「目的は理解してもらえたか」エルマーはやがて言った。「始まりの街の全てを、一度終わらせる」

「作り直すためか」

「ジャックが作ったものは、完成した瞬間から腐敗し始めていた」エルマーの声に感情はなかった。事実を述べるような口調だった。「掟は形骸化し、ギルドは私腹を肥やし、民は秩序の名の下に縛られ続けた。腐った土台の上に何を建てても、同じだ」

「だから壊す」

「壊して、正しく作り直す」

 蒼介はエルマーを見た。テレパスとして触れようとして、また霧に阻まれた。この男の言葉が本心かどうか、確かめる手段がない。しかし声の温度だけは感じた——これは信念だ。歪んでいるかもしれないが、確かに本物の信念だ。

「ジャックが間違えたというなら、お前は何が正しいと思っている」

 エルマーはわずかに目を細めた。それが答えを考えているのか、質問を値踏みしているのか、わからなかった。

「今は関係ない」彼は言った。「私が知りたいのは、迷路について。あなたが調べたことを教えてほしい」

「断る」

「マリア・ヒールという女性が、今ギルドの地下にいる」エルマーは静かに言った。「彼女の安全は、あなたの協力にかかっている」

 蒼介は表情を動かさなかった。

 動かさないまま、意識の一部を細く伸ばした。テレパスとして、建物の構造を無視して意識を走らせる——ギルドの地下、閉じた部屋、エルフの精神の輪郭。

 あった。

 マリアは生きていた。怒っていた。恐れてもいた。しかし折れてはいなかった。

 蒼介は内心で息をついた。

 その瞬間、首に何かが触れた。

 冷たかった。冷たいと思った次の瞬間、牙が皮膚を貫いた。

 痛みは最初、火のようだった。

 すぐに氷になった。吸血鬼の毒が血流に乗って広がっていく感触を、テレパスは内側から感じる。精神と肉体の境界が溶けていくのがわかった。部屋の輪郭が歪んだ。エルマーの姿が滲んだ。

 それでも蒼介は、意識の糸を手放さなかった。

 マリアへと伸ばした糸を、手の中で握り続けた。

 テレパスとして他者の意識に触れ続けるのは、嵐の中で一本の柱にしがみつくのに似ている。肉体が崩れても、精神の錨がある限り、意識は繋がり続ける——師にそう教わった。その言葉が今、正しいかどうか確かめることになるとは思わなかった。

 マリア、と呼んだ。声ではなく、意識で。

 向こうで、驚きの感触があった。

蒼介? どこにいるの——

聞いてくれ。時間がない。

 痛みが波を打った。牙が深く入ってきた。意識の輪郭が削れた。それでも糸は切らなかった。

迷路の地図を送る。見えるか。

 マリアの意識に、蒼介が頭に焼き付けた迷路の構造を流し込んだ。ギルド門から門へと続く道筋。罠のある分岐。正しいルートの感触。言葉ではなく、地図そのものを送った。

見える。でもあなたは——

走者になれ。ギルドマスターはお前を選ぶ。この情報がある限り。

私は幽閉されてる。ギルドマスターが選ぶわけが——

選ばせる。お前が情報を持っていると知れば、選ばざるを得ない。お前のギルドマスターは合理的な人間だろ。

 沈黙があった。マリアが考えている感触があった。

 肉体の感覚が遠くなっていた。部屋の床が斜めになったような気がした。エルマーが何か言っているのが聞こえたが、言葉の意味が取れなかった。

マリア。

……なに。

お前に聞かれたことを、ずっと考えてた。幸せかどうか。

 返事はなかった。待っていた。

まだわからない。でも——お前が無事でいることは、今俺が確かめたいことの一つだった。それだけは言える。

 マリアの意識に、言葉にならない何かが揺れた。

行ってくる。

 糸が、細くなった。

 最後の力を集めた。

 覚醒者としての能力は、テレパスとは別の層にある。精神ではなく、存在の根に近い場所。師に教わることなく、ただそこにあると知っていた能力——他者の意識の中に、自分の「不在」を刻むこと。

 知覚から消える。視覚でも、テレパスでも、感知できない場所に滑り込む。

 部屋の中で、蒼介の存在が薄れた。

 吸血鬼の牙が空を切った。エルマーの部下たちが動いた。蒼介は壁際を這うように移動し、扉の隙間に滑り込んだ。

 廊下を走りながら、蒼介は気づいた。

 包囲網がある。しかし一か所だけ、人員が薄い。不自然なほど薄い。テレパスとして周囲の意識を確認し、その空白に向かった。

 逃げながら、考えた。

 エルマーは本気で捕まえるつもりだったのか。あの男が必要としているのは「迷路を走れる者」だと言った。ならば——。

 答えは出なかった。出さないままにした。

 今は走ることだけを考えた。

 夜の路地に出た瞬間、蒼介は壁に手をついた。

 首の傷から血が滲んでいた。肉体の感覚が戻ってきた。痛みも、一緒に戻ってきた。

 空を見た。

 星が出ていた。マリアが迷路を走るなら、明日の朝だろう。それまでに傷を塞ぎ、ギルドマスターに情報が届くよう手を打ち、迷路の終点に何があるかを考えなければならない。

 やることが多い。

 それでも蒼介は、少しだけ壁に寄りかかったまま、空を見続けた。

 幸せかどうかはまだわからない。でも、今この瞬間、マリアの意識の温かさが手の中に残っている。それは確かだった。

 蒼介は壁を離れ、歩き始めた。



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