第10話「必要とされること」
第10話「必要とされること」
扉を開けたとき、最初に見えたのはエルフ特有の長い耳だった。
次に、緑と青の刺繍が入った外套。ギルドの紋章。
最後に、マリアの顔。
三年前と変わらず穏やかな目が、蒼介を見ていた。「お腹は空いてる?」と聞いた夜から、時間は確かに経っていた。しかし彼女の目だけは、変わっていなかった。
蒼介は何かを言おうとして、言葉が出なかった。
「入ってもいいかしら」マリアが言った。
「……どうぞ」
テレパスとして彼女の表層に触れかけた。止めた。この人の思考だけは、読まないと決めていた。記憶のない自分を何も聞かずに受け入れた夜から、ずっと。
部屋に入ったマリアは、質素な調度を一度だけ見回し、それから何も言わなかった。
蒼介は湯を沸かしながら、彼女に背を向けたまま話しかけた。
「ギルドに入ったんだな」
「一年前に。あなたはどこで見た」
「外套の紋章。青と緑だろ」
「テレパスは便利ね」
「読んでない」
マリアが小さく笑う気配がした。
蒼介は湯を注ぎながら、この三年間に彼女を一度も訪ねなかった理由を、もう一度自分に確認した。無限連合に関わるようになってから、危険な仕事が増えた。マリアを巻き込むわけにはいかない——それが理由だった。正しい理由だった。
ただ、と蒼介は思った。正しい理由が、必ずしも本当の理由とは限らない。本当のところは、この人の前では自分が何者かを説明しなければならない気がして、その説明を持っていなかった、というだけかもしれなかった。
カップを二つ、テーブルに置いた。
マリアは率直だった。
ギルドの掟が機能を失いつつあること。五つのギルドの水面下の緊張が、いよいよ表面化しようとしていること。そしてライサンダーという人物——学術評議会の上層部にいる男——が何らかの動きをしており、自分はギルドマスターの指示でその調査をしていること。
「ライサンダー」蒼介は繰り返した。
「知ってる?」
「名前だけ」
正確には、名前と、夜の路地の記憶。先日、境界線の路地で目撃した密会——学術区の若い男と夜街区の女。あの男がライサンダーの手の者であることを、蒼介はその後の独自の調査で確かめていた。
マリアは続けた。
「青と緑のギルドの教義は、人と人を繋ぐことよ。あなたにはその素養がある」
「テレパスだから、か」
「それだけじゃない」マリアはまっすぐ蒼介を見た。「あなたは人を読むけど、読んだことで人を傷つけない。それは才能よ、蒼介」
蒼介は何も言えなかった。
読んで傷つけたことなら、ある。何度も。しかしマリアはそれを知らない。彼女が信頼しているのは、記憶のない少年として転がり込んできた、過去のない蒼介だ。
「ギルドに来てほしい」マリアは言った。「あなたを必要としてる」
沈黙が落ちた。
蒼介は自分の手を見た。カップを持っているその手が、この三年で何をしてきたかを、マリアは知らない。ロアンを壊した手。師を倒した手。路地で人を殺した手。ダリオの剣を握った手。フレディの精神核を握りつぶした手。
必要とされている。
その言葉が、思った以上に深いところに刺さった。ダリオが死んでから、アニータと別れてから、自分が誰かにとって「いてほしい存在」だと感じたことが、一度もなかった。エリオットとの関わりは義務に近く、沙織との共闘は偶然だった。マリアだけが、今この瞬間、蒼介に「来てほしい」と言っている。
断りたくなかった。
だからこそ、断らなければならなかった。
マリアの笑顔を守りたいなら、自分がこの三年でやってきたことを、彼女の隣に持ち込んではいけない。
「ライサンダーの件は、俺も調べている」
蒼介はカップを置いて言った。
「一人でか」
「今はそうだ。でも調査が終わったら——方角が見えたら、必ず連絡する。それでいいか」
マリアはしばらく蒼介を見ていた。読めない目だった。テレパスでなくても、読もうとしなくても、なぜか読めない人だった。
「わかった」彼女は言った。怒らなかった。責めなかった。ただ、立ち上がりながら一言だけ付け加えた。「でも一つだけ聞いていい?」
「なに」
「あなたは今、幸せ?」
蒼介は答えられなかった。
幸せという言葉が、自分の辞書のどこにあるか、わからなかった。記憶を失ってからずっと、それを考える前に次の問題が来た。ダリオがいた頃は——あの酒場の夜は、もしかしたら近かったかもしれない。しかしそれを幸せと呼んでいいかどうか、確認する前に終わった。
「……わからない」
それが正直な答えだった。
マリアは小さく頷いた。扉に向かいながら、振り返らずに言った。
「なら、いつか一緒に探しましょう。私はギルドにいるから」
扉が閉まった。
蒼介は空になった二つのカップを見た。
ライサンダーの調査資料を広げ、ペンを持ち、しばらくそのままでいた。
文字を書く前に、一つだけ考えた。
約束した。調査が終わったら、必ず。
その約束が嘘にならないよう、早く終わらせなければならない理由が、今日一つ増えた。
蒼介はペンを走らせ始めた。




