第9話「五色の街」
第9話「五色の街」
街に戻ったのは、逃げるためではなかった。
少なくとも、そう思いたかった。
放浪の途中で聞いた話では、フレグ国の異変は広がっているという。封印された何かが地を這い、国の端から生命が失われていく。蒼介には止める手段も、今は理由もなかった。ただ、覚えておいた。いつか動かなければならない日のために。
そうして足が向いたのが、この街だった。
記憶を失った自分を拾い、マリアが温かいスープを出してくれた、あの街。故郷の名前も場所も忘れた者にとって、最初に迷い込んだ場所が故郷になる。始まりの街、と蒼介は心の中で呼んでいた。
街は変わっていた。変わっていないようで、変わっていた。
西区の入り口に立った瞬間、テレパスとしての感覚が告げた——空気の色が、違う。
商人の男が通り過ぎた。その表層に触れると、昨日の商談への苛立ちと、東区の連中への根の深い不信感が流れ込んできた。隣の女は足を速めていた。西区から東区への路地を避けている——なぜかは読まなくてもわかった。境界線を越えると、所属を問われる時代になったのだ。
蒼介は路地の角に立ち、街を見渡した。
五色の旗が、五つの方角から翻っていた。
この街には五つのギルドがある。
蒼介がそれを体で知ったのは、帰還した翌日のことだった。
まず白と青の旗——学術評議会の管轄区に入った瞬間、空気が澄んだ。図書館に似た静けさ。すれ違う人間の思考は理路整然とし、感情より論理が前に出ている。蒼介には居心地がよかった。自分の青マブイがこの空気と共鳴するように、頭が軽くなる気がした。
次に赤と緑の区域。自由職人同盟の縄張りだ。市場の喧噪、なりふり構わぬ値段交渉、豪快な笑い声。思考の表層が荒々しく、しかし活気があった。隣の人間が次の瞬間何をするか、テレパスでなくても予測できない。蒼介は財布を内側のポケットに移した。
黒と赤の夜街区は、日暮れ後でなければ顔を出さない種類の人間が占めていた。蒼介が路地に踏み込んだだけで、三方向から視線が来た。品定めか、警戒か、どちらでもよかった。テレパスで触れれば向こうも感知する——そういう街区だと、視線の質が教えてくれた。すぐに引き返した。
青と緑の区画は、植物の匂いがした。治癒師と薬師の組合。マリアがここにいた。蒼介は路地の前で少しだけ足を止めた。彼女の家の窓に灯りがついていた。入らなかった。また今度、と思った。理由はなかった。
白と黒の神殿区は、静かすぎた。死と平和を同時に扱う審判者のギルド。思考ではなく、沈黙が支配していた。テレパスが街を読むように、このギルドは街を見ていた。蒼介は足を速めた。
五つの区域を一日かけて歩いて、蒼介は夕暮れの広場に座った。
中央広場には古い石板があった。文字が刻まれていた。ギルドの掟。制定者の名前は摩耗して読めなかったが、最後の一行だけが鮮明だった——この街に住まう者すべてのために、一のギルドは全のために、全のギルドは一のために。
誰かの思考が、流れ込んできた。
老人が石板の横を通り過ぎた。その表層に、意図せず触れてしまった——老人の記憶の中に、この石板が新しかった時代の残像があった。旗が五色ではなく一色だった時代。スフィンクスが中央広場に立ち、五つのギルドの長を前に語りかけていた時代の、空気の色。
ジャック、という名前が、記憶の端に浮かんだ。
蒼介は老人の記憶からそっと引き抜いた。他人の記憶を覗くことへの罪悪感は薄れていない。ただ、今日は一つだけ確かめたかった。
スフィンクスが作ったものが、正しく機能していた時代があったということを。
モルドレッドは嘘をついた。権力のために掟を踏みにじった。しかし同じ種族の別の誰かは、正しくあろうとした形跡が、この街の石板に残っていた。
それが蒼介に何かを意味するのか、まだわからなかった。
宿に戻る道で、蒼介は異変に気づいた。
夜街区と学術区の境界、誰も通らない路地の角で、二つの人影が向き合っていた。言葉は交わしていない。ただ、互いの存在を確認するように立っていた。一方は学術評議会の紋章をつけた若い男。もう一方は夜街区の、黒い外套の女。
蒼介はテレパスで触れる前に立ち止まった。
二人の間の空気だけで、わかった。これは密会だ。そして密会が必要な理由は、表の場所ではできない何かがある、ということだ。
掟の石板の文字を思い出した。全のギルドは一のために。
その言葉が今、この路地では機能していないことを、蒼介は静かに確認した。
路地を迂回して、宿へ向かった。
この街の均衡は、表面の静けさとは裏腹に、すでに内側から崩れ始めている。
そのことが、テレパスには、痛いほどわかった。




