第2話 異界としての日常――コンビニの光が“敵”に見える
腹が減っていた。七年間、胃袋を雑巾みたいに絞り上げてきた飢餓とは違う。もっと空虚で、所在がなくて、自分の輪郭が薄れていくような空腹だった。
如月蓮は自室の古びたドアを開け、夜の街へ足を踏み出した。
一歩外へ出た瞬間、網膜を刺したのは光の洪水だった。街灯のオレンジ、自動販売機の青、遠くを走る車のヘッドライト。戦場の『光源』みたいに死を呼ぶ合図じゃない。ただ、そこにあるだけの平和な光。それが逆に、蓮の目には暴力に見えた。
蓮は壁際に身体を寄せるように歩いた。無意識に視線が上へ行く。屋上。非常階段。路地裏の暗がり。スナイパーが潜みやすい角度。地雷を仕掛けられそうな死角。ひとつ確認するたび、後頭部がじりじり熱くなる。
『落ち着け。ここは新宿じゃない。ヴォイドはいない』
言い聞かせても、身体が覚えた七年は簡単に消えない。
背後で、チリン、と鋭い金属音が鳴った。
自転車のベルだ。
その瞬間、蓮の意識が跳ねた。心臓が爆ぜるみたいに脈が跳ね上がり、身体が勝手に動く。路地脇の電柱の影へ一歩で飛び退き、低く身を屈める。両手はもう、そこにないはずのライフルを構える形を作っていた。
一秒。二秒。
何も起きない。
スーパーの袋を下げた中年女性が、自転車を漕ぎながら不審そうな目で蓮を見て、そのまま通り過ぎていった。
「……はあ、はあ、はあ……」
蓮は電柱に背中を預けたまま肩の上下を抑えた。手のひらが嫌な汗でじっとり濡れている。
「俺、どうかしてる……。」
掠れた声が夜に溶けた。七年という時間が、如月蓮という人間のOSを完全に『戦場仕様』に書き換えている。街のリズムと自分の鼓動が、まったく噛み合っていない。
目的のコンビニが見えてきた。暗闇の中に浮かぶその建物は、必要以上に明るく輝いていて、現実というより装置みたいだった。
入口へ向かい、自動ドアに近づく。
ウィーン、と小さなモーター音。ガラス扉が左右に開く。
そのわずかな音と振動で、蓮の右足が反射的に前へ出た。迎撃のスタンス。顎を引き、視線を鋭く走らせる。扉の向こうに潜む『何か』を想定して。
だが、そこにいたのはヴォイドでもアサシンでもない。
冷房の効いた涼しい空気。雑誌コーナーで立ち読みするサラリーマン。揚げたてのホットスナックの、ひどく平和な匂い。
「いらっしゃいませー」
バイト店員の、やる気のない平坦な声が響く。
蓮は自分の滑稽な構えを誤魔化すように、ぎこちなく歩き出した。店内の白い光が強すぎる。タイルの反射が鋭く、眼球の奥まで刺さる気がした。影が薄い。隠れる場所がない。ここでは『潜む』という行為そのものが、場違いだった。
パンの棚の前で立ち止まる。ビニール袋に包まれた、柔らかそうな惣菜パンが並んでいた。
戦場の食事は、乾いた携帯食か、正体不明の煮込みだった。いつ中断されるかわからない食事。口に入れた瞬間に伏せることだってある。
蓮は適当な惣菜パンをひとつ手に取った。袋越しの感触が驚くほど柔らかい。柔らかすぎて、壊れそうに感じた。
レジへ向かう足取りが重い。自分みたいな人間が、こんな明るい場所にいていいのか。そんなことを考えてしまう。
その時、店内放送から微かに音楽が流れてきた。あいみょんの『マリーゴールド』だった。
優花がよく口ずさんでいた曲だ。焚き火のそば。束の間の休息。彼女が小さくハミングしていた旋律が、突然、耳の奥から蘇る。
胸の奥がきゅっと縮んだ。ここには風の匂いも、焚き火の熱もない。あるのは洗剤と揚げ物と、冷たい空調の匂いだけだ。それでも旋律だけが、優花の影を連れてくる。
蓮はパンをレジに置いた。店員がバーコードを読み取る。
「百六十円になります。」
蓮は震える手で小銭を差し出した。トレーに落ちるチャリンという音が、薬莢の落ちる音と重なって、視界が一瞬だけ暗転する。
「……お預かりします。」
店員は蓮の顔色に気づかないまま、手際よく袋に詰めた。
「ありがとうございました。またお越しくださいませ。」
ありふれた、テンプレート通りの言葉。
蓮は袋を受け取りながら、足が止まった。喉の奥が固くなる。七年ぶりに、戦い以外の言葉を口に出すのが怖かった。
「……ありがとう。」
絞り出すみたいに言った。
店員が一瞬きょとんとして、次に少しだけ照れくさそうに笑った。
「……あ、はい。ありがとうございました。」
その小さな、人間らしい反応に、蓮の目頭が急に熱くなった。パンを買って、お礼を言う。たったそれだけが、こんなに難しくて、こんなに尊いなんて思わなかった。
蓮は溢れそうになるものを堪え、逃げるように店を出た。
一歩、外へ。
夜の空気が、店内の無機質な冷気より少しだけ温かく感じられた。蓮はコンビニの袋を強く握りしめた。カサカサという音が、自分が今この世界にいることを、頼りなく証明している。
「生きて……るんだよな、俺。」
その時だった。
不意に、身体の芯が凍るような冷気を感じた。
戦場で何度も経験した感覚――強大なヴォイドが接近した時の、あの嫌な圧。肌の内側から世界が冷えていくみたいな気配。
蓮は反射的に首を巡らせ、索敵を始めた。コンビニの入口。街灯の死角。ガードレールの陰。路地の奥。
そして、向かいの歩道。街灯がちょうど途切れる暗闇の中に、男が立っていた。
白い髪。夜の底で、そこだけが月明かりを反射しているみたいに不自然に目に刺さる。黒いフードを深く被り、こちらをじっと見据えている。
心拍数が跳ね上がった。毛穴が開き、古傷の左腕が内側から裂けるみたいに鈍く痛む。
「……まさか。」
その背格好。その立ち方。隠しきれない、死の匂いを含んだ鋭い気配。
「にい……さん?」
声が砂を吐くみたいに掠れた。
如月レイ。ゲームの中でアサシンとして名を馳せていた、唯一の兄。最後に顔を見たのは、ログインの数日前だったか。それとも――泥まみれの塹壕の幻の中だったか。
白髪の男は答えなかった。ただ、暗闇の中で藍色の瞳だけを微かに光らせ、弟である蓮を品定めするように見つめている。
蓮が震える足で一歩踏み出した、その瞬間。
男は翻った。最初からそこにいなかったみたいに、滑らかで無機質な動き。路地の闇へ吸い込まれるように消える。
「待て!」
蓮は叫び、コンビニ袋を放り出して駆け出した。
路地を曲がる。
だが、誰もいない。そこにあるのは不燃ゴミの山と、どこかの部屋から漏れてくるテレビの笑い声だけだった。
蓮は路地の真ん中で肩で息をしながら立ち尽くす。
「……幻か。」
違う。あの冷たい圧は、幻じゃない。白い髪も、藍色の瞳も――俺の知っている『兄』の気配だった。
蓮は力なく地面に落ちた袋を拾い上げた。中のパンは、さっきの勢いで少し潰れていた。柔らかいものは、簡単に形を失う。
七年間の戦争。三時間の現実。
そして日常の裏側に、血の繋がった死神の影。
蓮はスマートフォンを取り出し、イヤホンを耳に押し込んだ。THE BLUE HEARTSの『青空』のイントロが、再び脳内へ流れ込んでくる。
「シン……優花……九条さん……。」
潰れたパンを握りしめたまま、蓮は呟いた。
「俺たちの戦いは……まだ終わってないのか?」
答えを返す者はいない。
ただ遠くで救急車のサイレンが、またひとつ、平和な夜を切り裂いていった。




