第1話 ログアウト――現実は三時間/記憶は七年
視界が、パチンと不吉な音を立てて弾けた。ついさっきまで鼓膜を震わせていた重機関銃の乾いた咆哮も、肉の焦げと硝煙の匂いも、吸い取り紙みたいに一気に消えていく。代わりに降りてきたのは、耳が痛くなるほど無機質な静寂だった。
如月蓮は、顔を覆っていた重いVRヘッドギアを、折れそうな指先でゆっくり外した。ずっしりとした重さが腕に乗る。精密機械の重量――それだけじゃない。回路の一本一本に、七年分の泥と血がこびりついているような気がした。
視界が白く霞み、焦点が合わない。
「……はあ、はあ、はあ……」
肺に流れ込んできたのは、夜の冷たい空気じゃなかった。ひどく無機質で、なのにどこか懐かしい『埃』の匂いだった。
蓮は椅子の感触を確かめるみたいに腰を沈めた。そこは塹壕でも装甲車の座席でもない。数カ月前、近所のリサイクルショップで三千円で買った安物のオフィスチェアだ。ギシリ、と鳴る。その音が戦場の金属音とかけ離れすぎていて、頭の奥の平衡感覚がぐらついた。
震える手で、デスクの上のデジタル時計を見た。
二〇四二年、四月一日。二十一時一分。
心臓が肋骨の内側から跳ね上がった。
「……嘘だろ」
蓮が『エクリプス・オンライン』にログインしたのは、同じ日の十八時ちょうどだったはずだ。現実では、たった三時間。百八十分。映画一本が終わる程度の時間しか経っていない。
なのに、体の奥には別の時間がある。冬を七回、夏を七回。泥水をすすり、友の遺体を担ぎ、引き金を引き続けた二千五百五十五日。膨大な『生』が三時間の枠に押し込められている。その事実が脳のどこかを焼き切り、視界をぐにゃりと歪ませた。
――パキ。
背後で小さな物音がした。古い木造アパート特有の、ただの家鳴りだ。なのに蓮の体は思考より先に動いた。椅子から転げ落ちるように床へ伏せ、視線を入口のドアに固定する。同時に右手が腰へ伸びた。そこにあるはずの、使い慣れたハンドガン『H&K・VP9』を探して。
ない。
指先が触れたのは、床に丸まって放置されたジャージだった。洗い忘れたやつ。蓮は這いつくばったまま、部屋の四隅へ視線を走らせる。ドア、窓、カーテンの隙間、向かいの建物、クローゼット。チェック項目だけが勝手に増えていく。
今の蓮は、敵がいない場所でさえ身構えてしまう。何も起きないはずの部屋が、逆に怖かった。
『落ち着け。ここは現実だ。戦場じゃない。ヴォイドはいない』
頭の中で何度も繰り返す。だが、言葉が言葉のまま滑っていく。
十分ほど、体が固まった。ようやく外から救急車のサイレンが聞こえてきて、遅れて理解する。ここは地獄じゃない。戦場のサイレンは『死』の合図だったが、この世界のサイレンは『救済』へ向かう途中の音だ。意味が逆になっている。その逆転に、意識がついていけない。
蓮はゆっくり立ち上がり、冷たい壁に手をついた。コンクリートの冷たさが手のひらから脳の奥へ刺さる。ふと、匂いに意識が向いた。火薬と泥と腐った肉の匂いが、ここにはない。あるのは洗濯をサボったTシャツの匂いと、賞味期限の切れたカップラーメンの微かな残り香だ。
くだらない。けど、胸が痛いほど愛おしい。
「……帰ってきたんだ」
呟いた声が掠れていて、自分の声じゃないみたいに聞こえた。
蓮はふらつく足取りで窓際へ向かい、カーテンを数センチだけ開けた。そこには三時間前と変わらない東京の夜景が広がっていた。ネオンが眩しすぎて網膜が痛い。人々が笑いながら歩き、車が何事もなかったように走り抜けていく。
誰も知らない。自分たちが七年も地獄を彷徨い、死闘を繰り広げていたことを。新宿の瓦礫の匂いも、喉の奥に残る砂埃も、この街のどこにも存在しないみたいだった。
蓮はデスクの上のスマートフォンを手に取った。指がひどく震えて、パスコードがうまく入らない。ようやく開いた画面には、ログイン前と変わらない通知が並んでいた。ニュース、天気予報、ソーシャルゲームのイベント告知。平穏すぎて目眩がする。
「……なんだよ、これ」
ミュージック・プレイリストを開いた。一番上にあったのは、THE BLUE HEARTSの『青空』だった。蓮はイヤホンを耳に押し込み、再生ボタンを押す。剥き出しの歌声が耳の奥へ流れ込み、胸の奥を直接叩いた。
その瞬間、記憶が決壊した。
ゲーム内、三枚目の冬。凍てつく夜。僅かな薪で焚き火を囲みながら、シンとこの曲の話をした。
「蓮、現実に戻ったら、本物の青空、飽きるほど見れるかな」
折れた前歯が欠けたままの笑顔で、シンは子供みたいに言った。
「ああ。飽きるほど見れる。だから、それまでは絶対に死ぬなよ」
そう答えた自分の言葉が、今になって呪いみたいに胸へ刺さる。
シンは死んだ。三年前――いや、一時間半前の戦闘で。蓮を庇って。崩れ落ちる体の重みが、まだ右腕に残っている。
「シン……」
名前を呼ぶと、視界が滲んだ。
この世界の論理は言う。全部、三時間の夢だ、と。
でも、蓮の中の『真実』は違う。夢で片づく重さじゃない。
優花はどうなった。撤退戦で医療班はヴォイドの猛攻に晒されていた。俺は守りきれただろうか。九条は。『アークエンジェル』と呼ばれた指揮官は、最後まで殿を務めていた。あの鋭い眼光は、今もどこかで痛みに耐えているのか。
「……頼むから、生きててくれ」
ふと、部屋の隅に置かれた古いレコードプレーヤーが目に入った。兄のレイが置いていったものだ。兄――如月レイ。ゲームの中では、一度も会えなかった。『シャドウ』として活動していたという噂だけが、背中に張りついたままだ。
『にいさん……』
その一言を口にする勇気が出ない。言った瞬間、何かが決定的に壊れる気がした。
蓮は部屋の真ん中に立ち尽くした。七年間の血と泥の記憶と、現実の三時間が、互いに相手を否定し合っている。どちらが本当の自分なのか、境界線が見えない。
もし、この平和な部屋こそが精巧な偽物で、俺がまだヘッドギアの中で悪夢を見続けているだけだったら――。
蓮は頬を、赤くなるほど強くつねった。鋭い痛みがある。埃っぽい部屋の匂いが確かにある。
「……戻ってきたんだ」
掠れた声が、他人の声みたいに聞こえた。
窓の外では救急車のサイレンが遠ざかっていく。蓮は震える指で、シンの現実の名前を検索しようとして、止めた。俺は、あいつについて何も知らない。知っているのは、ゲームの中でのコードネーム『ストライダー』だけだ。七年間を繋ぎ止める糸は、細すぎる。
「……ああ、ああああ……!」
叫び声を枕に押し殺すように、蓮はベッドに顔を埋めた。シーツの冷たさ。柔軟剤の微かな香り。それは間違いなく、俺が手放した『現実』の欠片だった。
だが魂の一部は、まだ硝煙の舞う新宿の戦場に置き去りだ。シンの命が散った瓦礫の山から、一歩も動けていない。
これが、如月蓮の『帰還』だった。戦うために生きた七年間。その代償として手に入れたのは、あまりにも静かで、あまりにも冷たい、三時間後の日常。
「……みんな、生きてるか」
掠れた呟きは、誰に届くこともなく夜に吸い込まれていった。耳の奥で、パンクロックのリズムだけが、心臓を無理やり叩き続けていた。




