第3話 能力の片鱗――照準器が、現実に浮かんだ
心臓の鼓動が、耳のすぐ傍で鳴り響いていた。ドクン、ドクン、と。それはまるで、古びたメトロノームが狂ったような速度で、世界の終わりを刻んでいるかのようだった。
如月蓮は、先ほど兄――レイが消えた路地の暗闇を、食い入るように見つめ続けていた。肺が焼けるように熱い。全力で駆け抜けた後の酸素欠乏のせいだけではない。網膜の裏側に焼き付いた、あの銀色の光。そして、身体の芯を凍らせた、あの『冷たい気配』。それらが、現実という名の平穏なヴェールを、無慈悲に引き裂こうとしていた。
「にい、さん……」
自分の声が、夜の静寂の中に頼りなく落ちた。その時の僕の声は、使い古されて角が取れてしまった消しゴムのように丸く、そしてひどく脆かった。返事はない。ただ、遠くで酔っ払いの笑い声が聞こえ、深夜の新宿を象徴する無機質な電子音が、何事もなかったかのように繰り返されている。
蓮は、地面に落ちたコンビニの袋を拾い上げた。中に入っていた惣菜パンは、さっきの疾走で見る影もなく潰れている。それは、たった三時間で崩れ去った、如月蓮という平凡な高校生の『日常』そのものであるかのように思えた。
逃げるようにアパートへ戻り、内側から鍵をかけた。補助錠もすべて落とし、ドアに背中を預けて息を整える。鍵を増やしても胸の奥の警報は止まらない。ここに入ってくるはずのないものが、すでに入ってきた気がしていた。
「落ち着け。落ち着くんだ、如月蓮……」
自分に言い聞かせる声が、喉の奥で震えた。七年間の戦場では、パニックは即座に『死』を意味した。深呼吸を三回。空気を肺の奥まで送り込み、脳に酸素を届ける。だが、落ち着こうとすればするほど、右手の指先がじりじりと熱を帯びてくる。ログイン前の自分にはなかった、異質な熱だ。まるで、皮膚のすぐ下に、自分のものではない別の生き物が棲みついたかのような、不快な違和感だった。
「くそっ、なんなんだよ、これは……!」
蓮はイライラをぶつけるように、無意識に右手を空中で振り払った。それは、ゲーム『エクリプス・オンライン』の中で、インターフェースを呼び出す際の、身体に染み付いた癖だった。
その瞬間だった。
パッ、と視界の隅に光が明滅した。
「……っ!?」
蓮は、思わず目を見開いた。何もないはずの空間。自分の右手の先、一メートルほどの虚空に、半透明のホログラムが浮かび上がっていた。それは、見間違えようのない『照準器』だった。ゲーム内で数万回、いや数百万回と覗き込んできた、スナイパーライフル専用の、青白く光る精密な円環。
「嘘だろ……なんで、これが……。」
手を動かせば、照準器もそれに追従して動く。現実の部屋の風景を背景に、デジタルな幾何学模様が、冷徹なまでの精度で中心を指し示している。それは、この完璧な静寂の中に、あらかじめプログラミングされていたバグのようだった。あるいは、僕の脳が現実という名のソフトウェアを正常に処理できず、異世界の断片を強引にダウンロードしてしまった結果なのかもしれない。
蓮は、震える左手で右腕を掴んだ。ホログラムに触れようとしたが、指先は虚しく空を切る。光はある。しかし、実体はない。だが、その光が僕の瞳に反射している事実は、これが単なる幻覚ではないことを、残酷なまでに肯定していた。
恐怖が、冷たい水のように背筋を伝い落ちる。
「消えろ……消えてくれ……。」
蓮は必死に念じた。ゲームの終わり。ログアウト。平和な日常。その言葉を反芻するうちに、照りつける砂漠のような熱が引き、照準器は砂嵐のようなノイズと共に、ゆっくりと消失した。
代わりに訪れたのは、全身を襲う激しい脱力感だった。蓮はバランスを崩し、咄嗟に横の壁に手をついた。築三十年の古い木造アパートの壁。いつものように、コンクリートの冷たさが伝わってくるはずだった。
バキィッ、という、乾いた、しかし重い破壊音が部屋に響き渡った。
「あ……?」
蓮は自分の手元を凝視した。手をついた場所を中心に、クモの巣状の亀裂が走っている。壁紙が裂け、その下のコンクリートが、まるでお菓子のウェハースのように粉々に砕け散っていた。蓮は慌てて手を離したが、そこには僕の掌の形に、深く抉れた『穴』が残されていた。
蓮は、自分の右手を見つめた。傷一つない。痛みさえない。だが、そこには明らかに、一人の高校生が出せるはずのない、暴力的なまでの『力』が宿っていた。
「なんだよ、これ……。俺、化け物にでもなったのか……?」
その場に、力なく蹲った。膝が笑い、身体の震えが止まらない。ゲームの能力が、現実に漏れ出している。七年間という膨大な歳月が、単なるデータの蓄積ではなく、僕の肉体そのものを『戦うための道具』へと造り変えてしまったのだ。
蓮は自分の両腕を抱きしめるようにして、身体を丸めた。
『大丈夫。大丈夫だ。』
そう自分に言い聞かせるが、誰かが背中をさすってくれるわけではない。部屋には、剥がれ落ちたコンクリートの破片が床に落ちる、乾いた音だけが虚しく響いていた。力を持つ喜びなど、欠片もなかった。あるのは、自分の身体が、自分自身のコントロールを離れてしまったことへの、底知れない恐怖だけだった。
僕は、逃げ場所を探すように、ベッドの横に置いてあるスマートフォンを掴んだ。音楽。今の僕には、何か、自分を繋ぎ止めてくれる音楽が必要だった。
イヤホンを耳に押し込み、震える指で再生ボタンを叩く。THE BLUE HEARTSの『青空』。
歌詞の一節が、出自や見た目で人を測るな、と喉の奥を殴った。
甲本ヒロトの歌声が、嵐のように僕の頭の中を吹き抜けていく。
「……シン。」
その名前を呼ぶと、胸の奥が張り裂けそうになった。もし、今ここにシンがいたら、なんて言って笑っただろう。
『蓮、お前、それ最高じゃん。壁壊すなんて、まるでシュワルツェネッガーだな!』
なんて、軽口を叩いてくれただろうか。だが、現実にシンの声が届くことはない。歌が言うように、朝は来て空は青くなるのかもしれないが、その青空の下で僕がどう生きていけばいいのか、その答えはどこにも書かれていなかった。
「シン……俺、どうすればいいんだよ……。」
返事の代わりに、イヤホンからはパンクロックの激しいビートが流れ続ける。蓮は目を閉じ、音楽の海に深く沈み込もうとした。
その時だった。
耳元の音楽を切り裂くように、スマートフォンのバイブレーションが激しく鳴った。画面に表示されたのは、ニュースアプリの速報通知だった。
【速報:都内・新宿区で不可解な爆発事故が発生。通行人三名が死亡。原因は不明。】
蓮の指先が、再び凍りついた。事故?いや、そんなはずはない。あの『冷たい気配』。あの銀色の光。そして、自分の右手に宿った、望まぬ力。それらが、一つの巨大な、そして悍ましい図面を描き出そうとしていた。
戦場は、終わっていなかった。ログアウトしたはずの世界に、あの地獄の続きが、じわじわと、しかし確実な足取りで侵食を開始していた。
蓮は、ひび割れた壁を見つめながら、声を殺して呟いた。
「俺……本当に、帰ってこれたのか……?」
窓の外では、また救急車のサイレンが聞こえ始めた。それは、これから始まる『ラグナロク』の、不吉な序曲のように響いていた。




