第19章 交差点の怪物
等価交換の暴走が、最後の段階へ。三島の空に、向こうの赤い空と、崩れた城の影が重なります。そして三島大社前の交差点に、町中の孤独と後悔が集まった、巨大な怪物が現れました。
なくしたヘアピン。届かなかった手紙。閉まった写真館。変わらない信号。この町が流しきれなかった、言えなかった言葉、ぜんぶ。第一部のすべてが、ここに集まります。
その朝、三島の空が、二つに、なった。
いつもの、六月の曇り空。そのすぐ上に、もう一枚、別の空が、重なっていた。赤茶けた、向こうの空。そして、伊豆の山並みの稜線に、巨大な、崩れた城の影が、ぴたりと、重なっている。二つの世界が、もう、紙一重のところまで、入れ替わりかけていた。
等価交換の、暴走が、最後の段階に、入ったのだ。
三島大社前の交差点に、それは、現れた。
ビルより、高い。黒い、巨大な、影。けれど、近づいて見ると、それは、無数の、小さなものの、集まりだった。なくした赤いヘアピン。届かなかった手紙。閉まった写真館。変わらない信号。返せなかったキーホルダー。この町が、長いあいだ、流しきれずに、溜め込んできた――言えなかった言葉、ぜんぶ。
町中の孤独と後悔が、ひとつに、集まって、それは、生まれていた。
「でかすぎる」
玄弥が、見上げる。これは、咲良一人の、こよみ一人の、後悔じゃない。三島という町、まるごとの、抱えきれなかった想いだった。聞いて、鎮められる、大きさじゃない。かといって、斬って、終わる、相手でもない。斬れば、この町の心ごと、消える。
その怪物の、向こう側から――声が、聞こえた。
たくさんの、声。
助けて。
帰りたい。
こっちは、寒いよ。
向こうへ、転送された、住民たちの声だった。交差点の、向こう側。重なった世界の、隙間から。その中に、玄弥は、確かに、聞いた。
お兄ちゃん。
大河の、声を。
「灯里!」
「分かってます!」
灯里が、ノートを広げ、叫んだ。
「あの怪物は、町の記憶そのものです! 力で、どうにかなる相手じゃない! でも――町の人が、一人ずつ、自分の記憶と、向き合えれば、ほどけるはずです! 咲良ちゃんの時と、同じ。ただ、規模が、町、ぜんぶ!」
「そんなこと、どうやって」
「玄弥くんが、聞くんです。みんなの代わりに、いちばん最初に! そうすれば、たぶん、広がる!」
玄弥は、走り出した。
巨大な影の、足元へ。アヴァロンが、ガレスが、その兵士たちが、玄弥の前に、出る。
「先へ! ここは、我らが、押さえる!」
ガレスが、剣を構えた。源兵衛川では、斬ることしか、知らなかった男が、今は、玄弥を、先へ行かせるために、盾になっていた。聞く者を、守る者が、支える。一人では、できないことが、みんなと、なら、できる。
巨大な影が、腕を、振り下ろした。
無数の刃が、雨のように、降ってくる。折れた剣も、なくした傘の骨も、捨てられたものぜんぶが、武器になって。ガレスが、咆哮を上げ、その雨を、剣で弾いた。異世界の兵士たちが、円陣を組み、玄弥を、中心に庇う。甲冑が、ひしゃげる。それでも、誰も、退かなかった。
「守護者殿! 左!」
「承知!」
アヴァロンの剣が、ひときわ鋭く、閃いた。聖剣を守る一族の末裔は、もう、記録するだけの者では、なかった。崩れかけた円陣の穴を、自分の体で、ふさぐ。腕に、深い傷が走る。それでも、刃を、握り直した。
「玄弥殿は、必ず、守ります。あなたたちの、誰一人も、向こうへは、やらせませぬ!」
その叫びが、玄弥の、背中を、押した。
玄弥は、怪物の核に、手を伸ばした。
いっぺんに、流れ込んでくる。何百、何千もの、想い。重すぎる。
ごめんなさい。ありがとう。さよなら。言えなかった。会いたかった。許してほしかった。――この町に生きた、すべての人の、こぼした言葉が、いっぺんに、玄弥の中へ、なだれ込む。
誰の声が、自分の声なのか、分からなくなる。玄弥という輪郭が、何千もの想いに、溶けて、ほどけていく。このまま、聞き続けたら、自分が、自分でなく、なる。あの、冷たい熱とは、別の溶け方で。玄弥が、玄弥でなくなる。
膝が、折れる。意識が、遠い。
「玄弥!」
澪が、玄弥の背中を、支えた。両手で、強く。
「玄弥。こっち。私の声、聞いて」
何千もの声の中で、その一つだけが、やけに、近かった。ずっと、隣にいた声。戻ってくる目印だと、玄弥自身が、言った声。玄弥は、その声を、つかんだ。溶けかけた輪郭が、ぎりぎりのところで、踏みとどまる。
「……澪」
「うん。ここにいる。ぜんぶ聞いていいよ。私が、玄弥を、玄弥のまま、ここに、つないどくから」
凪人が、その隣で、スケッチブックを開き、流れ込む想いを、片端から、絵にしていく。形にならない声を、見える形に、変えていく。灯里が、その絵を、町の人々へ、見せて回る。
「これ、あなたの、忘れ物じゃないですか」
「この声、聞き覚え、ありませんか」
すると――不思議なことが、起き始めた。
規制線の外で、ただ、怯えていた、町の人たちが。一人、また一人と、足を、止めた。
商店街の、八百屋の店主が、つぶやいた。「ああ……あの時、謝れなかったな」と。学校帰りの、女子高生が、涙ぐんだ。「おばあちゃんに、最後、ありがとうって、言えなかった」と。宮下こよみが、咲良の手を握って、静かに、うなずいた。みんな、それぞれの、言えなかった言葉を、思い出していた。
怪物の、黒い体に、ひびが、入る。
町が、自分の心と、向き合うたびに。少しずつ、少しずつ。
「いける」
玄弥は、立ち上がった。澪が、支えてくれている。仲間が、守ってくれている。町が、応えてくれている。だから、もう、一人じゃ、なかった。
けれど――重なった空の、向こうの城が、ぐにゃりと、歪んだ。
黒い王冠の、城が、こちらへ、力を、伸ばしてくる。怪物の、ひびを、ふさごうとするように。住民たちの声を、向こうへ、引きずり込もうとするように。町の記憶が、ほどける前に、ぜんぶ、奪おうとするように。
『汝、何を守る』
エクスの声が、響いた。交差点の、真ん中。刺さったままの、エクスカリバーから。
玄弥は、剣の前に、立った。
ずっと、抜けなかった剣。力が欲しいだけでは、答えにならない、と言われた剣。けれど今日、玄弥は、答えを、持っていた。
「町を守る。みんなを守る。大河を、連れ戻す」
玄弥は、柄を、握った。
「でも、それだけじゃない。あの城の、魔王も――たぶん、独りなんだろ。だったら、あいつの、声も、聞く。斬るためじゃない。隣に、立つために。それが、俺の、守り方だ」
刃が、光った。今までで、いちばん、強く。
『……よくぞ、答えた、観測者よ』
エクスの声が、笑った。誇らしげに。
『いや――玄弥よ。今日からは、その名で、呼ぼう』
玄弥は、エクスカリバーを、引き抜いた。
あれだけ、クレーンでも、重機でも、びくともしなかった剣が。
まるで、ずっと、この瞬間を、待っていたみたいに。
すうっと、地面から、抜けた。
その刹那、交差点に、天を貫く、光の柱が、立ち上った。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
聞いて鎮める大きさでも、斬って終わる相手でもない――町まるごとの後悔には、町自身が、一人ずつ自分の記憶と向き合うしかありませんでした。玄弥が代わりに最初に聞き、澪が支え、凪人が想いを絵にし、灯里が町の人へ届け、アヴァロンとガレスたちが盾になる。聞く者を、守る者が支える。一人ではできないことが、みんなとなら、できる。八百屋の店主が、女子高生が、こよみが、それぞれの言えなかった言葉を思い出すたび、怪物にひびが入っていきます。
向こうからは、住民たちの声。そして、大河の「お兄ちゃん」。けれど黒い王冠の城が、町の記憶を奪い返そうと、力を伸ばしてきます。
玄弥は、ついにエクスカリバーの前に立ち、問いに答えました。「町を、みんなを、大河を守る。魔王も独りなら、その声も聞く。斬るためじゃない、隣に立つために」。あれだけ抜けなかった剣が、待っていたように、すうっと抜けて――交差点に、天を貫く光の柱が立ちます。
次章、第一部完結。光のあとに、玄弥たちが選ぶものは。




