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エクスカリバーが交差点の真ん中にささってるんだが…  作者: 源三郎


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第10章 絵に描けない顔

六分間だけ姿を消し、靴の裏に見たこともない赤い土をつけて戻ってきた主婦。源兵衛川で見えた「向こう側」は、もう予感ではなく、この町の現実になりはじめています。

今回は、みんなには見えないものを描き続けてきた孤独な同級生・黒瀬凪人と出会う章です。彼にしか見えないものが、初めて誰かを救う鍵になります。


 その話は、月曜の朝、教室の隅から広がってきた。


 日曜の夕方、商店街の近くで、近所の主婦が六分間だけ姿を消したらしい。本人はただ郵便局へ歩いていたつもりで、気づいたら六分が過ぎ、靴の裏に、三島では見たことのない赤茶けた土がついていた。スマホの位置情報は、その六分のあいだ、地図のどこでもない場所を指していたという。


「六分」


 白石澪(しらいしみお)が、低く繰り返した。


「源兵衛川の時の、赤い土と同じ」


「ですね」


 榊原灯里(さかきばらあかり)がノートを抱える手に力を込めた。


「灯里。それ、どういうことになるの」


「……こっちから、向こうへ落ちる人が、もう出始めてる、ってことです。今回は六分で帰ってこられた。でも、帰れる保証が、どこにもないんです」


 玄弥は、何も言えなかった。右手の奥の熱は、源兵衛川の日から、もう完全には引いていない。けれどそれより、教室のもう一つの空席が、今日も気になっていた。


 窓際のいちばん後ろ。黒瀬凪人の席。


 黒瀬凪人(くろせなぎと)とは、二年で同じクラスになった。ほとんど学校に来ない。来ても、誰とも話さず、休み時間はずっと机に向かって何かを描いている。一度だけ、玄弥はその手元を覗いたことがあった。ノートいっぱいに、この町の絵があった。ただし、どの絵の隅にも、見たことのない赤い空が、にじむように描き込まれていた。


 あの時は、変わった絵だな、としか思わなかった。


 今は、違う。


「ちょっと、寄りたいとこがある」


 放課後、玄弥はそう言って、商店街とは反対の方角へ自転車を向けた。


 黒瀬凪人の家は、住宅街の外れにあった。表札の下に、もう何年も使われていないらしい呼び鈴。玄弥が迷っていると、家の脇の細い道から、鉛筆の擦れる音が聞こえた。


 凪人は、ブロック塀の陰にしゃがんで、スケッチブックを広げていた。玄弥たちに気づくと、さっとそれを胸に抱え込む。


「……何」


 声は、思ったより小さかった。


「黒瀬。その絵、見せてもらっていい?」


「やだ」


 即答だった。玄弥は、それ以上踏み込まなかった。代わりに、自分の側を先に開けた。


「俺さ、最近、変なもの見えるんだ。交差点の剣とか、川にいる、人の声でできたやつとか。たぶん、信じてもらえないやつ」


 凪人の肩が、わずかに動いた。


「で、黒瀬の絵にも、たぶん、それが描いてあるんじゃないかと思って」


 しばらく、鉛筆を握る音だけがした。やがて凪人は、抱えたスケッチブックを、ほんの少しだけこちらへ傾けた。見せた、というより、隠すのをやめた、という感じだった。


 ページには、商店街が描かれていた。いつもの店並み。けれど、その一軒の壁に、縦に長い裂け目がある。裂け目の向こうから、赤茶けた光と、見たこともない森が覗いていた。


「これ、いつ描いたの」


「先週」


 凪人は、目を合わせないまま言った。


「でも、そこ、昨日、ほんとに裂けた。ニュースになってないけど、おれ、見た。おばさんが、半分、吸い込まれてた」


 澪が息をのむ。六分間消えた、あの主婦だ。


「ずっと、こうなんだ」


 凪人の声は、淡々としていた。淡々としすぎていた。


「みんなには見えないものが、おれにだけ見える。気持ち悪いって言われる。先生も、親も、病院に行けって。だから、もう、誰にも見せない」


「見えるんじゃなくて」


 アヴァロンが、静かに言った。凪人にはその姿は見えない。それでも、声の気配は届いたらしい。凪人の鉛筆が止まる。


「感じ取っているのでしょう。境界の歪みも、そこに溜まった感情も。……この少年は、玄弥殿とは別のかたちで、聖剣の影響を受けています」


「今、誰か」


「気にしないで。俺の連れ。説明はあとで」


 その時、凪人のスケッチブックの上に、ぽつ、と影が差した。


 西日のはずだった。なのに、その影は、赤かった。


 玄弥が顔を上げると、住宅街の細い路地の突き当たり――古い用水路の暗渠の入口が、縦に裂けていた。凪人の絵と、同じかたちで。裂け目の奥に、赤い土の道。倒れた、見たこともない城壁の影。そして、ずっと遠くで、誰かを呼ぶような、低い角笛の音。


「下がって!」


 澪が叫んだ。けれど、動いたのは逆だった。


 凪人が、ふらりと、裂け目のほうへ歩き出した。


「黒瀬!?」


「……呼んでる」


 凪人の声は、夢を見ているようだった。


「あっちのほうが、おれのこと、いる場所だって、言ってる」


 玄弥は走った。けれど、間に合わなかった。凪人の体の右半分が、ぬるりと、赤い世界へ沈み込む。引き戻そうと伸ばした玄弥の手の先で、凪人の輪郭が、水に垂らした絵の具のように、滲んでいく。


 冷たかった。源兵衛川の比ではない。裂け目から吹く風は、土と、鉄と、ずっと昔に終わった戦の匂いがした。


「アヴァロン!」


「縁を、押さえます! ですが、長くは保ちませぬ。――この子自身が、戻ると決めねば、引けません!」


 咲良の時と、同じだ。力ずくでは、引けない。


 玄弥は、半分向こうへ消えかけた凪人の手を、両手でつかんだ。右手が燃える。体が、勝手に踏ん張る。それでも、凪人の体は、少しずつ遠ざかっていく。


「黒瀬。戻ってこい」


「……なんで」


 凪人の、赤い世界に半分浸かった目が、玄弥を見た。


「こっちには、おれの場所、ないよ。誰も、おれのこと、いらないし」


「いる」


 玄弥は言った。考えるより、先に出た。


「お前の絵がなきゃ、あのおばさん、次に裂けた時、誰も助けられない。お前にしか見えないものが、誰かを助けるんだよ。だから、いる。こっちに、いてくれ」


 凪人の手に、ほんの少し、力が戻った。


「……ほんとに?」


「ほんとだ」


 その時だった。


 凪人の空いたほうの手が、無意識のように、スケッチブックの上を走った。半分向こうへ消えながら、それでも、見たものを描かずにいられないのだろう。鉛筆が、玄弥の顔を、描いていく。


 澪が、その絵を、覗き込んだ。そして、息を止めた。


 紙の上の玄弥は、玄弥の輪郭をしていた。けれど、その顔は――目の光も、口元も、こちらへ手を伸ばす角度も、澪の知っている玄弥のものではなかった。誰か、知らない男が、玄弥のふりをして、こちらへ手を伸ばしている。そんな絵だった。


「玄弥」


 澪の声が、震えた。けれど玄弥は、凪人を引くことに必死で、気づかなかった。


 アヴァロンが境界の縁を押さえ、玄弥が引き、凪人が「戻る」と決めた。その三つが、ようやく噛み合う。ずるり、と音を立てて、凪人の体が、赤い世界からこちら側へ転がり出た。


 裂け目が、閉じる。古い暗渠の入口は、また、ただのコンクリートの暗がりに戻っていた。最後に、その奥で――黒い、王冠のような影が、一度だけ、ゆっくりと沈んだ。誰かを呼ぶ角笛の音が、遠ざかっていく。


 凪人は、地面に座り込んだまま、自分の右手を見ていた。さっきまで、向こう側にあった手。


「……戻って、きた」


「うん」


「おれ、戻ってきた」


 二度言ったその声が、初めて、子どもみたいに揺れた。玄弥は、何も言わずに、その隣に座った。


 しばらく、誰も口をきかなかった。先に動いたのは、灯里だった。ノートを抱えたまま、凪人の前に、そっとしゃがむ。


「あの」


 凪人が、警戒した猫みたいに身を引く。


「さっきの、商店街の裂け目の絵。……あれ、すごいです。先週の絵で、昨日のことが分かるなんて。わたし、何年も三島の伝承を調べてますけど、ぜんぶ文字でしか追えないんです。でも黒瀬さんは、見えてる。それって、たぶん、すごく大事なことで」


「……気持ち悪いって、言われる」


「言う人が、見えてないだけです」


 即答だった。それから灯里は、自分の早口に気づいたのか、少しだけ顔を赤くして、声を落とした。


「わたしも、好きなものの話をすると、よく言われるので。変わってるって。……でも、変わってることが、誰かの役に立つ日も、あるみたいです。今日みたいに」


 凪人は、しばらく灯里を見ていた。何か言いかけて、結局、口の中で「……どうも」とだけ言う。たった三文字だったけれど、玄弥が知るかぎり、凪人が誰かに礼を言うのを聞いたのは、それが初めてだった。


 澪は、スケッチブックを胸に抱えたまま、玄弥を見ていた。さっきの絵のことを、言うべきか、迷っているようだった。結局、言わなかった。今は、言える時じゃないと思ったのだろう。


 帰り道、凪人はずっと、スケッチブックを抱えていた。別れ際、玄弥が「また学校来いよ」と言うと、凪人は少し困った顔をして、それから、小さくうなずいた。約束ではなかった。けれど、首を横に振らなかったことが、たぶん、今日の凪人にとっては精一杯だった。


 凪人の姿が角を曲がって消えてから、澪が、ようやく口を開いた。


「玄弥。さっき、黒瀬くんが描いた絵」


「ああ、見えた? 俺の顔、描いてくれてた」


「……うん」


 澪は、それ以上、言わなかった。


 玄弥は、自分の顔がどんなふうに描かれていたのか、知らない。だから、澪が今、どんな気持ちでその絵を抱えているのかも、分からなかった。分からないまま、二人は、夕暮れの坂を下りていく。


 町のどこかで、また、誰かが六分だけ、いなくなっているのかもしれない。靴の裏に、赤い土をつけて。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

「こっちには、おれの場所なんてない」と言った凪人を、半分だけ向こうへ取られた手から、玄弥たちは引き戻しました。お前にしか見えないものが、誰かを助ける――その一言が、彼を必要とした初めての言葉でした。

そして凪人が半分向こうへ消えながら描いた、玄弥の顔。澪はそれを見て、言葉を失います。凪人の絵は、感情を映してしまうから。玄弥が今、どんな顔に変わりつつあるのかを、いちばん残酷なかたちで写し取ってしまいました。

転送はもう、誰の身にも起こりうる。次章では、町に増えていく「留守」と、向こう側を探しはじめる玄弥たちを描いていきます。

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ここまで読んでくださりありがとうございます!
玄弥たちが向き合うのは、倒すだけでは終わらない怪物たち。
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