第9話 「揺れる心」
1
火曜日。
出勤して、自分のデスクに腰かけようと椅子を引く。
目に入ったのは、私のデスクと背中合わせにある空席だった。
もちろん、今日は誰もいない。
昨日、あの空席で立ち上げたパソコンも、いつも通り電源が落ちている。
私は自分の席でパソコンを立ち上げ、いつものように引き出しからメモ帳を取り出す。
新商品の登録は、今日も続く。
集中して進めないと、間違いがあっても気づけない。
画面と資料を、黙々と見比べる。
一時間もすると目が疲れて、私は椅子の背もたれにもたれかかった。
肩を回して、ひとつ息をつく。
モニターから目を離すと、昨日のことがよみがえってくる。
ぐいっと、後ろから椅子を引かれたこと。
ちょっとびっくりしたけれど、高瀬さんの声を聞いて、他の誰かではなかったことにほっとした。
椅子の後ろに立っていた彼の気配と、マウスを動かす手。
すぐ後ろにいることを、身体のどこかで意識していたこと。
帰り際に「まだ、いてほしいですか?」と、声をひそめるでもなく笑っていた顔。
わざと大真面目な顔をして、「毎日来てください」と返した、自分の声。
今さら思い出すと、少し恥ずかしくなる。
でも、私が意識していたことまでは、社内の人には気づかれていないはずだ。
そうならないように、いつもどおり振る舞ったつもりだった。
くだらないことを考えている。
相手は、何も考えずにやったことなのだろう。
自分の心だけが揺さぶられたみたいで、それがただ、恥ずかしい。
しばらくは、高瀬さんもここには来ないだろう。
昨日、実際の画面を一緒に確認して、問題がないことも確かめた。
もう、わざわざここに来る理由なんてない。
それでいい。
毎日来られても、きっと困る。
揺れるのが私だけなのは、もう疲れてしまったから。
それなのに、入口の扉が開くたびに、目がそちらへ向いてしまう。
自分自身に呆れて、ため息が出た。
2
今日は、一日オフィスでの仕事だ。
外に出ている方が性に合っているとは思う。
でも、これはこれで大事なので面倒だがやるしかない。
訪問した会社ごとに作業内容をまとめる。
不具合、対処法、再発防止、次回の提案内容。
午後からは、持ち帰ったPCのエラーログの確認。
初期化と再セットアップ。
ラッスルからは、新しい不具合の連絡はない。
それに、昨日確認したばかりだ。
自分から連絡するのは、理由もないし、不自然すぎる。
受信箱を見ても、何も増えていない。
宮原さんから届いたのは、
『ありがとうございます。確認します』
という短い返信だけだった。
それ以上のやり取りはない。
昨日の自分を振り返る。
「まだ、いてほしいですか?」
これくらいのことは、訪問先の会社で誰にでも言っていた。
もう、どこの会社でも自分を知っている人は「はいはい」くらいで流してくれるので、気にもしていなかった。
宮原さんも、同じ調子で返しただけだ。
それなのに。
宮原さんの返事だけが、妙に残っている。
「毎日来てください」
宮原さんも、慣れてくれば普通に冗談を返す人だった。
それがわかっただけだ。
納得したつもりだったのに、またラッスルのメールを開いていた。
3
やっぱり今日も、夜は寒い。
これから冬に向かっていくのだから、当たり前だ。
私は靴下をはいて、パソコンの電源を入れる。
ゲームのログイン画面を開きながら思う。
今日は、彼のほうが先にいる気がする。
ログインしたら、やっぱりいた。
「やっぱりいた」と思ったのが先なのか、「ほっとした」が先なのか。
自分でも、よくわからなかった。
すぐに、Kzさんからチャットが飛んできて、私は安心している自分に気づく。
Kz:こんばんは
Kz:日課まだでしょ
るびぃ:まだ
Kz:じゃあ行こう
るびぃ:もう見てきた?
Kz:すぐ終わりそうなのね
私が来ると思って、先に確認していてくれたのかな。
各自に指定される討伐モンスターを、指示された数だけ倒すと経験値とお金がもらえる。
それを毎日やるから、「日課」と呼ばれている。
パーティを組むと、互いの依頼を共有できる仕組みだ。
るびぃ:待ってた?
Kz:別に
るびぃ:昨日の仕返し?w
Kz:何の話?w
4
ふたりで街へ行って、「日課」のクエストを受ける。
指定された魔物がどこにいるかなんて、このゲームのユーザーならもう、ほとんどの人が把握している。
もちろん、私たちも。
該当のフィールドへ行って、ふたりでやれば数分で終わる。
弱い魔物を大剣で殴りながら、Kzさんが言った。
Kz:今日は疲れてない?
るびぃ:昨日ほどじゃないよ
Kz:昨日、そんなに疲れてた?
るびぃ:仕事より、別のことで疲れたかも
Kz:人間関係?
るびぃ:そんな大げさじゃないよ
Kz:じゃあ、なに?
るびぃ:自分の問題
Kzさんに、高瀬さんの話なんてできない。
この前は、高瀬さんと一緒に帰った話だけはした。
でも、会社で、高瀬さんのことを意識してしまったことまでは言えなかった。
深掘りされたくなくて、私は話題を変えることにした。
るびぃ:今日は何食べた?
Kz:冷凍
るびぃ:また?
Kz:また
るびぃ:冷凍の何?
Kz:たぶん、ハンバーグ?
るびぃ:たぶんって何
Kz:茶色だったw
るびぃ:雑過ぎる
Kz:食べたらなくなるし
るびぃ:そういう問題?!
食生活は、私のほうがまだマシかもしれない。
私だって、毎日買ってきたお弁当には飽きるから、たまにはご飯を炊いて、お味噌汁くらいは作ることもある。
「日課」の討伐も終わって、私たちは街へ戻った。
るびぃ:休みの日くらい何か作ったら?
Kz:なにを?
るびぃ:簡単なもの
Kz:簡単の基準がわからない
そのまま、街の中で立ち話が続く。
るびぃ:卵焼くとか、サラダ作るとか
Kz:材料が余る
るびぃ:次の日にも使えばいい
Kz:次の日には忘れる
るびぃ:ダメな人だったw
Kzさんは、どんな場所で、どんな生活をしているのだろう。
ネットやゲームの中では、必要以上に個人的なことを聞かないし、話さない。
それでも、毎日言葉を交わしていれば、断片的に見えてくるものはある。
ゲームのアバターの向こうにも、その人らしさはにじみ出る。
どんな仕事をして、どこに住んで、何を食べて、どんな声で話すのか。
そんなことまで知りたいと思うのは、踏み込みすぎのような気がした。
それでも私は、画面の向こうにいるKzさんの暮らしを、いつの間にか想像していた。
5
本当にくだらない雑談なのに、いくらでも話していられるのが不思議だった。
以前の俺は、エンドコンテンツに毎日のように通っていた。
攻撃力の高い武器を揃えて、防具もできる限り整える。
腕の立つやつらとパーティを組んで、強い魔物をどれだけ早く倒せるか。
それが楽しかった。
くだらない雑談に時間を使うくらいなら、なかなか勝てないボスを倒すことにやりがいを感じていた。
今でも、誘われればきっと行くだろう。
だけど、るびぃと過ごす時間は、たとえ沈黙が続いても、無駄だとは思えなかった。
宮原さんとも、そうだった。
彼女とカフェで過ごした一時間余りも、ずっと話していたわけじゃない。
共通の話題があまりなかったのもあるだろう。
それでも、苦ではなかった。
なんで、るびぃのことを考えていて宮原さんが出てくるんだ。
今日は、宮原さんのことは考えないようにしていたのに。
俺が毎日何を食べているのか聞くるびぃ。
それに、適当に答える俺。
ほかのユーザーがわらわらと行き交う街の中で、るびぃは、心配しているようにも聞こえることを平気で言う。
Kz:るびは何作るの?
るびぃ:普通だよ
Kz:普通がわからない
るびぃ:肉じゃがとか?
Kz:それは普通じゃない
るびぃ:いや、普通w
Kz:料理できる人の普通
いつも買った弁当で済ませているように聞こえていたから、料理は苦手なのかもしれないと勝手に思っていた。
そうでもないらしい。
彼女にも、彼女の生活がある。
キッチンに立って、何か野菜を切っているところを想像する。
顔も姿も声も知らないのに、そんな場面だけが自然に浮かんでくるのが、ひどく妙だった。
6
「日課」のデイリークエストを終えて、報酬をもらえば「おつかれさま」でパーティを解散してもよかった。
けれど、どちらもそのことには触れなかった。
Kz:次どうする?
るびぃ:日課は終わり
Kz:わかってる
るびぃ:じゃあ、何するの
Kz:何かある?
るびぃ:何も
Kz:俺も
るびぃ:デートしよう
ギョッとした。
何を言い出すんだと思った。
いや、待て。
デートといっても、ゲームのフィールドの中での話だろう、とすぐに気づいた。
リアルでデートなんて、言うわけがない。
Kz:急だな
Kz:どこ行く?また砂漠?
るびぃ:海の見える神殿
るびぃ:夕焼けがきれいなの
結局、俺はどこだってよかった。
どこにいたって同じだ。景色が変わるだけ。
この時間が続いてくれれば、それでいい。
神殿は静かだった。
ここは前回のシナリオクエストでの通過点だから、用事のあるやつしか来ない。
ゲームの中では、まだ日は高く、夕焼けまではしばらくかかるだろう。
るびぃ:Kzさんの庭に置いたランプ、どうした?
Kz:あのまま置いてある
るびぃ:片づけなかったの?
Kz:片づけるほうがめんどいだろ
るびぃ:ちゃんと点いてる?
Kz:そりゃ、点いてるだろ
Kz:触ってないから
るびぃ:消してるかと思った
Kz:買った意味ないだろ
るびぃ:ふふww
全く実用性のない、あのランプが点いていることが嬉しいのか、るびぃは楽しそうだった。
やがて、海の向こうが赤く染まり始めた。
るびぃ:きれいでしょ
Kz:まあね
るびぃが楽しそうなら、それでよかった。
7
夕焼けが真っ赤に染まり、やがてゆっくりと群青色へ変わっていく。
ゲームの世界には、こうして景色を眺める場所がいくつもある。
Kzさんは、もしかしたら退屈しているのかもしれない。
それでも、私に付き合ってくれる。
くだらない話にも、ちゃんと返事をしてくれる。
ゲームの中でしか通じない話もするし、現実の生活の話もする。
顔も名前も声も、どんな仕事をしているのかも知らない人だ。
それなのに、冷凍のお弁当を食べることも、朝が弱いことも知っている。
部屋が散らかっていることも、料理をしないことも知っていた。
「日課」は先に調べて、私に合わせてくれる。
私が疲れているかどうかも、気にしてくれる。
実際に毎日顔を合わせる職場の人でも、そこまで知っている相手はそういない。
顔も知らない相手を、こんなにも身近に思うなんて、不思議だった。
るびぃ:あなたといると楽
送信したあとで、変なことを言ってしまったかもしれないと思った。
けれど、送ってしまったものは戻せない。
すぐに、別の言い方へ逃げる。
るびぃ:日課が早く終わるから
Kz:そこ?
るびぃ:うんw
Kz:じゃあ、明日も効率のために行く?
るびぃ:時間が合えば
7
夕焼けは赤から紫に変わり、群青色に変わった。
るびぃ:夜になったね
るびぃ:そろそろ寝ないと
Kz:了解
るびぃ:明日もいる?
Kz:たぶん
るびぃ:じゃあ、また明日
Kz:うん。明日
Kz:おやすみ
るびぃ:おやすみ
るびぃが消えた。
俺は、自分の家へ戻った。
庭の隅にあるランプが光っている。
この世界は、もうしばらく夜が続く。
宮原さんは、仕事の相手だ。
これ以上、気にする理由はない。
るびぃとは……今まで通り、他愛もない話をして、クエストを楽しめればそれでいい。
――今まで通り。
最近は、遊んでいる時間より話している時間のほうが長い。
付き合っていた男と別れた話は聞いた。
それだって、断片的に聞いただけだ。
日課が終わっても、パーティは維持し続けていた。
明日も会う約束みたいな話もした。
今日何を食べたか話した。
俺と一緒にいると楽だとるびぃが言った。
これで「今まで通り」なのか。
違う気がする。
宮原さんは、仕事の相手だ。
るびぃは、二年来のゲーム友達だ。
ゲームでの二年は、現実の二年よりも、ずっと濃い気がする。
全く違う関係なのだから、何を迷うことがあるのか。
そう思いながら、俺は明日の帰宅時間を頭の中で計算していた。
紅葉便り 第9話 「揺れる心」おわり




