第8話 「彷徨う心」
1
新しい週が始まった。
ラッスルへの初出勤から一週間あまり。
ようやく、仕事の流れも見えてきた気がする。
職場の人とも気軽に会話ができるようになってきたし、会社全体の空気も、どこかやわらかくて、緩いところがある。
私にとっては、そのゆるさがむしろ馴染みやすくて、ほっとする理由になっている。
朝は、メールの確認をして、それから商品登録を進めて、ECサイトに載せる文章の修正をする。
この一連の作業が、私の中で「いつもの朝」のルーティンになりつつある。
先日、大量の新商品が入荷した。
色味は一気に秋色に寄って、ハロウィン関連のものも増えた。
新商品が入ってくると、一気に忙しくなる。
季節ごとに商品が入れ替わったり、廃番になったりするからだろう。
一年を通して働いてみれば、そうした流れのサイクルも自然と身体で覚えていくのだと思う。
けれど、今の私は、まだ入社して一週間ちょっとの新参者だ。
入口のドアが開いて、誰かが入ってくる気配がした。
つい無意識にそちらへ目を向けると、武内さんだった。
最近の武内さんは、いつも忙しそうにしている。
輸入物の雑貨を扱っているらしい、ということだけは聞いた。
そこから先、ECで売るのか、小売店に卸す計画があるのか、そのあたりのことは、まだ私にはよくわからない。
今日は、高瀬さんは来ていない。
来る予定だという話も聞いていない。
先週、何度か顔を合わせただけで、今日もここに現れる理由なんてないはずだ。
高瀬さんは、システム関係に不具合が起きたときにやって来る人だ。
それでも、金曜日に駅までふたりで歩いて、電車の遅延がきっかけでカフェに寄ったことで、私の中での彼の位置づけはどこか変わった。
前よりも、「知っている人」になった気がする。
そう思っていると、高瀬さんからメールが届いた。
件名を見て、すぐに内容が想像できた。
先週のEC表示不具合についての補足。
前に送ってくれた不具合対応のメールを、さらに詳しく書き直した、対応と手順のまとめだった。
読み進めると、やっぱり分かりやすい。
簡潔なのに、メールだけで十分に対応できそうな内容になっている。
人当たりがよくて、どこか軽そうで、いつも少し眠そうな雰囲気とは裏腹に、仕事にはまったく隙がない人だ、とあらためて思う。
私は、お礼のメールを書いた。
『ありがとうございます。確認します』
それだけ。
本当はこれだけで十分なのに、送信ボタンを押したあと、どうにも物足りないような気分になった。
自分の中で、何かを期待していたのだろうか。
何を、期待していたんだろう。
2
また月曜日が始まった。
会社の事務所で、メールを確認しながら、今日の訪問先を整理する。
昨日からの障害報告に目を通し、深夜に届いたログをざっと確認する。
交換が必要になった場合に備えて、部品の在庫も確かめた。
今週も、トラブル対応が続きそうだ。
昨日の昼のうちに、ラッスルへ送る補足メールは作っておいた。
先週の不具合対応を、前よりも分かりやすく書き直したものだ。
さっき、そのメールを送信した。
これで、ラッスルに行く用事は、向こうで新しいトラブルでも起きないかぎり、もうないはずだ。
しばらくして、ラッスルの宮原さんから返信が届いた。
『ありがとうございます。確認します』
俺は、その短いメールを閉じて、今日の訪問先のメモに視線を戻した。
午後から、渋谷での仕事が入っている。
だからといって、ラッスルに寄る必要はない。
何を迷っているのか、自分でもよくわからない。
それなのに、手は勝手にもう一度メールを開き、返信文を打っていた。
『午後、近くまで行くので、実際の画面だけ一度確認します』
送信してから、息をひとつ吐いて、小さくつぶやく。
「……メールで済むだろ」
実際の画面を見た方が早い。
宮原さんは、入社したばかりで、まだ慣れていない。
手順を間違った形で覚えられるより、最初にきちんと覚えてもらった方がいい。
それに、渋谷での仕事のついでだ。
間違いじゃないし、嘘でもない。
それでも、確認ならメール一往復で済むことだけは、俺自身が一番よく分かっていた。
3
昼休みは、また先日のランチにも行った路地裏の喫茶店へ、津村さんを含めた四人で向かった。
あのお店なら、たいてい何とか座れる。
繁華街は、昼どきになると一気に人があふれる。
おしゃれなイタリアンや、少し上品な和食は値が張るうえ、予約がないと入れないことも多い。
通りには人がひしめいていて、この流れが深夜まで続く街なのだと思う。
四人以上で昼食を取ると、五百円が付く。
会社のコミュニケーションを円滑にするための、社長なりの配慮らしい。
それでも、混雑した外へ出るより、社内でパンを食べている人や、お弁当を持ってきている人もいる。
先週、エレベーターを待っていたときに、七階の会社の人と少し立ち話をした。
その人の会社では、昼休みの時間が決まっていないらしい。
好きなときに一時間取れるのだという。
なるほど、そちらの方が気楽かもしれない。
この混雑を避けるための措置なのかどうかは、私には分からない。
くだらない雑談で、笑いながら四人で食べるランチだって、私は好きだけど。
昼休みが終わってしばらくすると、取引先の担当者がやってきた。
自分のところの商品写真を差し替えたいらしい。
私と同じくらいの年齢に見える、その男性は、明るくて調子のいい話し方をする人だった。
商品ページを確認するために、彼は私の真後ろにある空席から椅子を持ってきて、隣へ腰かけた。
その席は、パソコンだけが置かれたまま、普段は誰も使っていない。
画面をのぞき込むように、彼が身を乗り出してくる。
なんだか、距離が近い。
一度は後ろへ引くのに、別のページになると、またぐっと近づいてくる。
嫌だというほどではないけれど、窮屈だった。
そのたびに、私は身体を横へずらした。
そこへ、高瀬さんの声がした。
「こんにちは」
いつもどおり感じよく、大股でこちらへ来る。
周りにいる人たちへの愛想も欠かさない。
「近くまで来てたんで、この前の確認だけして帰ろうかなと思いまして」
「そうでしたか。わざわざ、すいませんね」
誰かとそんな軽いやり取りをしながら、高瀬さんは私の席のそばまで来た。
「宮原さん、先週の件、ちょっと確認したいことがあるので」
私の椅子の背に手をかけ、そのまま後ろへ引く。
椅子ごと真後ろの空席まで移動してから、くるりと向きを変えられた。
気づけば私は、さっきまで椅子だけがなくなっていた机の前に座っている。
「こっちのモニター使いましょう」
取引先の男性は、少し驚いたように「あ、どうぞ」と言った。
高瀬さんは、にこにこしながらその男性へ言う。
「そのまま見ていてください。表示の違いも一緒に確認したいので」
そう言って、私の椅子の後ろに立った。
パソコンには、先日不具合のあったページが開かれている。
後ろから立ったままマウスを動かす手が見えた。
相手は違うのに、また距離が近い。
今度は、私の肩のあたりに、高瀬さんの腕が見える。
仕事で画面を見るときって、こんなに距離が近くなるものなのだろうか。
そんなことを考えながらも、不思議と嫌な感じはしなかった。
むしろ、さっきまで感じていた窮屈さは、いつの間にか消えている。
高瀬さんは、表示位置や確認手順について説明している。
聞かなければと思うのに、肩の近くにある腕が気になって、言葉が半分しか頭に入ってこない。
「宮原さん、もうひとりで大丈夫ですね」
そう言って笑った顔が、思ったより近かった。
ドキドキした。
4
特に急ぎの確認でもない。
再度の依頼があったわけでもない。
あの男のせいで、椅子を動かしたわけじゃない。
画面を見る角度の問題だ。
それに、正常に動いていることも確認できた。
先日のPCが遅い件も、ちゃんと伝えておかなければ、ここまで来た意味がない。
かがめていた背筋を伸ばして、奥の方にいた武内さんを見つけて、声をかける。
「武内さん、この間の、PCが遅いって話ですけど」
「はいはい」
武内さんは、軽い返事をして書類を手に、こちらに顔を向けた。
そのとき、さっきの男がまた宮原さんに話しかけているのが聞こえた。
「この写真をですね……」
「ああ、こっちのほうが……」
無意識のうちに、男と宮原さんのほうへ視線が向いていた。
武内さんが近づいてきたので、慌てて頭を切り替える。
「メモリの容量を増やせば、もう少しなんとかできると思います」
「ブラウザのタブを大量に開けるとね、どうしても重くなるんで」
「ああ、メモリですか。それって、どうやるんです?」
「自分がやりますから。増設するなら連絡ください」
仕事自体は五分もあれば終わるのに、俺はずるずると武内さんと話し続けていた。
ひとしきり話してから、もう一度宮原さんに目を向けると、男はまだ彼女と何か話している。
「宮原さん、何かあったらまた連絡してください」
声をかけると、彼女は笑って答えた。
「はい。ありがとうございます」
「もう、帰るんですか?」
「まだ、いてほしいですか?」
冗談めかして返すと、彼女も負けじと言う。
「毎日来てください」
来られるものなら、もっと来ているんだろうな。
……たぶん。
5
本当に高瀬さんは、何のためらいもなく、ああいうことを言う。
『まだ、いてほしいですか?』
前にも、似たようなことを別の人に言っているのを聞いたことがある。
気を持たせようとしているわけではないのだと分かっている。
それでも、人前でああやって自然に言われると、私が勝手に意識して赤くなるほうが、なんだか悔しかった。
だから私も、気を持たせるつもりのないふりをして、同じように返した。
そうしておけば、ただの軽口で済む。
それでいい。
高瀬さんが帰ってすぐ、三田さんが言った。
「高瀬さん、宮原さんには丁寧だね」
茶化しているのだろう。
ここで、口ごもってはいけない。
「入ったばかりだからじゃないですか?」
それが、いちばん無難な答えだった。
椅子を引かれたときの感覚も、肩のすぐ横にあった腕も、マウスを動かす手も、頭の中にはまだ残っている。
それでも、彼はそういう人なのだと思うことにした。
誰に対しても、ああいう距離感で、ああいうふうに振る舞う人。
帰宅して、いつものルーティンを済ませる。
このところ夜は足元が冷えるので、靴下をはいてパソコンデスクに座った。
ゲームにログインして、まずはフレンドリストを見る。
Kzさんは、オフラインだ。
「今日は、遅いんだ……」
「日課の討伐でも行こう」
しばらくして、もう一度フレンドリストを見てみる。
まだ、オフラインだ。
今日は高瀬さんに会えて、うれしいと思った。
それなのに今は、Kzさんがいないことが寂しい。
今日の私は、誰かが来るのを、ずっと待っている気がする。
6
今日は、いつもより帰宅が遅くなった。
渋谷での仕事は順調に終わった。
そのあとでラッスルに寄ったのが、いけなかった。
いや、本当に「いけなかった」のか。
自分で無理やり押し込んだ予定なのは、間違いない。
ジャケットを脱ぎながら、昼間のやり取りが頭の中でよみがえる。
「もう帰るんですか?」
「まだ、いてほしいですか?」
「毎日来てください」
宮原さんは、慣れてくるとああいう返しをするタイプだったのか。
どちらにしても、本気に取られては困る。
少なくとも、あの職場では。
それなのに、「毎日来てください」と返した声と、そのときの表情が、妙に残っている。
先週、遅延した電車を待つあいだ、カフェで一時間ほど話したことが、距離を縮めたのだろう。
少し前まで、宮原さんは仕事中ずっと緊張していて、必要なことしか話さない人だった。
でも、今日は違った。
悪くない、と思った。
冷凍庫から冷凍の弁当を取り出して、レンジに入れる。
正直、もう飽きていた。
どれを食べても、同じ味にしか思えない。
スイッチを入れたら、その間に風呂へ入る。
そうでもしないと、容器が熱すぎて、まともに持てない。
作業みたいな一連のルーティンを終えて、PCを起動した。
ゲームにログインすると、すでにるびぃはオンラインだった。
そのことに、なぜかほっとしている自分がいる。
声をかけようとして、カーソルをるびぃに合わせた。
そこで、ふと思う。
昼間は、自分から宮原さんのところへ行った。
夜になれば、今度はるびぃに真っ先に声をかけようとしている。
……今日は、ふたりを気にしすぎているんじゃないか。
これは、どういう感情なんだろう。
初めて会ってから、まだ十日も経っていない人。
そして、二年前から一緒に遊んでいる人。
けれど、顔も名前も声も知らない相手。
考えてみても、答えは出なかった。
結局わからないまま、俺はるびぃにチャットを送った。
Kz:こんばんは
Kz:今日は早いね
るびぃ:そっちが遅い
待ってたのか?俺を?
Kz:待ってた?
るびぃ:別に
Kz:そう
俺も土曜日は待ってた。
待ってたとは言えなかったけど。
るびぃ:忙しかったの?
Kz:そうだね、ちょっとね
Kz:そっちは?
るびぃ:こっちも、ちょっと
るびぃ:新商品が多かったから
Kz:疲れた?
るびぃ:ちょっとだけ
Kz:じゃあ、軽いの行く?
疲れているのに、集中力がいるようなエンドコンテンツに誘うのも違う気がした。
嫌なら断るだろうけど、それでも無理をさせたくはない。
ここ数か月くらいで、俺とるびぃは、同じ時間にオンラインなら、ほとんどいつも一緒にいるようになった。
声をかけるのも、かけられるのも、もう当たり前みたいになっている。
日課にしているコンテンツも、エンドも、シナリオも、一緒に行ったほうが何かと効率がいい。
そう、今日は渋谷の別の会社に訪問することは、前から決まっていた。
だから、ラッスルにも寄った。
ついでだから。
……そうか?
本当に、そうか?
今日の俺は、どうかしている。
いや、今日だけか?
本当に、そうなのか?
るびぃ:今日来ないかと思った
Kz:てことは、やっぱり待ってた?
るびぃ:別に
Kz:二回目
思わず、ふっと笑いが漏れた。
軽いクエストをひとつ終わらせて、るびぃに聞く。
Kz:今日はもう終わる?
るびぃ:もう少しいる
Kz:了解
昼間の宮原さんの「毎日来てください」が、耳の奥でリフレインしている。
夜は夜で、るびぃの「もう少しいる」に、ほっとしている自分がいる。
宮原さんのことを考えながら、画面の中でるびぃの隣を歩いている。
おかしいとは思う。
でも、その意味を考えたくなかった。
紅葉便り 第8話 「彷徨う心」 おわり




