第7話 「交錯する仮想と現実」
1
昨日寝たのは、夜中の一時を過ぎてからだった。
目を開けてスマホを手に取ると、画面には九時半の数字が光っている。
のろのろとベッドから抜け出して、洗濯機のスイッチを押す。
水が流れはじめる音を背中で聞きながら、洗面所で顔を洗った。
タオルで水気を拭き取り、鏡の中の自分をしばらく眺める。
洗面所を出て、キッチンのカウンターに置いたままのデニッシュを思い出す。
昨日買っておいたそれをまな板の上に載せて、包丁で切り分けた。
今日は、特に予定がない。
来週から、またあの会社に通う。
当面の予定といえば、それだけだ。
そう思うと、少しおかしくて笑えてくる。
三週間、なんとなく過ごしてしまったあとで迎えた久しぶりの通勤は、
自分がどこかの一員になれたみたいな感覚を連れてきた。
軽く焼けたパンをオーブントースターから取り出し、マグカップにコーヒーを落とす。
湯気の向こうでパンをちぎりながら、ぼんやりしていると、昨日のことが浮かんできた。
高瀬さんは、仕事のときも仕事以外でも、そんなに変わらない人だった。
軽い感じに見えて、話してみても、やっぱり肩の力が抜けている。
でも、仕事は固い。
あの人は、力を抜こうと思えば、いくらでも抜ける人なのだと思う。
それでも、抜いてはいけないことろでは抜かない。
会社で見ていた姿と、昨日カフェで話した人が、ひとつに繋がった気がした。
結局は、真面目な人なのだと思う。
なんだか、少しおかしくて笑えた。
洗濯物を干せば、もうやることもない。
そう考えていたら、タイミングを計ったように、洗濯機の終了を知らせる電子音が鳴る。
干さないと。
2
いつも通りの時間に目が覚めた。
昨夜、寝たのは一時くらいだったはずだ。
時計は七時を少し回っている。
酒も飲んでいないのに、体の芯がなんとなくだるい。
それでも、土曜日のうちに洗濯機を回しておかないとまずい。
そういえばクリーニング屋に行ってシャツを回収しないと、それもまずい。
ベッドから降りて、部屋をざっと見回す。
掃除もしたほうがいいんだろうなと思う。
思うだけで、なかなか腰は上がらない。
視線がデスクのほうに止まって、そこでようやく思い出した。
ゲームだ。
入室制限、解除しておいてと言われていた。
まだ、設定はかかったままだ。
キッチンに行き、ロールパンを皿に乗せて、コーヒーを淹れる。
片手でマグを持って、もう片手で皿を持って、パソコンデスクの前に座る。
仕事柄、デュアルモニターで画面は広々としている。
一度これに慣れてしまうと、もうモニター一台には戻れない。
電源を入れると、ファンの音とともにPCが立ち上がっていく。
パンを一口かじりながら、何も考えないでログイン画面を待つ。
起動音が鳴る。
マウスを動かして、ゲームのアイコンをクリックした。
俺は、そのままゲームにログインした。
フレンドリストを見てみたが、るびぃはまだオフラインだ。
まずは自宅の入室権限だけ変えるつもりだった。
ログインして、さっさと設定画面を開いて、制限を解除する。
それで終わり、のはずだった。
ところが、改めて自分の家を画面越しに見てみると、イベントでもらった家具や装飾品が、置ける場所にとりあえず突っ込まれているだけだとよく分かった。
統一感はない。
庭にも、使っていない物がいくつか雑に並んでいる。
前に見たるびぃの家は、白い壁と淡い木目の床に、グレーのソファと低いテーブルが置かれていた。
家具は壁沿いにきれいに収まり、部屋の中央には十分に動ける場所が残されている。
本人は「動線を確保しているだけ」と言っていたけれど、マンションのモデルルームみたいに整った部屋だった。
俺の家と比べれば、あれはもう立派な計画性だと思う。
正直、俺は自分の家が散らかっているなんて、これまで一度も思ったことがなかった。
自分が動ければそれでいいし、アイテムも全部見えていれば問題ない、くらいの感覚だった。
けれど、「誰かが見に来るかもしれない」と思った瞬間、途端にいろいろ気になり出す。
テーブルの上に出しっぱなしになっていた小物を、収納用のチェストにしまう。
ばらばらだった椅子の向きをそろえる。
季節の終わったイベント家具をいったん倉庫に送る。
大がかりに模様替えをするわけじゃない。
あくまで、邪魔なものを退けて、視界を整理しただけだ。
一度外へ出て、玄関から入り直してみる。
初めて訪ねるプレイヤーみたいなつもりで、ぐるりと見回す。
……悪くない。
自分の家に対して、そんな感想を口の中でつぶやいて、ちょっと笑った。
そう思ってから、自分が何をしているのかに気づく。
「別に、今日来るとは言ってないだろ」
思わず独り言が漏れて、モニターの前で自分にあきれる。
フレンドリストをもう一度開く。
そこに、るびぃの名前はまだない。
ここでログアウトしてもいい。
ほかにやることはいくらでもある。
洗濯も、掃除も、クリーニング屋も。
それなのに俺は、日課でもしながら、もう少しだけ待つことにする。
討伐対象のモンスターを倒しに行き、報告して戻ってくる。
ついでに集まった素材を整理する。
その流れで、普段は放置している倉庫の中まで手を出し始める。
画面の隅で、ふと手が止まるたびに、またフレンドリストを開いてしまう。
開いては、るびぃの名前がないことを確認する。
昨日、るびぃは「会社の人と駅まで帰った」と言っていた。
沈黙に耐えられる人だった、とも。
その男のことを、深く考えたくはない。
どんな顔で、どんな話し方をして、どんなスーツを着ているのか、想像ができてしまいそうで、わざとそこから目をそらす。
ただ、るびぃが、普段あまり話さない“現実の男性”の話を自分からしたことに、何とも言えない複雑な感情はあった。
会社の話を聞いたから、気になっただけだ。
転職したばかりだから、どんな職場なのか、ちょっと確認しただけ。
自分の中で、そういう適当な理由をいくつか並べてみる。
昼前になって、るびぃがログインした。
フレンドリストの上のほうに、見慣れた名前がぽんと現れる。
反射的に声をかけようとして、カーソルを止めた。
昨夜、俺のほうから「来ていいよ」と言った。
そのために入室制限も解除した。
だから、これ以上こちらから急かす必要はない。
そう思って、チャット欄を閉じる。
何でもない顔をしているつもりで、俺は自宅の庭に立った。
画面の中のキャラクターも、いつも通りのポーズで突っ立っている。
数秒後、画面の端にチャット通知がぽんと出た。
るびぃ:おはよ
るびぃ:家、見に行ってもいい?
思っていたより、ずっとストレートな一言だった。
キーボードに手を乗せて、わざと数秒だけ間を空ける。
急いで返したら、待っていたみたいで格好がつかない。
Kz:どうぞ
短く打ち込んで送信する。
送信音がして、チャット欄に自分の名前が並ぶ。
何でもない返事のはずなのに、送信してから妙に落ち着かなかった。
3
洗濯物を干して、コーヒーを淹れなおした。
マグカップを手に、パソコンの前へ戻って電源を入れる。
モニターの下に表示された時刻は、十時半を少し過ぎていた。
フレンドリストを開くと、Kzさんはもうオンラインになっている。
いつも私より早いことが多いけれど、休みの日でもこんなに早いんだろうか。
前は、あまり気にしていなかった。
私はチャット欄を開いて、
るびぃ:おはよ
るびぃ:家、見に行ってもいい?
と送る。
彼の家は、お菓子でできた街の奥にある住宅村にあった。
番地までは分からないので、続けて送る。
るびぃ:番地がわからない
すると、すぐにパーティ申請が飛んできた。
パーティを組めば、仲間のワープアイテムが使える。
表示された「Kzの家」というアイテムを選ぶと、画面がふっと切り替わって、一瞬で家の前に移動した。
アプローチから庭へ入る。
前に見たときより、ずいぶんすっきりしている気がした。
いや、もともとこうだったのかもしれない。
庭には、Kzさんが立っていた。
るびぃ:意外とキレイ
Kz:意外って何
るびぃ:前は庭がもっと雑だった気がする
Kz:片づけた
るびぃ:いつ?
Kz:今朝
るびぃ:へぇ
Kzさんが家の中に入る。
私もそのあとを追った。
画面の中の家を見ながら、私は思う。
実用性を重視した家なんだろう。
イベントでもらった家具も、置き方は少しばらばらだった。
きちんとしている部分はきちんとしているのに、興味のないところは驚くほどあっさりしている。
全部を整えるタイプではない。
でも、気にする場所はちゃんと気にする。
そんなところが、少し意外で印象に残った。
部屋の奥には、椅子が二脚並んでいた。
窓際まで歩いてから少し迷い、私は椅子のひとつに座った。
Kzさんも、特に何も言わずに隣へ座る。
画面の中の二人は、同じ方向を向いたまま、しばらく黙っていた。
Kz:どう?
Kzさんが先に聞く。
私は家の中を見回して、それから庭のほうに視点を戻した。
るびぃ:思ってたより普通
Kz:褒めてないね
るびぃ:落ち着くってこと
すぐに返すと、Kzさんは少しだけ間を置いた。
Kz:それならいい
その一言が、妙にしっくりきた。
派手な飾りがたくさんあるわけじゃない。
見せるための部屋というより、ちゃんと暮らすための部屋。
そういう静かな感じがした。
窓の外には、ゲームの空がいつも通り広がっている。
私はモニターの前で、隣にいるはずのない相手と並んで座っていることに、不思議な気持ちになった。
でも、不思議なくらい、居心地は悪くなかった。
4
Kzさんの家で少し過ごしたあと、私は庭の隅に目を向けた。
何も置いていない、空白のスペース。
るびぃ:ここ、何置く予定?
Kz:何も
るびぃ:もったいない
Kz:じゃあ何置く?
るびぃ:知らない
Kz:聞いた意味ないな
そう言われて、思わず笑ってしまう。
別に本気で何かを提案したわけじゃない。
ただ、空白があると、つい何か置きたくなるだけだ。
「こういう角のスペースって、ちょっとしたものが映えると思うんだけどな」
そう思って、家具見に行かない?と言ってみた。
Kz:いいけど
興味は薄そうだけど、断るほどではないらしい。
家の外装パーツや小物、家具までまとめて扱う店へ移動した。
そこで、庭に置けそうな小さなランプを見つけた。
これなら、さっきの空いた場所に合うかもしれない。
それを置いたらどうかと思って聞いてみた。
るびぃ:これ庭の隅に置いたら?
Kz:明るさが足りない
るびぃ:雰囲気
Kz:実用性は?
るびぃ:ゼロ
Kz:却下
るびぃ:えー、いいと思うんだけどな
Kz:わかったよ
そう言って、Kzさんはランプを買っていた。
るびぃ:さっき却下したのに
Kz:置いてみないとわからない
家に戻り、庭の隅にランプが置かれた。
夜の庭でほんのり光るランプは可愛らしくもあり、きれいだった。
るびぃ:似合うー
Kz:家に?
るびぃ:あなたに
Kz:それは褒めてる?
るびぃ:たぶん
ログアウトする前にもう一度、庭の隅のランプを見た。
さっきまで何もなかった場所に、小さな明かりが増えている。
私が選んだものが、Kzさんの家に残る。
なんとなく、うれしかった。
紅葉だより 第7話 「交錯する仮想と現実」 おわり




