第6話 「沈黙に耐えられる人」
1
金曜日の夕方、退勤前に机の上を片付けていた。
今日で出勤五日目が終わって、明日からは土日の二連休だ。
「おつかれさま」
背中のほうから津村さんの声がした。
振り返って、思わず苦笑いがこぼれる。
「なんだか、怒涛の五日間って感じでした」
そばにいた三田さんが、丸めたポスターで自分の肩をぽん、とたたきながら言う。
「初週からがっつりあると、長く感じるよね」
「土日はゆっくりして」
私も、なんとか無事に五日間を乗り切れたことにほっとしていた。
まだ定時まで三十分ある。
新入荷の商品を箱から出して、陶器やガラス製のものが包まれていた緩衝材や紙類を片付けていく。
ビニールと紙は、分けるように言われていたので、せっせと分けていたら、自動扉の開閉音がした。
入口近くの大テーブルでの作業だったので、人が入ってきたのはすぐにわかる。
高瀬さんだ。
誰かが呼んだのか、何の用なのかまでは私にはわからない。
大テーブルでの片づけを終えて自分の席に戻ると、高瀬さんは、ふたつ向こうの席のパソコンに向かって何かしていた。
「宮原さん、ECの商品画像は、その後、問題なし?」
画面から目を離さないまま、高瀬さんが尋ねる。
「はい。今のところ問題ないです」
「よかった」
そこでようやく、こちらを見て少し笑った。
「宮原さんは、けっこう細かいところ、よく見てますよね」
ファイル名の数字と商品番号のことだろうか。
数字が半角と全角で混ざっていて、気持ち悪いと話していたあれ。
自分こそ、細かいところをよく覚えているじゃないですか。
そう心の中でつっこみながらも、顔だけはにこにことしていた。
彼は、先日の不具合対応後の確認に来たようだった。
難しい顔もしていないので、その後は問題なく動いているらしい。
「うん、いけてます。このままで大丈夫だと思います」
「ただ、この機種はCPUがちょっと古いからね。他のと比べると、多少遅いのは仕方ないかな」
高瀬さんが、武内さんに説明している。
「なるほど…」
武内さんが、納得したような声でそう答える。
私は、壁の時計と自分のスマホを見比べた。
定時を五分ほど過ぎている。
「くれはさん、もうだいたい終わったよね。上がって大丈夫だよ」
斜め前の席から、津村さんが声をかけてくれる。
「あ、じゃあ、お先に失礼します」
この会社に制服はないけれど、バッグや上着は、奥の小さなロッカーにまとめて入れてある。
津村さんは、キリのいいところまで仕事を続けるつもりらしい。
事務所を出てエレベーターに乗り、一階まで降りる。
自動ドアから外に出たところで、声をかけられた。
「あれ、宮原さん」
振り返ると、高瀬さんが自動ドアを抜けてくるところだった。
「お疲れさまです」
先に声を掛けられた。
「お疲れさまです。もう終わったんですか」
「確認だけだったので」
「高瀬さん、いつも急に来て、急に帰りますよね」
「外部の人間なんで、長居しても邪魔でしょう」
高瀬さんはそう言って、私の隣まで歩いてきた。
駅へ向かう人の流れに押されるように、私たちは同じ方向へ歩き出した。
高瀬さんも駅へ向かうらしい。
会社の中では何度か顔を合わせているのに、どの方向へ帰る人なのかも知らなかった。
「一週間、お疲れ様でした」
その言い方が、さっきまで事務所にいた人と少し違う人みたいに感じられた。
「そうですね。疲れたというか、ほっとしてます」
隣を見上げても、視界に入るのは彼の腕だけだ。
「慣れました?」
「まだまだです」
私は、手を小さく振って続ける。
「今は確認作業ばかりなので」
「そりゃそうでしょう。最初から全部わかってる人のほうが、むしろ怖いですよ」
ふたりで、くすっと笑う。
「やっと『休みだ』って感じです」
「休みの日は、何してるんですか?」
「何も決めてません。洗濯はします」
そう答えると、なぜか高瀬さんが声を立てて笑った。
「高瀬さんは?」
「俺も、たぶんこれといって何もしないと思います」
「たぶん、なんですね」
「予定を立てても、そのとおりにしないので」
「ああ、いいですね。休みの日は、思いつきで動くのも」
「でしょ?」
初めて会ったときに聞いた「九割」という、あの曖昧な答えを思い出す。
仕事の外でも、この人は同じ話し方をするらしい。
話が途切れて、しばらく黙って並んで歩いていても、胸のあたりがきゅうくつにならない人だと思った。
黙っていても、普通に息ができる相手。
「宮原さん、転職してよかったですか」
「まだ、そこまでは…でも、今のほうが楽しいです」
「じゃあ、転職は成功ですね」
「まぁ、そうかも」
駅の中に入ると、改札の前に人がわらわらと集まっていた。
ざわざわした音に、私たちの足音がまぎれていく。
「あれ? なんかあったのかな」
高瀬さんがそう言って、構内の上を見上げる。
私もつられて、同じ方向を見た。
『東横線は、自由が丘駅での信号確認の影響により、運転を見合わせています』
電光掲示板の文字を追って、思わず息が漏れる。
「これ、しばらく動かなそうですね」
高瀬さんが、小さくため息をついた。
「あ、高瀬さんも東横線ですか」
「宮原さんも?」
顔を見合わせる。
この人も、同じ線で帰っているのだと思うと、急に距離が縮まった気がした。
「ここで待つより、どこか入ります?」
高瀬さんが周りを見回しながら言う。
「そうですね。ずっと立ってるのも、なんか疲れますね」
仕事終わりにこんなところで、突っ立っているよりずっといい。
そう思って、うなずいた。
駅構内のカフェに向かって歩き出す。
「宮原さん、家どのあたり?」
「小杉です。武蔵小杉」
「あ、同じ沿線」
「高瀬さんも、東横線なんですか?」
「ああ、同じって言っても、うちは元住吉」
「近い」
「ひと駅だね」
「もっと、遠いところから来てると思ってました」
「どういう印象なんですか、それ」
思わず笑ってしまう。
会社に来る“外部の人”だった高瀬さんが、自分と同じ電車に乗って、同じような街へ帰る人。
考えてみれば、なんてことのない話だ。
3
カフェに入って、座るとちょっとほっとした。
紙コップのコーヒーを飲みながら、とりとめのない話をしていた。
通勤のこと、休みの日、一人暮らしのご飯、この辺の店。
ひと通り話して、ふっと会話が途切れた。
「高瀬さんって、予定立てるタイプですよね」
「立てるだけね。守らないから意味ないけど」
苦笑いする横顔を見て、思わず笑ってしまう。
「私は、洗濯だけは絶対予定に入れます」
「洗濯だけ?」
「しないと死ぬので」
「物騒な理由だなあ」
そんな軽い掛け合いのあと、また静かになる。
高瀬さんの家は、駅から少し歩くらしい。
私は、人の多い武蔵小杉にはもう慣れている。
その差みたいなものが、じわじわ頭の中に浮かぶ。
でも、カフェに入ったのに、無理に話題を探さなくていい。
そう感じている自分に気づいて、少しだけ驚く。
私たちは、会話が止まっても、それぞれスマホを見たり、窓の外を眺めたりする。
沈黙を埋めようとして、むやみに言葉を投げ合ったりはしなかった。
「……人、多いですね」
窓の外を見ながらつぶやくと、
「渋谷ですから。小杉も人多いでしょ?」
「はい。あっちもカオスです」
そんな短い会話が、たまにぽつりと落ちる。
高瀬さんは、沈黙を怖がって質問を連発したりしない。
私も、何か言わなきゃと焦らない。
静かな時間を、同じテーブルでそれぞれ過ごしている感じ。
しばらくして、テーブルの上のスマホが同時に震えた。
画面を見て、思わず声が重なる。
「あ、動いたみたいです」
「俺も今、来た」
運転再開の通知。
顔を見合わせて、少しだけ笑う。
「じゃあ、行きますか」
「はい」
高瀬さんが先に立ち上がって、空になったカップをトレイに戻す。
私もコートを手に取って、その後ろについていく。
扉を押して外に出ると、街の音が一気に戻ってくる。
そのざわめきの中に紛れながら、さっきまでの静かな時間を、胸の奥でそっと反芻した。
電車は混んでいて、もちろん座れなかった。
私たちは、ドアのそばで並んで立つ。
しばらくは、どこにも掴まれないくらいの混雑で、会話をする余裕もない。
自由が丘あたりで、少し人が降りて、ようやく息がしやすくなった。
車内アナウンスが、次の駅を告げる。
武蔵小杉に着くとき、私はバッグの持ち手を握り直した。
「じゃあ、ここで」
顔を上げて言うと、
「うん。お疲れさまでした」
高瀬さんが、いつもの調子で返す。
「お疲れさまでした」
軽く会釈して、人の流れに紛れながらホームへ降りる。
何歩か歩いてから、ふと振り返った。
さっきまで私が立っていたあたりに、高瀬さんの姿が見えた。
電車のドアが閉まり、ゆっくりと動き出す。
ホームに立ったまま、その電車を目で追う。
高瀬さんは、この電車で一駅先まで帰る。
当たり前のことを、ここで初めてちゃんと考える。
会社に来る外部の人だった高瀬さん。
会社に出入りする姿しか知らなかった人が、同じ時間の電車に揺られて、私とそう変わらない街へ帰っていく。
会社の外で会ったことで、急に「生活のある人」に見えた。
テールライトが遠ざかっていく。
私は、いつもの出口に向かって歩きながら、さっきまで隣にあった気配を、そっと手放した。
電車を降りて、駅前のスーパーに寄った。
もう何か作って食べる気力はなくて、今日もお弁当を買うつもりで総菜売り場を見て回る。
ついでに、明日の朝に食べるものも買っておこう。
パンでいいか。
デニッシュブレッド…ちょっと大きいかな。
少し迷ってから、かごに入れた。
甘いものも少し買って帰ろうと思い、お菓子の棚がある通路に入る。
男の子が、どのお菓子にするか真剣な顔で迷っていた。
どこかで見たような子だ、とすぐに思い当たる。
水筒だ。
先日、駅前広場で転がってきた水筒をこの子に渡した。
そのとき、両親がこの子を「マモル」と呼んでいた。
少し離れたところで、マモルくんの両親が待っている。
お母さんと目が合った。
私のことを覚えていたらしく、にこっと笑って会釈される。
私も、小さく笑って会釈を返した。
「まだか?」と、お父さんがマモルくんに声をかけている。
私は、反対側の棚に並んでいる緑色の箱のチョコレートをひとつかごに入れて、そのままレジへ向かった。
4
帰宅して、お弁当を食べた。
洗い物もなく、容器をそのままゴミ箱に捨てるだけだ。
こんな食生活に慣れてしまっていいのだろうかと、少しだけ思う。
けれど、今さら何かを洗う気にはなれなくて、意識はもうお風呂のほうへ向いていた。
お風呂から上がると、今日もやっぱりパソコンデスクの前で髪を拭く。
バスタオルを頭に押し当てたまま、パソコンの電源ボタンを押す。
ファンの回る音が聞こえてきても、まだ髪を拭き続けていた。
髪が半分も乾かないうちに、いつもの起動画面が表示される。
今日もゲームにログインする。
平日は三十分くらいで落ちてしまうこともあるけれど、明日は休みだ。
多少の夜更かしなら、きっと許される。
シナリオとかストーリーと呼ばれる、ゲームの芯になる物語は、先日のボス戦でひと区切りついた。
季節ごとのイベントストーリーも終わらせて、報酬も受け取り済みだ。
今残っているのは、誰かから荷物運びを頼まれて、届けたら終わるような小さな依頼ばかり。
フレンドリストには、ログイン中のフレンドさんが上から順番に並ぶ。
今日も、Kzさんの名前がそこにある。
今夜は、私のほうから声をかけた。
るびぃ:こんばんわ
Kz:こんばんは
Kz:今日は遅いね
るびぃ:仕事帰りに買い物したから
Kz:そうか
Kz:どっか行く?
るびぃ:クエスト?
Kz:いや、別にクエストじゃなくても
るびぃ:景色いいとこ行きましょう
Kz:海? 夕焼け? 星空?
るびぃ:砂漠
オアシスのある砂漠は、夜になると星がきれいだ。
芋虫みたいなモンスターが湧くのが難点だけれど。
Kz:転職して一週間だね
Kz:どうだった?
るびぃ:慣れてはいないけど
るびぃ:居心地は悪くないかも
Kz:前のところより?
るびぃ:うん
るびぃ:彼氏と別れたあと、何か変えたかったのもあるけど
Kz:仕事まで変えなくてもよかったんじゃない?
るびぃ:それだけが理由じゃないよ
Kz:知ってる
るびぃ:なら聞かないで
Kz:確認
遠くの砂地を、緑色の芋虫型モンスターがのそのそと這っていく。
こちらのレベルより低いせいか、気づいてはいるはずなのに、近寄ってくることはなかった。
るびぃ:今日は会社の人と駅まで一緒に帰った
Kz:仲良くなった人?
るびぃ:そこまでじゃない
るびぃ:会社に出入りしてる人
Kz:どんな人?
るびぃ:仕事はきっちりしてる
るびぃ:連絡もマメ
Kz:評価が慎重だな
るびぃ:まだ五日だから
たまに寄ってくる芋虫にエンカウントして、画面が戦闘モードに切り替わる。
少しだけ面倒だけれど、Kzさんが一発殴れば、それで終わる。
Kz:話しやすい人?
るびぃ:うん
るびぃ:沈黙に耐えられる人だった
Kz:それは貴重じゃない?
るびぃ:そうなの?
Kz:気を遣う相手だと、無言になったとき
Kz:何か話題を探したりしない?
るびぃ:そういうことはあるかも
「そうかもね。疲れなかっただけ、マシかもね」
自分でつぶやいてから、チャット欄の文字をもう一度読み返す。
Kz:俺とは?
るびぃ:なにが?
Kz:黙ってても平気?
るびぃ:平気
るびぃ:じゃなかったら、何もない砂漠に来ないでしょ
Kz:芋虫はいる
るびぃ:それはいらない
Kz:砂漠まで来て、会社の人の話してるな
るびぃ:あなたが聞いたんでしょ
Kz:俺だったね
Kz:で、砂漠に来て何する?
るびぃ:何もしません
Kz:潔いな
るびぃ:星を見る
Kz:芋虫も見る
るびぃ:それはいらない
るびぃ:でも、ここの星はきれい
Kz:もうすぐ朝になる
星がひとつずつ見えなくなっていく。
この世界の短い夜が終わって、もう朝になるらしい。
Kz:買い物って何買ったの
るびぃ:お弁当とパンとチョコ
そういえば、チョコレートがあったんだった。
歯磨きをもう一度するのも面倒だから、今日はやめておこう。
Kz:晩飯、弁当?
るびぃ:今日はもう作れなかった
Kz:一週間終わった日くらいいいでしょ
るびぃ:そっちは?
Kz:適当
るびぃ:人のこと言えないじゃん
Kz:言ってない
思わず少し笑った。
しばらくして、話を変えるようにKzさんの文字が浮かんだ。
Kz:そういえば、俺の家来たことある?
るびぃ:庭まで
るびぃ:中は見てない
Kz:入れなかった?
るびぃ:制限かかってた
Kz:解除しとく
るびぃ:今度見に行く
Kz:どうぞ
しばらく、間があいた。
でも、お互いに離籍しているわけではないのは、キャラが動いていたからわかった。
Kz:明日休みでしょ?
Kz:まだいる?
るびぃ:もう少し
Kz:了解
時計の針は、深夜の十二時に近づいていた。
平日よりもずっと長い時間、日課もクエストもエンドコンテンツも何もしないで、ただ砂漠にいた。
それなのに、ログアウトする理由が、なかなか見つからなかった。
紅葉便り 第6話 「沈黙に耐えられる人」 おわり




