第4話 「居場所」
1
出勤三日目。
まだ、自分から話しかけられる相手は、津村さんくらいしかいない。
それでも、会社へ向かう足取りは、初日よりは少し軽くなっていた。
車窓の外を流れていく街並みをぼんやり眺めながら、とりとめのないことを考える。
気を紛らわせるようにゲームへ入ることが増えた日々も、きっと無駄ではなかったのかもしれない。
この数か月、いつもKzさんと一緒に遊んでいる。
昨日は、ずっと勝てなくて放置していたシナリオクエストの、最後の大ボスをやっと倒した。
すごく楽しかったけれど、あれを倒してしまったから、しばらくはまた、いつもの日常と決まったルーティンに戻ることになる。
会社に着くと、オフィスにはまだ数人しかいなかった。
私は「おはようございます」と一通りあいさつしてから、自分の席に向かう。
昨日まで教わったことをメモで確認しながら、始業前の準備を進めていると、ふいに同僚が声をかけてきた。
まだ名前を覚えきれていない、女性社員だった。
「今日は午前中、高瀬さん来ますから」
「そうなんですね」
できるだけ普段通りの声で返す。
何だろう?
別に、会いたいわけじゃない。
なのに、名前を聞いただけで反応してしまった自分に、私は少し戸惑っていた。
しばらくして、入り口のほうで聞き覚えのある声がした。
「おはようございます」
私は、考えるより先に顔を上げていた。
彼は、こちらに向かって歩いてきている。
けれど、私に用があるわけではないことは分かっていた。
それでも、昨日の手順書には本当に助けられたから、きちんとお礼だけは言っておこうと思い、私は椅子から立ち上がる。
「おはようございます」
「あの……昨日の手順書、助かりました」
声をかけると、高瀬さんは思い出したように足を止めた。
「いやいや、自分で対応できるのがいちばんなんで」
そりゃ、そうだよね、と心の中でうなずく。
「すぐに来られるならいいですけど、無理なときもあるだろうから」
「こっちの仕事が止まるほうが、困るでしょう?」
私は少し笑って言う。
「来てもらったほうが早いんじゃないですか」
「毎回来てたら、たぶん嫌になるでしょう」
「高瀬さんがですか?」
「宮原さんたちが」
「そんなことないでしょう」
そんな雑談めいた会話をしていたら、武内さんがこちらに足を向けながら高瀬さんを呼んだ。
「高瀬さん。わざわざ、すみません。こちらです」
呼ばれたほうへ、高瀬さんはふっと向き直り、「どうも」と軽く手を上げた。
私の席から机を二つ挟んだあたりで足を止めると、パソコンを立ち上げた武内さんが、画面をのぞき込みながら言う。
「前からちょっと遅いんですよね」
「でも、毎回じゃないんです」
どうにも説明があいまいだ。
高瀬さんは、握ったこぶしを顎に添え、少し身をかがめる。
「いつ頃からです?」
「何をしているときに遅くなります?」
「仕事してるときです」
「仕事の範囲が、ちょっと広いです」
「ですよねぇ」
「もう少し絞りましょうか」
パソコンに触れるより先に、ひとつずつ状況を聞き出していく。
まるで、診察をしているみたいだった。
「どのくらいの頻度です?」
「頻度……二日に一回くらい?」
「それ、結構な頻度ですね」
「でも、気にならない日もあるんですよ」
「気にならないだけで、遅い日はあるかもしれないですね」
「ああ……」
「確認する項目、増えました」
短くメモを取ってから、また画面に視線を戻す。
私には関係のない話のはずなのに、気づけば考え込む横顔を目で追っていた。
指先がマウスの上で止まり、また動き出す。
そのたびに、胸のあたりが少しそわそわする。
不意に、高瀬さんがこちらを向く。
見ていたことに気づかれたようで、少しだけ気まずい。
私はあわてて視線を自分の画面に戻した。
「昨日、この画面を使ったときはどうでした?」
顔だけそちらへ向け直し、答える。
「少し遅かったです。でも、私が慣れてないせいかと思ってました」
高瀬さんは、また何かをつなぎ合わせているような顔で言う。
「それも、あるかもしれないですけど」
「否定はしないんですね」
思わず口をついて出ると、高瀬さんは少し笑った。
「まだ三日目でしょう。慣れてないのは普通です」
「でも、慣れてない人でも使えるようにしておかないと、仕組みとしてはよくないので」
人に慣れさせるより、先に仕組みを直す人らしい。
そう思うと、なんとなくこの人らしい気がして、私も小さく笑ってしまう。
まだ、二回しか会っていないのに、こんなふうに考えるのも変な話だけれど。
高瀬さんはそのまま椅子を引き寄せて腰を下ろし、マウスとキーボードに手を伸ばした。
画面を切り替えながら、しばらく黙って確認を続けている。
自分の手が遅いせいかもしれないと思って、口に出さずにいた。
けれど、言ってみてよかったのだろう。
彼は私の言葉まで、状況を確かめるための手がかりのように拾い上げていく。
新人だからわからないだろうと、最初から外してしまわない。
その丁寧さが、妙に心に残った。
私には、画面の中で何が起きているのか分からない。
それでも、やがて社員さんと武内さんの表情が、ふっとゆるんだ。
「これで少し使ってみてもらえます?」
促されて、社員さんがマウスを動かす。
「あ、早い」
「さっきよりは」
「直ったんですよね?」
「たぶん」
私は、思わず高瀬さんの横顔を盗み見る。
「今のは九割ですか?」
社員さんが、笑いながら言った。
「八割くらいです」
「下がってるじゃないですか」
「しばらく使わないと分からないので」
軽いやり取りに、周りの空気も少しだけ柔らかくなる。
「高瀬さんがいないと困るね、これは」
武内さんが冗談めかして言うと、高瀬さんは、肩の力を抜いた笑顔を見せた。
「俺がいなくても回るようにならないと、困りますよ」
昨日と同じだ。
高瀬さんは、自分がいなくても困らない形を、当然のような顔で作ろうとしている。
それが、この人の考え方なのだろう。
2
時計は十一時五十分を指していた。
机の上に置いたままのスマホをポケットにしまい、私は周りを見回した。
お昼ご飯を食べるなら、誰かにおすすめの店を教えてもらおうと思っていた。
すると、斜め前の席にいた津村さんが、顔を上げてこちらに声をかけてきた。
「くれはさん、お弁当?」
「いえ。お昼ですか?」
「うん。近くにいいお店あるんですよ」
「安いの」
内緒話みたいな内容なのに、声のボリュームはけっこう大きい。
「あ、じゃあ、一緒にお願いします」
「うちの会社はね、四人以上でランチに行くと、一人につき五百円出るのよ」
「じゃんじゃん利用しないとね」
いたずらっぽく笑う津村さんが、なんだかかわいらしい。
「三人だと出ないんですか?」
「出ない」
「厳密ですね」
「だから人数合わせが大事なの」
津村さんはくるりと振り向いて、少し離れた席に向かって声を飛ばした。
「あと一人、ランチ行く人ー」
「補助金目当てじゃないですか」
「会社の制度は、使うためにあるのよ」
そんなおいしい話、初めて聞いた。
昨日は、いきなり大人数だと気負いしそうだと、私に気をつかってくれていたのかもしれない。
津村さんに案内されて入った店は、ビルとビルのあいだの細い路地の途中にあった。
知っている人だけが知っている、といった雰囲気の、ランチも出す小さな喫茶店だ。
株式会社RUSTLEのオフィスは、繁華街の一角にあるビルの中に入っている。
ひと歩き外に出れば観光客も多くて、どこも混んでいる。
キッチンカーも見かけるけれど、店で食べるのとあまり変わらない値段だ。
いわゆる繁華街価格、というやつだろうか。
ドアを押して店に入ると、ちょうど四人掛けのテーブルが一つだけ空いていた。
私たちは顔を見合わせて、ほっと小さく息をつく。
日替わりランチ、千円。
この場所なら、きっと安いほうなのだろう。
メニューを一通り見終えると、自然とこちらの四人での雑談に切り替わっていった。
「くれはさん、甘いもの平気?」
「はい」
「よかった。津村さん、食後に必ず何か頼むから」
「毎回じゃないですよ」
「週四くらい」
「ほぼ毎回じゃないですか」
軽口が飛ぶたびに、テーブルの上の空気も少しだけ明るくなる。
午後からは、またECサイトの不具合の確認作業だった。
目が疲れてきた頃には、定時も近くなっていた。
お昼休みから戻ったときには、高瀬さんはもういなかった。
帰りの電車で、窓の外に流れていく明かりをぼんやり眺めながら、今日一日を思い返す。
今日は、誰かに話しかけられるのを待っているだけではなかったな、とふと思う。
だからといって、何か大きく変わったわけでもない。
駅を降りれば、ホームに広がるのは、いつもの人混みだ。
改札を抜けて、人の流れにまぎれながら歩く。
仕事が終われば、また一人の部屋へ帰るだけだ。
会社に少しずつ馴染み始めたからといって、生活の全部が、急に明るい色に塗り替わるわけではない。
それでも、今日のことを思い返すと、昨日よりは軽い気がした。
3
夕ご飯は、駅前のハンバーガーショップで軽く済ませた。
以前はもう少し料理もしていた。
最近は、自分でもわかるくらい怠惰だ。
それでも、食べたいものを、食べたい時間に選べる生活は気楽だった。
シャワーを浴び終えると、いつものようにゲームへログインした。
何となくフレンドリストを開く。
Kzさんの名前には、すでにオンラインの印がついていた。
すぐに、チャットが飛んでくる。
Kz:今日は何してる?
るびぃ:倉庫整理
Kz:一番面倒なやつ
るびぃ:アイテム増やしたの誰だと思ってるの
Kz:知らない人
るびぃ:半分くらいKzさんにもらったやつだからね
Kz:じゃあ返して
るびぃ:嫌
ゲーム内では、会社にいるときより、ずっと自然に言葉が出る。
しばらく、別々のことをしながら、途切れ途切れに話す。
やがて、画面の中で新しい文字が打ち込まれた。
Kz:仕事、三日目どうだった?
私は、少しだけ考えてから返す。
るびぃ:お昼、会社の人と食べた
るびぃ:四人で
Kz:それは進歩
るびぃ:子ども扱いしてる?
Kz:初日、昼休みどうしたらいいか分からないって言ってたから
るびぃ:覚えてたんだ
Kz:だいたい覚えてる
るびぃ:飛行機で会いに行ったのに、会ってもらえなかった話も?
Kz:忘れるほうが難しい
るびぃ:私も忘れたい
Kz:無理に忘れなくていいんじゃない?
るびぃ:たまに真面目
Kz:いつも真面目
るびぃ:それはない
Kzさんは、前に私がこぼしたことを覚えている。
驚きはしない。
この数か月、Kzさんが私の何気ない言葉を覚えていることは、別に珍しくはなかった。
ただ、ふと気づく。
会社では今日、「自分の場所」ができた。
ここには、前から私の話を覚えていてくれる人がいる。
そう思うと、安心した。
Kz:新しい会社、前よりはよさそうだね
るびぃ:まだ三日目
Kz:すぐ慣れる
彼のいる街まで飛行機で行き、結局会えないまま帰った夜も、私はこの人と話していた。
あの日を境に、Kzさんと話す時間は、それまでより増えた。
るびぃ:そっちは何してるの
Kz:素材集め
るびぃ:知ってる
Kz:じゃあ、なんで聞いた
Kz:フレンドリストの現在地見たんだろ
るびぃ:見た
るびぃ:何の採集?
Kz:それ聞いてどうする
るびぃ:話してるだけ
Kz:質問が雑
るびぃ:答えも雑
Kz:ちょっと眠い
るびぃ:じゃあ寝たら
Kz:冷たいな
るびぃ:明日も仕事でしょ
Kz:仕事
るびぃ:じゃあ、早く寝て
Kz:おやすみ
るびぃ:おやすみー
フレンドリストから、Kzさんのオンラインの印が消えた。
白い壁と、淡い木目の床。グレーのソファと、低いテーブル。
分譲マンションの広告を真似て作った部屋は、どこを見てもきれいに整っている。
彼が落ちると、急に静かになったような気がした。
倉庫整理も終わり、特に何もすることもない。
私もゲームを終了した。
会社にも、まだ借り物みたいな自分の席がある。
昨日よりは、自分のいる場所が分かる気がした。
紅葉便り 第4話 「居場所」 おわり




