第3話 「こっちは絶対」
1
目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
昨日は、初出勤の緊張と、ECサイトの不具合で慌ただしく一日が終わった気がする。
せっかく早く起きたので、今日は早めに出よう。
服は、何を着ようか迷うことはなかった。
無地のシャツにロングスカート、昨日と同じ薄手のジャケットを羽織る。
鏡の中の自分を一度だけ確かめて、玄関の灯りを消した。
駅までの道は、通勤通学の人でいっぱいだ。
ばらばらの歩幅が、歩道の幅いっぱいに広がって、わらわらと駅へ吸い込まれていく。
この街は、数年前から高層マンションばかりが一気に増えた。
人は増えたのに、駅は昔のままで、ホームも電車もいつも窮屈だ。
まぁ、これは今に始まったことでもない。
会社に着くと、昨日案内された自分の席が、ちゃんとそこにある。
エレベーターの横にある自動販売機でお茶を一本買い、机の上に置く。
ジャケットを椅子の背に掛けて、パソコンの電源を入れた。
受信トレイには、昨日の高瀬さんからのメールが残っている。
昨日のメールを開いて確認していると津村さんが出勤してきた。
「おはようございます」
声をかけると、津村さんは少し驚いたように私を見る。
「おはようございます。くれはさん、早いですね」
「昨日、確認したところが少し気になっちゃって」
「うわー、熱心」
肩の力が抜けたような笑い方をする。
自分でも、今日は説明を追うだけじゃなくて、ちゃんと動きたいと思っていた。
確認すると、直したはずの『グレージュ』が、別のページではまた『ベージュ』になっている。
同じ商品のはずなのに。
そのことを津村さんに伝える。
「他のページはどう?」
「他はまだ見てません」
「同じ商品の別ページも、全部見たほうがいいですよね」
私の問いに、津村さんは素直に頷いた。
「お願いしていい?」
その一言で、なんとなく、自分の担当らしいものがひとつできた気がした。
しばらくパソコンの画面に向かって目を凝らしていると、後ろから津村さんの声が飛んできた。
「そんなに画面にかじりついてたら、目が疲れませんか?」
「近づいてました?」
「ええ、がっつり」
津村さんは、大げさに言って笑った。
手には個包装のお菓子が二つ。
「あ、ありがとうございます」
受け取ると、津村さんは入り口の左側を指さした。
「誰からのか分かんないけど、出張とか帰省のお土産は、あそこにみんな置いていくのよ」
そこには、来客や打ち合わせ、小さな会議にも使われるという、大きなテーブルがある。
十人くらいは座れそうなサイズだ。
「欲しい人がいくつか持っていって、いらない人は取らない。そんな感じ」
「誰が置いていったかわからないんですか?」
「だいたい誰も名乗りませんね」
「お礼は?」
「食べた人が、たぶん心の中で」
「たぶん……」
お菓子の包みを指で破きながら、この部署の温度が少しだけ分かった気がした。
2
午後。
津村さんが、画面から目を離さないまま私を呼んだ。
「くれはさん。昨日と同じようなの、また出てる」
商品ページの画像が一枚だけ表示されていない。
「あ、それ、対応の仕方、昨日の高瀬さんからのメールに書いてありました」
自分のパソコンで、昨日保存したメールを開く。
最初に確認する場所。
次に見る場所。
それでも、直らなかった場合の連絡先。
高瀬さんは、ここにはいない。
それでも、昨日残していった文章だけで、次に困った人が自分たちで直せるようになっていた。
私と津村さんとふたりで、メールを読みながら確認していく。
「ここは合ってます」
「じゃあ、次」
「あ、この設定のチェック外れてますね」
チェックボックスをクリックした。
「あ、出た!」
「出ましたね」
津村さんは、隣で小さく手をたたいていた。
大きな成果を上げたわけでもない。
それでも、自分で対応できたことで、少しだけ前進できた気がした。
高瀬さんの昨日の緩い感じと、几帳面なメールの差がおかしくて、小さくつぶやいた。
「変なところだけ、丁寧」
「なにが?」
津村さんがこちらを向いた。
「いえ。高瀬さんのメールが」
「高瀬さん、メールは丁寧ですよ」
「メールは?」
「机は汚いです」
「…………」
夕方になって、受信トレイに新しいメールが届いた。
差出人は、高瀬一歩。
件名には、昨日の不具合のその後について、とある。
本文は短かった。
昨日の件、その後大丈夫そうですか。
私は返信画面を開く。
問題ありません。
ありがとうございました。
それだけでいいはずなのに、なぜか指が止まる。
おかげさまで。
ご対応いただいた内容を確認し。
現在は問題なく。
そこまで打って、全部消した。
初日に会っただけの外部業者へ、どうしてこんなに丁寧な文章を書こうとしているのだろう。
結局、
問題ありません。
本日も一件、教えていただいた手順で確認できました。
ありがとうございました。
とだけ書いて送信した。
しばらくして返ってきたのは、
了解です。よかったです。
それだけだった。
「……あっさり」
画面の前で、思わず声が漏れる。
でも、不愛想だとは思わなかった。
必要なことだけ返して、そこで終わる。
曖昧に残されるものがないのは、心地いい。
3
二日目の今日は、新しい会社にまた少し馴染めた気がして、帰り道の足取りは昨日より軽かった。
夕ご飯は、今日も買ってきたお弁当で済ませるつもりだ。
さっさとシャワーを浴びて、早めに寝ようと思っていた。
お風呂上がり、パソコンデスクの椅子に腰を下ろし、タオルで髪を拭く。
目の前では、黒い画面のモニターが机の上にどんと居座っている。
電源ボタンを押した。
デスクトップの壁紙がふわりと浮かび上がっても、そのまま髪を拭き続ける。
新しい職場に慣れるまでは、早く寝た方がいい。
そう思ってはいたけれど、ログインせずに一日を終える方が、今は落ち着かなかった。
そして、いつものオンラインゲームにログインした。
このゲームを始めたのは、ずっと前だった。
以前は、気が向いた日に遊ぶだけだった。
彼が転勤してから、夜にログインすることが増えた。
最初は、電話がかかってくるまでの時間を埋めるつもりだった。
スマホばかり見ていても、返事が来るわけではない。
そんな時間を埋めるには、画面の中で走り回っている方がまだよかった。
その電話が減っていくにつれて、ログインする日は増えていった。
彼と別れてからは、ほとんど毎晩だった。
剣や魔法を使い、仲間と一緒にモンスターを倒すゲームだ。
ひとりでも進められるけれど、強い敵に挑むときは、何人かでパーティーを組む。
私のキャラクター名は、るびぃ。
Kzさんとフレンドになったのは、二年ほど前だった。
最初は、人数が足りないときに呼び合う程度。
一年ほど前から、ログイン時間が重なると話すようになった。
ここ、二、三か月は、どちらからともなく声をかけて、ほとんど毎晩一緒に遊んでいる。
接続が完了した途端、フレンドチャットが飛んできた。
Kz:シナリオどこまで行った?
シナリオは、ゲームの物語を順番に進めていくものだ。
るびぃ:バージョン7のラスボスがまだ
今の物語の最後にいる敵で、何度挑んでも勝てずにいた。
Kz:俺はもう終わってる
Kz:今から手伝いで行くけど
Kz:一緒に行く?
るびぃ:何度やっても勝てない
るびぃ:動きのろいけどいい?
Kz:遊びなんだから、楽しかったらいいでしょ
るびぃ:そう? じゃあ、行く
Kz:ヒーラーでお願い
るびぃ:了解
ラスボスのいる部屋までは、一気に移動できる。
Kzさんを含めた四人でパーティーを組み、乗り込むのだ。
るびぃ:こんばんはー
るびぃ:よろしくお願いします
挨拶すると、それぞれに返事が返ってくる。
Kz:じゃあ、行きますかw
部屋に入ると戦闘の曲が流れだし、緊張が走る。
各キャラクターの頭上のHPゲージばかりが気になる。
今、回復しておかないと、あとになるほどモンスターの攻撃力は強くなる。
補助魔法を切らさないようにしながら、前衛へ近づく。
自分のMPも確認し、Kzさんの指示にも応えようと、画面の中を走り回った。
回復魔法や補助魔法を使うたびに、MPが減っていく。
魔法を使うための力で、これがなくなれば回復も蘇生もできない。
とはいえ、相手の攻撃が激しくなってくると、画面の中は一気に騒がしくなる。
パーティーチャットに、きびきびとした指示が飛んだ。
回復も、蘇生も、補助も。
必要な役目が、次々と私に回ってくる。
Kz:MP戻ったら、後衛起こして
「起こす」というのは、蘇生させることだ。
画面の前で、私は思わず声に出す。
「そっちは旅芸人が起こしてよ」
「蘇生も回復もできるんだからさぁ」
画面の前では、文句を垂れ流しながらも、キーボードを打つ手は従順だ。
るびぃ:了解
Kz:るび、そこ範囲来るよ
ボスが大きく腕を振り上げる。
一人ではなく、周囲にいる全員を巻き込む攻撃だ。
慌てて赤く光った床の外側へ逃げる。
「はいはい。分かってますって」
Kz:前衛にバフ!
味方を一時的に強くする補助魔法を、前衛へかけろという意味だ。
「MPやばいんだけどな」
るびぃ:はい
送信ボタンを押してから、少しだけ笑う。
会社ではまだ出せない自分の素が、こっち側では平気で顔を出す。
その温度差が、今はちょうどいい気がした。
各キャラクターの頭上にあるHPゲージが、少しずつ減っていく。
これがなくなれば、そのキャラクターは倒れる。
私は、ひとつ残らず緑色に戻したくて、必死で回復魔法を飛ばしていた。
前衛、後衛、サブヒーラー。
倒れた人が出れば、すぐに蘇生を入れて、補助効果まで全部かけ直そうとする。
そのあいだにも、ボスの範囲攻撃で、一番前に立っている人のHPが急に赤くなった。
「あっ……」
焦ってカーソルを戻したときには、前衛のひとりが床に倒れていた。
ログには、私がさっき起こしたばかりの別のメンバーへの回復と、補助魔法の文字が続いている。
どうにか体勢を立て直したところで、パーティーチャットにKzさんの文字が流れた。
Kz:全員のHP、毎回満タンにしなくて大丈夫だから
Kz:今は前だけ見てて
Kz:補助は余裕できてからで
ぎくりとして、コントローラーを握り直す。
るびぃ:はい
全員じゃなくて、一番危ない人から。
全部を元に戻すより、今落ちそうなところを先に。
kzさんの言葉は、私がうまくできなかった理由を、簡単に言い当てていた。
昨日、高瀬さんに言われたことが、ふいに頭に浮かんだ。
「そこ」は揃えなくてよくて、「こっち」は絶対。
次に全員のHPが削られても、私は満タンに戻そうとする手を止めた。
今は、前だけ。
補助魔法がひとつ切れているのが気になった。
けれど、前衛の回復を優先する。
赤くなりかけたHPが緑へ戻り、前衛はそのまま攻撃を続けた。
私が全部を整えなくても、パーティーは動いている。
昨日の高瀬さんの言葉はよく分からなかった。
けれど、外してはいけない場所を先に見るというのは、こういうことなのかもしれない。
タオルで拭き残した髪の先から、水滴がひとつ、マウスパッドに落ちた。
戦闘は、なんとかぎりぎりのところで終わった。
画面のこちら側で、思わず肩の力が抜ける。
Kz:おつかれさま
Kz:だいぶ動きに慣れてきたね
そう言われて、少しだけほっとする。
Kz:後半よかった
るびぃ:最初ひどかったけどね
Kz:最初はいつも通り
るびぃ:うるさい
Kz:次も勝てる
ボス戦は得意じゃないけど、結構楽しんだ。
明日もたぶん私は、Kzさんと遊ぶ。
紅葉便り 第3話 「こっちは絶対」




