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紅葉便り  作者: mamio
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2/3

第2話 「九割の人」

1


「株式会社ラッスル」への初出勤の朝、私はクローゼットの扉を開けたまま悩んでいた。


ラッスルから届いたメールには、「ネクタイ、ジャケットは必須ではありません」と書かれている。


「ラフすぎなければ、いいってことか」


こういう書き方が、いちばん困る。


オフィスカジュアルが無難だろう。

一昨日洗濯して、アイロンまであてたブラウスは、クローゼットに戻した。


前の職場では、何度も着た。

それだけに、今日着ていく気にはなれなかった。


淡い色のシャツに袖を通し、カーディガンを手に取る。

けれど、帰りは少し冷えるかもしれないと思い直して、結局ジャケットを羽織った。


鏡の前に立つ。


「これで、いいよね」


いいことにする。


宮原紅葉。

株式会社RUSTLE、企画開発部。


今日から。


駅まで歩いて、電車に乗る。


これから通う会社までは、乗り換えなし。

出勤時間も、前の職場より少し遅い。


それだけのことなのに、少しだけ助かった気がした。


三週間ぶりの通勤電車には、朝の匂いがした。

日差しと、誰かの薄い香水と整髪料が混じっている。


スーツ姿の人。

スマホを見ている人。

目を閉じている人。


みんな、これから行く場所がある。


私にも、今日からはある。


そう思ってみたけれど、まだ自分だけが、その流れの外側に立っているような気がした。


株式会社RUSTLEは、小さめのオフィスビルに入っていた。


一階にはカフェ。

会社があるのは三階。


入口の前で一度立ち止まり、ビルを見上げる。


ここで、働くんだ。


採用面接はオンラインだった。

画面越しでしか見たことのなかった総務の人が、入口で私を見つけて手を振った。


「宮原さん、おはようございます」


声は画面で聞いたものと同じだった。

それだけで少し安心した。


案内され、三人の社員を紹介される。


総務の武内さんは、採用面接で私の話をよく聞いてくれた人だった。

見た目は、四十代半ば程、穏やかそうな男性だ。


教育係になる津村さんは、私と同じくらいか、少し年上。

柔らかく笑って、「わからないことは何回でも聞いてください」と言ってくれた。


デザイナーの三田さんは、紹介されている間も、机の上に広げた色見本を気にしている。

メガネをかけた、長髪を後ろでひとまとめにしている。


私は前で両手を揃え、頭を下げた。


「本日からお世話になります。宮原です」


名札を見た武内さんが、確認するように言った。


「くれはさん、で合ってますよね」


「はい。紅葉と書いて、くれはです」


自分の名前を名乗る声が、思ったよりもしっかり響いた。


それでも、手のひらは汗ばんでいた。




説明を受けながら、私はメモを取った。


ファイルの場所。

商品の呼び方。

よく使う連絡先。


言われた順に全部書こうとして、すぐに追いつかなくなる。


「えっと、さっきのフォルダは……」


頭の中で巻き戻そうとしたときには、話が次へ進んでいた。


「そこまで全部書かなくても大丈夫ですよ」


津村さんが、少し笑いながら言った。


「でも、忘れたら困るので」


口にしてから、自分でも融通の利かない返事だと思った。


聞き返して迷惑をかけるくらいなら、書いておいた方がいい。

曖昧なまま頷いて、あとから困る方が怖かった。


けれど、津村さんは嫌な顔をしなかった。


「じゃあ、一回ここで止めましょうか。今のうちに書いてください」


「あ、すみません」


「謝らなくて大丈夫です。私も初日は何が何だかわからなかったので」


急かされないことに、少し戸惑う。


私はメモ帳に書き足してから、顔を上げた。


「大丈夫です」


「はい。じゃあ、続けますね」


その確認が、ありがたかった。


2


午前中は、会社の中を案内されただけで、ほとんど終わった。


自分の机。

休憩室。

給湯室。

共有で使う棚。


特別変わったものはない。


それでも、自分の名前が貼られた引き出しを見たときだけは、少し不思議な気持ちになった。



昼になると、津村さんが財布を手にして振り返った。


「宮原さん、お昼どうします? 外へ行くなら一緒に行きますけど」


「いいんですか?」


「初日に一人も落ち着かないでしょう」


その言い方に、私は小さく笑った。


一階のカフェは、予想していた通り混んでいた。

少し歩いた先の店で、津村さんと二人で昼食を取ることになった。


「面接のとき、武内さんが喜んでましたよ」


「何をですか?」


「宮原さん、細かいところまで確認してくれるって」


「それ、褒められてます?」


「たぶん」


津村さんが笑う。


その「たぶん」は、嫌ではなかった。


「細かい人、必要なんですよ。うちは結構、勢いで進める人が多いので」


「勢い……」


「悪く言えば、ちょっと雑です」


「大丈夫なんですか、それ」


思わず聞き返すと、津村さんがまた笑った。


「今の顔、面接のときにもしてました」


「そんな顔してました?」


「本当に大丈夫ですか、って顔」


否定できなかった。


食事をしながら、社内の人の話を聞いた。

誰がよくお菓子を配るとか、誰が午後になるとコーヒーを買いに行くとか。


仕事の説明より、そちらの方が頭に入りやすかった。


会社へ戻る頃には、朝より少しだけ、肩の力が抜けていた。



午後、最初に渡されたのは、商品ページと紙の資料を見比べる作業だった。


画面に並んだ文字と、机の上の資料を順番に追う。


紙では「グレージュ」。

画面では「ベージュ」。


別の商品では、サイズの縦と横が逆になっている。


初日から指摘していいのか迷った。


私の見間違いかもしれない。

細かすぎると思われるかもしれない。


それでも、気づいたものを黙っている方が落ち着かなかった。


「津村さん、この部分なんですけど……」


画面を見せると、津村さんはすぐに頷いた。


「あ、本当だ。ありがとう。助かった」


あまりにあっさり言われて、拍子抜けした。


「細かすぎませんか?」


「間違ってるものは、細かくても間違ってますから」


そう言いながら、津村さんは修正箇所を書き留める。


前の仕事を辞めたことが正しかったとは、まだ思えない。


それでも、ここでは私の細かさが、邪魔ではないのかもしれなかった。



しばらくすると、近くの席から困ったような声が上がった。


「画像、出てない」


「こっちも反映されてないです」


数人が同じ画面を覗き込み、社内の空気が少しざわつく。


私は何が起きているのかわからないまま、みんなの顔を見比べた。


「高瀬さんに連絡した?」


「さっきしました。もうすぐ来てくれると思います」


高瀬さん。


社内の人だろうか。


名前を聞いても、私の記憶には何も引っかからなかった。


それから十分も経たないうちに、ひとりの男性が入ってきた。


シャツに細身のパンツ。

ジャケットは着ずに、腕にかけている。


背が高い。


たぶん、百八十センチくらい。


けれど姿勢が柔らかいせいか、大きさで圧をかけてくる感じはなかった。


「お疲れさまです。どこが出てません?」


挨拶より先に、問題の画面へ視線を向ける。


津村さんが、私を手で示した。


「今日から入った宮原さん」


「あ、初日でしたか」


男性がこちらを向いた。


「高瀬です。よろしくお願いします」


「あ、宮原です。よろしくお願いします」


にこやかに笑ったかと思うと、すぐに鞄を床へ置き、シャツの袖を軽くまくった。


そのまま画面を覗き込んで言う。


「ああ、たぶんこれですね」


たぶん。


胸のどこかが、小さく反応した。


高瀬さんは画面をいくつか切り替え、もう一度言った。


「たぶん、すぐ直ります」


我慢できず、口を挟んだ。


「……たぶん、ですか」


高瀬さんが顔を上げる。


一瞬、周りが静かになったような気がした。


初対面で何を言っているんだろう、私は。


けれど、高瀬さんは気を悪くした様子もなく、少し考えてから答えた。


「じゃあ、九割くらいです」


「九割」


「十割って言って外れたら、俺が嘘つきになるんで」


「ああ……」


「世の中に絶対はないですけど、今見た範囲では九割」


言い直してくれた。


どうして九割なのか。

何がまだわからないのか。


それを曖昧にせず、ちゃんと言葉にした。


私としては、それでも九割九分九厘くらいを目指してほしい。


けれど、「たぶん」と笑って誤魔化されるよりは、ずっとよかった。



3


高瀬さんは空いている椅子に座り、作業を始めた。


ブラウザには、細くなったタブがいくつも並んでいる。

床に置いた鞄から出したケーブルは、少し絡まっていた。


机の端にあった紙へ、何かを走り書きする。


見た目だけなら、きっちりした人には見えない。


本当に大丈夫なのだろうか。


けれど、手元は止まらなかった。


「これ、いつからですか」


「最後に触ったのは誰でした?」


必要なことだけを聞き、順番に確認していく。


ひとつ確かめるたびに、わからない部分が減っていく。

さっきまで困っていた人たちも、少しずつ自分の席へ戻り始めた。


「原因、ひとつとは限らないんで」


そう言いながら、高瀬さんは決めつけずに画面を見ている。


軽い口調とは違って、手元には迷いがなかった。


九割。


その数字を、もう一度思い出した。


「宮原さん、ちょっといいですか」


不意に呼ばれて、高瀬さんの横へ行く。


「この一覧と、こっちの商品ページ。商品番号が合ってるかだけ見てもらえます?」


「商品番号だけですか?」


「はい。そこだけで大丈夫です」


ふたつの画面を見比べる。


商品番号を追っていると、ファイル名の数字に全角と半角が混じっていることにも気づいた。

並び方も、ひとつだけ違っている。


気になって直そうとすると、高瀬さんが画面を見て言った。


「あ、それは揃えなくて大丈夫です」


「でも、あとで分かりにくくなりませんか?」


「見た目は少し気持ち悪いですけど、今の表示には関係ないので」


気持ち悪いとは思うんだ。


「こっちの商品番号は絶対合わせてください。違う商品が出るので」


高瀬さんの指が、一覧の一か所を示す。


「そこ」は揃えなくてよくて、「こっち」は絶対。


全部を同じように整えるのではなく、外してはいけない場所だけを見ている。


私にはまだ、その境目がよく分からなかった。


確認を終えて自分の席へ戻ろうとすると、高瀬さんがこちらを見た。


「宮原さん」


「はい」


「さっきの、気になりました?」


「何がですか?」


「たぶん、って言ったの」


「はい」


聞かれると思わなかった。


「少しだけ」


「少しだけの顔ではなかったですけど」


「そんな顔をしてました?」


「本当に大丈夫ですか、って顔」


昼にも同じことを言われた。


どうやら私は、自分で思っている以上に、顔へ出るらしい。


「曖昧なまま進めて、あとで違ったら困るので」


そう言うと、高瀬さんは笑わなかった。


「そうですね」


あっさり頷いた。


「でも、わからない段階で十割って言う方が危ないですよ」


「それは、そうですけど」


「だから、今は九割です」


「残りの一割は?」


「まだ確認してないところ」


すぐに答えが返ってきた。


「そこを確認したら?」


「九割八分くらい」


「十割にはならないんですね」


「俺、慎重なんで」


机の上の紙切れと、絡まったケーブルを見る。


私の視線に気づいたのか、高瀬さんもそちらを見た。


「そこは、あんまり見ないでください」


思わず、少し笑ってしまった。


しばらくして、不具合は直った。


「一回、そちらでも確認してもらえます?」


高瀬さんは、自分で直した画面をそのまま閉じず、担当していた人へ向けた。


何人かで確認して、ようやく空気が落ち着く。


「念のため、夕方もう一回見ます」


高瀬さんはそう言って、席を立った。


約束というほどでもない、軽いひと言だった。


どれくらい守られるものなのかは、まだわからない。


夕方。


初日の緊張と、覚えきれないことの多さで、頭が重くなり始めた頃。


パソコンに新着メールの通知が出た。


差出人は、高瀬一歩。


件名には、「本日の商品ページ不具合について」と書かれている。


開いてみると、今日起きたことと、今の状態、また同じことが起きたときの連絡先が、短く書かれていた。


難しい言葉はほとんどない。

私でも、どこを見ればいいのかわかる。


九割と言っていた人のメールは、思っていたよりずっと十割に近かった。


だからといって、信用したわけではない。


ただ、適当そうに見えるのに、変なところだけ丁寧な人だと思った。


私はそのメールを保存する。


そのとき、津村さんが隣から声をかけた。


「宮原さん、初日どうでした?」


「まだ、よくわかりません」


正直に答えると、津村さんが笑った。


「それで普通です」


曖昧な返事なのに、不思議と嫌ではなかった。


わからないことを、わからないと言ってもいい場所なのかもしれない。


初めての出勤の日が、ようやく終わる。


覚えることは、まだ山ほどある。


高瀬さんが本当に九割の人なのかも、まだわからない。


ただ、明日ここへ来ることは、朝より少しだけ怖くなくなっていた。




紅葉便り 第2話 「九割の人」 おわり



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