第2話 「九割の人」
1
「株式会社ラッスル」への初出勤の朝、私はクローゼットの扉を開けたまま悩んでいた。
ラッスルから届いたメールには、「ネクタイ、ジャケットは必須ではありません」と書かれている。
「ラフすぎなければ、いいってことか」
こういう書き方が、いちばん困る。
オフィスカジュアルが無難だろう。
一昨日洗濯して、アイロンまであてたブラウスは、クローゼットに戻した。
前の職場では、何度も着た。
それだけに、今日着ていく気にはなれなかった。
淡い色のシャツに袖を通し、カーディガンを手に取る。
けれど、帰りは少し冷えるかもしれないと思い直して、結局ジャケットを羽織った。
鏡の前に立つ。
「これで、いいよね」
いいことにする。
宮原紅葉。
株式会社RUSTLE、企画開発部。
今日から。
駅まで歩いて、電車に乗る。
これから通う会社までは、乗り換えなし。
出勤時間も、前の職場より少し遅い。
それだけのことなのに、少しだけ助かった気がした。
三週間ぶりの通勤電車には、朝の匂いがした。
日差しと、誰かの薄い香水と整髪料が混じっている。
スーツ姿の人。
スマホを見ている人。
目を閉じている人。
みんな、これから行く場所がある。
私にも、今日からはある。
そう思ってみたけれど、まだ自分だけが、その流れの外側に立っているような気がした。
株式会社RUSTLEは、小さめのオフィスビルに入っていた。
一階にはカフェ。
会社があるのは三階。
入口の前で一度立ち止まり、ビルを見上げる。
ここで、働くんだ。
採用面接はオンラインだった。
画面越しでしか見たことのなかった総務の人が、入口で私を見つけて手を振った。
「宮原さん、おはようございます」
声は画面で聞いたものと同じだった。
それだけで少し安心した。
案内され、三人の社員を紹介される。
総務の武内さんは、採用面接で私の話をよく聞いてくれた人だった。
見た目は、四十代半ば程、穏やかそうな男性だ。
教育係になる津村さんは、私と同じくらいか、少し年上。
柔らかく笑って、「わからないことは何回でも聞いてください」と言ってくれた。
デザイナーの三田さんは、紹介されている間も、机の上に広げた色見本を気にしている。
メガネをかけた、長髪を後ろでひとまとめにしている。
私は前で両手を揃え、頭を下げた。
「本日からお世話になります。宮原です」
名札を見た武内さんが、確認するように言った。
「くれはさん、で合ってますよね」
「はい。紅葉と書いて、くれはです」
自分の名前を名乗る声が、思ったよりもしっかり響いた。
それでも、手のひらは汗ばんでいた。
説明を受けながら、私はメモを取った。
ファイルの場所。
商品の呼び方。
よく使う連絡先。
言われた順に全部書こうとして、すぐに追いつかなくなる。
「えっと、さっきのフォルダは……」
頭の中で巻き戻そうとしたときには、話が次へ進んでいた。
「そこまで全部書かなくても大丈夫ですよ」
津村さんが、少し笑いながら言った。
「でも、忘れたら困るので」
口にしてから、自分でも融通の利かない返事だと思った。
聞き返して迷惑をかけるくらいなら、書いておいた方がいい。
曖昧なまま頷いて、あとから困る方が怖かった。
けれど、津村さんは嫌な顔をしなかった。
「じゃあ、一回ここで止めましょうか。今のうちに書いてください」
「あ、すみません」
「謝らなくて大丈夫です。私も初日は何が何だかわからなかったので」
急かされないことに、少し戸惑う。
私はメモ帳に書き足してから、顔を上げた。
「大丈夫です」
「はい。じゃあ、続けますね」
その確認が、ありがたかった。
2
午前中は、会社の中を案内されただけで、ほとんど終わった。
自分の机。
休憩室。
給湯室。
共有で使う棚。
特別変わったものはない。
それでも、自分の名前が貼られた引き出しを見たときだけは、少し不思議な気持ちになった。
昼になると、津村さんが財布を手にして振り返った。
「宮原さん、お昼どうします? 外へ行くなら一緒に行きますけど」
「いいんですか?」
「初日に一人も落ち着かないでしょう」
その言い方に、私は小さく笑った。
一階のカフェは、予想していた通り混んでいた。
少し歩いた先の店で、津村さんと二人で昼食を取ることになった。
「面接のとき、武内さんが喜んでましたよ」
「何をですか?」
「宮原さん、細かいところまで確認してくれるって」
「それ、褒められてます?」
「たぶん」
津村さんが笑う。
その「たぶん」は、嫌ではなかった。
「細かい人、必要なんですよ。うちは結構、勢いで進める人が多いので」
「勢い……」
「悪く言えば、ちょっと雑です」
「大丈夫なんですか、それ」
思わず聞き返すと、津村さんがまた笑った。
「今の顔、面接のときにもしてました」
「そんな顔してました?」
「本当に大丈夫ですか、って顔」
否定できなかった。
食事をしながら、社内の人の話を聞いた。
誰がよくお菓子を配るとか、誰が午後になるとコーヒーを買いに行くとか。
仕事の説明より、そちらの方が頭に入りやすかった。
会社へ戻る頃には、朝より少しだけ、肩の力が抜けていた。
午後、最初に渡されたのは、商品ページと紙の資料を見比べる作業だった。
画面に並んだ文字と、机の上の資料を順番に追う。
紙では「グレージュ」。
画面では「ベージュ」。
別の商品では、サイズの縦と横が逆になっている。
初日から指摘していいのか迷った。
私の見間違いかもしれない。
細かすぎると思われるかもしれない。
それでも、気づいたものを黙っている方が落ち着かなかった。
「津村さん、この部分なんですけど……」
画面を見せると、津村さんはすぐに頷いた。
「あ、本当だ。ありがとう。助かった」
あまりにあっさり言われて、拍子抜けした。
「細かすぎませんか?」
「間違ってるものは、細かくても間違ってますから」
そう言いながら、津村さんは修正箇所を書き留める。
前の仕事を辞めたことが正しかったとは、まだ思えない。
それでも、ここでは私の細かさが、邪魔ではないのかもしれなかった。
しばらくすると、近くの席から困ったような声が上がった。
「画像、出てない」
「こっちも反映されてないです」
数人が同じ画面を覗き込み、社内の空気が少しざわつく。
私は何が起きているのかわからないまま、みんなの顔を見比べた。
「高瀬さんに連絡した?」
「さっきしました。もうすぐ来てくれると思います」
高瀬さん。
社内の人だろうか。
名前を聞いても、私の記憶には何も引っかからなかった。
それから十分も経たないうちに、ひとりの男性が入ってきた。
シャツに細身のパンツ。
ジャケットは着ずに、腕にかけている。
背が高い。
たぶん、百八十センチくらい。
けれど姿勢が柔らかいせいか、大きさで圧をかけてくる感じはなかった。
「お疲れさまです。どこが出てません?」
挨拶より先に、問題の画面へ視線を向ける。
津村さんが、私を手で示した。
「今日から入った宮原さん」
「あ、初日でしたか」
男性がこちらを向いた。
「高瀬です。よろしくお願いします」
「あ、宮原です。よろしくお願いします」
にこやかに笑ったかと思うと、すぐに鞄を床へ置き、シャツの袖を軽くまくった。
そのまま画面を覗き込んで言う。
「ああ、たぶんこれですね」
たぶん。
胸のどこかが、小さく反応した。
高瀬さんは画面をいくつか切り替え、もう一度言った。
「たぶん、すぐ直ります」
我慢できず、口を挟んだ。
「……たぶん、ですか」
高瀬さんが顔を上げる。
一瞬、周りが静かになったような気がした。
初対面で何を言っているんだろう、私は。
けれど、高瀬さんは気を悪くした様子もなく、少し考えてから答えた。
「じゃあ、九割くらいです」
「九割」
「十割って言って外れたら、俺が嘘つきになるんで」
「ああ……」
「世の中に絶対はないですけど、今見た範囲では九割」
言い直してくれた。
どうして九割なのか。
何がまだわからないのか。
それを曖昧にせず、ちゃんと言葉にした。
私としては、それでも九割九分九厘くらいを目指してほしい。
けれど、「たぶん」と笑って誤魔化されるよりは、ずっとよかった。
3
高瀬さんは空いている椅子に座り、作業を始めた。
ブラウザには、細くなったタブがいくつも並んでいる。
床に置いた鞄から出したケーブルは、少し絡まっていた。
机の端にあった紙へ、何かを走り書きする。
見た目だけなら、きっちりした人には見えない。
本当に大丈夫なのだろうか。
けれど、手元は止まらなかった。
「これ、いつからですか」
「最後に触ったのは誰でした?」
必要なことだけを聞き、順番に確認していく。
ひとつ確かめるたびに、わからない部分が減っていく。
さっきまで困っていた人たちも、少しずつ自分の席へ戻り始めた。
「原因、ひとつとは限らないんで」
そう言いながら、高瀬さんは決めつけずに画面を見ている。
軽い口調とは違って、手元には迷いがなかった。
九割。
その数字を、もう一度思い出した。
「宮原さん、ちょっといいですか」
不意に呼ばれて、高瀬さんの横へ行く。
「この一覧と、こっちの商品ページ。商品番号が合ってるかだけ見てもらえます?」
「商品番号だけですか?」
「はい。そこだけで大丈夫です」
ふたつの画面を見比べる。
商品番号を追っていると、ファイル名の数字に全角と半角が混じっていることにも気づいた。
並び方も、ひとつだけ違っている。
気になって直そうとすると、高瀬さんが画面を見て言った。
「あ、それは揃えなくて大丈夫です」
「でも、あとで分かりにくくなりませんか?」
「見た目は少し気持ち悪いですけど、今の表示には関係ないので」
気持ち悪いとは思うんだ。
「こっちの商品番号は絶対合わせてください。違う商品が出るので」
高瀬さんの指が、一覧の一か所を示す。
「そこ」は揃えなくてよくて、「こっち」は絶対。
全部を同じように整えるのではなく、外してはいけない場所だけを見ている。
私にはまだ、その境目がよく分からなかった。
確認を終えて自分の席へ戻ろうとすると、高瀬さんがこちらを見た。
「宮原さん」
「はい」
「さっきの、気になりました?」
「何がですか?」
「たぶん、って言ったの」
「はい」
聞かれると思わなかった。
「少しだけ」
「少しだけの顔ではなかったですけど」
「そんな顔をしてました?」
「本当に大丈夫ですか、って顔」
昼にも同じことを言われた。
どうやら私は、自分で思っている以上に、顔へ出るらしい。
「曖昧なまま進めて、あとで違ったら困るので」
そう言うと、高瀬さんは笑わなかった。
「そうですね」
あっさり頷いた。
「でも、わからない段階で十割って言う方が危ないですよ」
「それは、そうですけど」
「だから、今は九割です」
「残りの一割は?」
「まだ確認してないところ」
すぐに答えが返ってきた。
「そこを確認したら?」
「九割八分くらい」
「十割にはならないんですね」
「俺、慎重なんで」
机の上の紙切れと、絡まったケーブルを見る。
私の視線に気づいたのか、高瀬さんもそちらを見た。
「そこは、あんまり見ないでください」
思わず、少し笑ってしまった。
しばらくして、不具合は直った。
「一回、そちらでも確認してもらえます?」
高瀬さんは、自分で直した画面をそのまま閉じず、担当していた人へ向けた。
何人かで確認して、ようやく空気が落ち着く。
「念のため、夕方もう一回見ます」
高瀬さんはそう言って、席を立った。
約束というほどでもない、軽いひと言だった。
どれくらい守られるものなのかは、まだわからない。
夕方。
初日の緊張と、覚えきれないことの多さで、頭が重くなり始めた頃。
パソコンに新着メールの通知が出た。
差出人は、高瀬一歩。
件名には、「本日の商品ページ不具合について」と書かれている。
開いてみると、今日起きたことと、今の状態、また同じことが起きたときの連絡先が、短く書かれていた。
難しい言葉はほとんどない。
私でも、どこを見ればいいのかわかる。
九割と言っていた人のメールは、思っていたよりずっと十割に近かった。
だからといって、信用したわけではない。
ただ、適当そうに見えるのに、変なところだけ丁寧な人だと思った。
私はそのメールを保存する。
そのとき、津村さんが隣から声をかけた。
「宮原さん、初日どうでした?」
「まだ、よくわかりません」
正直に答えると、津村さんが笑った。
「それで普通です」
曖昧な返事なのに、不思議と嫌ではなかった。
わからないことを、わからないと言ってもいい場所なのかもしれない。
初めての出勤の日が、ようやく終わる。
覚えることは、まだ山ほどある。
高瀬さんが本当に九割の人なのかも、まだわからない。
ただ、明日ここへ来ることは、朝より少しだけ怖くなくなっていた。
紅葉便り 第2話 「九割の人」 おわり




