第1話 「宙ぶらりんの一日」
新しい物語を始めます。
『ひより日和』と同じ世界の、少し離れた場所で暮らす人のお話です。
前作を知らなくても、単独でお読みいただけます。
なくした未来のあとで、もう一度、人を信じるまで。
宮原紅葉の秋を、ゆっくり見守っていただければ幸いです。
1
目が覚めた。
でも、もう前の職場へは行かなくていい。
会社を辞めて、就職活動を始めて、案外早く次が決まった。
採用の連絡をもらってから、初出勤まで、3週間。
その時間も、残すところあと三日になった。
私は、かなり怠惰に過ごしたと思う。
無職、というには次の行き先がある。
休み、というには戻る場所がない。
私はそのどちらでもない朝に、ひとりで起きた。
ベッドから起き上がって、洗濯機を回す。
カラカラという音が、なんだか心細い。
「……ほんとに、行かなくていいんだよね」
声に出してみても、返事はない。
代わりに、ベランダの外で電車の音が走り去った。
コーヒーを入れる。
マグカップに湯気が立つのを見つめながら、
テーブルの上のスマホを手に取る。
新しい会社からのメールを、もう一回開く。
宛名には、宮原紅葉様、と書かれている。
紅葉と書いて、くれは。
初対面では、たいてい一度聞き返される。
初出勤日。
持ち物。
出社時間。
担当者名。
ちゃんと書いてある。
なのに、自分がそこへ行く実感がない。
「株式会社RUSTLE・企画開発部……ラッスル…かあ」
口に出してみても、知らない会社のCMを読んでいるみたいだ。
テーブルの端には、前の職場で使っていた黒いボールペンが一本、転がっていた。
返すほどのものではなく、捨てるほどでもない。
そういうものばかりが、部屋に少しずつ残っている。
私は、コーヒーを一口飲む。
少しぬるくなっていて、今の自分みたいだと思う。
「とりあえず、今日は洗濯物、ちゃんと干そう」
小さくつぶやいて、カーテンを開ける。
宙ぶらりんの日の朝が、静かに始まっていく。
こういう、どこにも所属していない自分はいつが最後だったのか。
いや、なかったのかもしれない。
これまでの仕事を守ったつもりだった。
でも、結局やめてしまった。
この三週間、眠って、ゲームにログインして、それだけで日が過ぎた気がする。
2
ベランダに出る。
朝の空気が、まだ少し冷たい。
特別な一日ってわざわざ宣言しなくても、洗濯物はいつも通りだ。
タオル。
部屋着。
仕事用だったブラウス。
ハンガーにブラウスを通しながら、少しだけ指が止まる。
「……もう、前の会社には着ていかないんだよね、これ」
ただ風に揺れて、いつもの平日みたいな顔をしている。
「次の会社には、たぶん合わないよね」
そうつぶやいて、強めにパチンと洗濯ばさみを留める。
空に向かってぶらさがるブラウスは、もうどこにも行き先がない。
私はベランダの手すりにもたれて、大きく息を吐いた。
宙ぶらりんのままの私と、宙ぶらりんになった服が、並んで揺れている。
洗濯物を干したら、やることがなくなる。
部屋は、片づいていないわけではない。
でも、ここにいると、前の仕事と元彼の残骸が目に入る。
机の端の社員証のストラップ。
クローゼットの隅に押し込んだ紙袋。
一度だけふたりで行ったライブのチケット半券。
見たくないものほど、視界の端で主張してくる。
けれど、見ないようにしている時点で、私の中にはまだ残っている。
それで。
外に出よう、と決める。
用事はない。
けれど、部屋にいる理由も、もうなかった。
私はスマホと財布だけバッグに放り込んで、
玄関のドアノブに手をかけた。
駅前まで行ってみようか、とふと思う。
目的地のない散歩も、今日はそれでいい。
アパートを出て、私は駅の方角へ歩き出す。
コンビニの前を通り過ぎると、宅配便のトラックが止まっていて、
作業服の人が段ボールを台車に積んでいる。
小さなパン屋からは、焼きたての匂いが流れてくる。
道の前方に見えるのは、お年寄りとベビーカーを押す人たち。
平日の午前中の街は、静かだけれど、ちゃんと動いている。
私は、もう会社員の時間から外れている。
通勤時間でも、昼休みでもない時間に、外を歩いている。
平日の午前中に、こんなふうに歩いたことがあっただろうか。
会社を休んだ日でさえ、どこか後ろめたかった。
今日は、後ろめたくなる会社もない。
そう思ったら、胸のどこかが、ふっと軽くなった気がした。
駅前広場を横切るように歩いていたら、ベンチのそばで、小さな水筒がころんと転がった。
拾い上げると、少し離れたところに男の子が立っていた。
三歳くらいだろうか。
落としたことに気づいているのに、知らない大人に声をかけられて、どうしていいのか分からない顔をしている。
「落としましたよ」
そう言うと、男の子は目を丸くしたまま固まった。
その肩をかばうように、若い女の人が駆け寄ってくる。
「すみません。ありがとうございます」
深く頭を下げたあと、その人はふわりと笑った。
秋の光を受けたみたいな笑い方だった。
まぶしい、と思った。
「ほら、まもる。ありがとうは?」
女の人が男の子の背に手を添える。
怒るでもなく、急かすでもなく、ただ少しだけ前へ出してやるような手だった。
男の子は、小さく口を開いた。
「ありがと」
「どういたしまして」
そう返すと、男の子は安心したように母親の横へ戻っていった。
少し離れたところに、背の高い男の人が立っていた。
大きな声を出すわけでも、慌てて駆け寄るわけでもない。
ただ、戻ってきた男の子の頭に手を置いて、女の人から水筒を受け取った。
それから、ごく自然に、彼女の持っていた買い物袋も片方持つ。
あまりにも当たり前の動きだった。
受け取る方も、渡す方も、そこに言葉はいらないみたいだった。
三人は、何事もなかったように歩き出す。
男の子が父親の手を握って、母親がその少し横を歩く。
三人分の影が、駅前広場の石畳に並んで伸びていた。
いい家族だな、と思った。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅうと痛んだ。
三人の背中が、駅前広場の向こうへ小さくなっていく。
あまりにきれいな絵のように感じて、私は目をそらした。
私も、ああなるはずだった。
三人の姿が人波の向こうへ消えても、私はしばらくその場を動けなかった。
七年あった。
二十歳から、二十七歳まで。
そのうちの最後の一年は、画面越しの声と、短いメッセージばかりだった。
3
一年前。
彼に転勤の辞令が出た。
その知らせは、突然のLINEだった。
画面に並んだ短い文章を、何度も読み返した。
最初に浮かんだ気持ちは、不安だった。
これからどうなるのか。
私はどうするべきなのか。
考えれば考えるほど、答えは遠のいていった。
でも、七年、一緒にやってきた。
ケンカもしたし、旅行にも行った。
価値観はだいたい似ていて、何より彼は優しかった。
大学時代の同級生。
二十歳のとき、友達の友達として知り合って、気づけば付き合うようになっていた。
不満といえば、自分の話をあまりしないところだったかもしれない。
聞けば話してくれるけれど、深く踏み込んで聞くのは、どこか悪いことのような気がしていた。
それでも、七年も一緒にいれば、少しずつわかってくるものだ。
辞令が出た日、私たちは、いつものカフェで会った。
「一緒に来る?」
彼は、氷を揺らしながら、軽くそう言った。
強く望んでいるふうではない。
これを機に結婚を、とも言わない。
そして、少しだけ視線をそらしてから続けた。
「仕事あるもんな」
「無理にとは言わない」
その言い方で、選ぶのは私のほうだと、はっきりわかった。
一年前の私は、ちょうど仕事にも慣れてきたところだった。
後輩に教えることも増えて、任される仕事も増えていた。
職場の空気にも、人間関係にも、ようやく愛着が芽生えていた。
それを手放す決心なんて、簡単にできるはずがなかった。
黙り込んだ私を見て、彼もゆっくりうなずいた。
「…しばらく、遠距離でやってみよう」
私は、小さく頷いた。
先のことまではよく見えていなくても、本当に「続けられる」と思っていた。
それを疑う理由なんて、どこにもなかった。
テーブルの上で、グラスの水滴だけが広がっていった。
4
転勤の日は、本当にあっという間だった。
辞令が出て、たった一週間で赴任地へ移ることになった。
月曜日から新しい支店に出勤するということで、その前の土曜日、私は彼を空港まで見送りに行った。
そのときは、涙は出なかった。
保安検査場に向かう列に紛れて、彼が少しずつ小さくなっていくのを見送るだけだった。
ゲートの向こうに完全に姿が消えてから、ようやく胸の奥がきゅっと締めつけられる。
ひとりで乗ったエスカレーターの上で、ふいに涙がこぼれたけれど、すぐに「別れたわけじゃない」と言い聞かせた。
数時間後、「無事着いた」と短いLINEが届いた。
もともとまめな人ではない。
それでもすぐに連絡をくれたのは、きっと彼も少し寂しかったのだと思う。
最初の数か月は、毎日のようにLINEをした。
仕事の話や、ちょっとした困りごとを、他愛ない雑談みたいに送り合う。
夜には電話で、その日の出来事をお互いに報告して、次に会える日が待ち遠しいと笑い合った。
週末には、できるだけ会うようにした。
会ったときには、次はいつ会えるか、その場で予定を立てる。
離れているからこそ、次の約束がふたりをつないでくれている気がした。
それが、いつから少しずつ変わっていったのかは、はっきりとは思い出せない。
ただ、ある日ふと気づいたときには、LINEの返信が「遅い」と感じるようになっていた。
夜になると、当たり前のようにかかってきていた電話も、少しずつ回数が減っていく。
話している時間も、いつのまにか短くなっていた。
週末に合わせていた予定も、付き合いや仕事を理由にキャンセルされることが増えた。
私から「会いに行くよ」と言っても、「今月は忙しいから」と、はっきりしない返事が続いた。
前なら、仕事中のちょっとした出来事も笑い話にしてくれていたのに、その話題もほとんど出なくなっていった。
疲れているのだと、自分に言い聞かせた。
会うだけでも、時間もお金もかかる。
お互いに仕事があるし、彼は赴任したばかりで、きっと気をつかう場面も多いのだろう。
そうやって理由を並べて、変化から目をそらした。
違和感に、わざと焦点を合わせないようにしていた。
七年一緒にいた人だから、大丈夫だと。
私は、わかっているつもりでいた。
赴任してからしばらくして、彼の話の端々に、職場の女性の存在が混じるようになった。
最初はただの「職場の人」だった。
そのうち、その中のひとりの名前が、当たり前のように会話に出てくるようになった。
残業で一緒になったとか、仕事を手伝ってもらったとか、そんな他愛ない話の中で。
けれど、ある時期から、彼はその名前をほとんど口にしなくなった。
まるで、わざと避けているみたいに感じてしまって、胸の中のもやもやが、少しずつ輪郭を持ち始めた。
名前が出ていた頃より、出なくなってからのほうが、ずっと気になった。
何もないなら、隠す必要なんてない。
そう思ってしまったら、もう前のようには聞き流せなかった。
ある日、思い切って聞いてみた。
「最近、あの人の話しないね」
「前によく話してた、職場の人」
電話口で、彼は少し黙った。
それから、少し不機嫌そうな声で答えた。
「別に、話すことないから」
その短い沈黙と、わずかにとげを含んだ声だけで、私はもうほとんど確信してしまった。
その後、電話の時間はさらに減っていった。
私が「会いたい」と言っても、のらりくらりと曖昧な言い訳が続く。
宙ぶらりんのまま放り出されているようで、息苦しかった。
聞くのが怖かった。
それでも、逃げてばかりではいられなくて、思い切って踏み込んだ。
「私に、何か言うことはない?」
また、少しの沈黙。
そして、いつも通りを装うような声。
「なんのこと?」
そのとぼけ方に、今度は怒りがこみ上げてきた。
なら、どうして私をこのままにしておくのか。
こらえきれずに、もう一歩踏み込む。
「そっちで、好きな人ができたの?」
「そういうんじゃない」
「まだ、何もない」
まだ――。
その言い方は、「これから何か始まるかもしれない」という意味にも聞こえた。
「自分でもよくわからない」
「もう少し考えたい」
そう言って、彼は結論を先延ばしにしているようにしか見えなかった。
時間だけが、ずるずると引き延ばされていく。
5
この時点で、私はもう「終わるんだ」と思った。
彼のほうが、この関係を手放してしまっていると感じた。
人間だから、心変わりすることだってある。
よく聞く話だし、どこにでも転がっている恋愛の終わり方なのかもしれない。
だからといって、あっさり「そうですか」と納得できる人が、いったいどれくらいいるのだろう。
かといって、別れたがっている人に縋りつくような真似もしたくなかった。
七年。
この時間を取り戻すことはできなくても、十年後にばったり再会したときに「久しぶり。元気にしてた?」と、笑って挨拶できるくらいには、きれいに終わりたいと思った。
本当にそんなことができるのか、自信なんてなかったけれど。
「会って話したい」
そう伝えると、彼はまた逃げ腰の声で言った。
「今週は無理だ」
「来週も予定がある」
「会っても答えは出ない」
「もう少し待って」
いつまで待てばいいのか。
彼は、いったいどうしたいのか。
決着をつけたいのか、つけたくないのか。
私から見るとただ、私のほうから何か言うのを待っているようにしか思えなかった。
ただ、待つことだけを求められているのだと思った。
それならば、自分が会いに行けばいい。
近くまで行けば、彼だって三十分くらいの時間は作ってくれるだろう。
6
翌日。
曖昧な返事を繰り返した彼へ、LINEを送った。
〈来週の土曜日、そっちへ行く〉
〈三十分でいいから、会って話したい〉
返事はなかったけれど、既読だけはついた。
返事がないのは、困っているのだろう。
何を困ることがあるのか。
別れたいのならば、いい機会ではないのか。
七年付き合った相手が、わざわざ飛行機に乗ってくる。
最後の三十分のためだけに。
別れることになっても、住んでいる場所は離れている。
近所でばったり顔を合わせることもない。
彼に会って、別れることになっても仕方がない。
笑って、「さようなら」と言おうと心に決めていた。
空港へ向かう電車の中でも、搭乗口へ入ってからも、機内でも、何度もスマホを確認した。
それでも、彼からの返事はなかった。
到着して、電車に乗る。
彼の住む街へは、何度か行ったことがある。
だけど、さすがに彼のアパートまで行く勇気はなかった。
彼のアパートの最寄りの駅に着いて、駅前からLINEを送った。
〈着いたよ〉
〈駅前のカフェにいる〉
〈三十分だけでいい〉
〈別れるなら、ちゃんと顔を見て終わらせたい〉
すぐに既読はついた。
入口の見える席に座って、待った。
冷たくなったコーヒーを飲むのが痛かった。
三十分。
一時間。
店員さんが、水を足しに来る。
スマホの画面を何度も見る。
既読はついているのに、返事はない。
もう、落胆と脱力と失望しか残っていなかった。
会えないのではない。
会わないことを選ばれたのだと思った。
〈今日会えないなら、それでもいい〉
〈でも、どうしたいのかだけは、自分の言葉で言って〉
最後に、もう一度だけ送った。
結局、彼は来なかった。
それでも、私たちはまだ、別れてはいなかった。
7
数日後、彼からLINEが届いていた。
通知を見た瞬間、心臓が震えるような気がした。
〈そっちに置いてある俺の荷物、どうする?〉
〈こっちの部屋の合鍵、郵送してもらえる?〉
なにこれ。
七年を終わらせる言葉はひとつもないのに、
七年の後片付けだけを、先に始めようとしている。
〈電話できる?〉
せめて、声で答えてほしかった。
それでも、画面には沈黙だけが続く。
耐えきれず、こちらから電話をかけた。
どうしようもなくなったのか、それとも合鍵を返してほしいからか、彼はその電話には出た。
「あの人のこと、好きなんでしょう?」
「私とは、どうしたいの?」
「別れたいの?」
そこまで言っても、返ってくるのは沈黙と、曖昧な言葉ばかりだった。
― ごめん
― 自分でもわからない
もう、これ以上引き伸ばされるのに耐えられなくて、私は自分で言った。
「じゃあ、別れよう」
― ……うん
― ごめん
別れることくらい、自分の口から言ってほしかった。
8
駅前広場を抜ける風が、ゆっくりと顔を撫でていった。
さっきまでいた、あの幸せそうな家族の姿は、もうどこにも見えない。
……私も、ああなるはずだった。
でも、今はふと考えてしまう。
本当に、あの人となら、ああなれていたのだろうか、と。
前の仕事は嫌いではなかった。
むしろ好きだったから、私は彼について行かなかった。
それなのに、結局、その守ったつもりの仕事さえ辞めてしまった。
私は仕事を選んだ。
その結果、全部失った。
自分で選んだはずの職場に居続けることが、だんだん苦しくなっていった。
仕事が嫌になったわけではない。
職場の人たちに不満があったわけでもない。
ただ、同じ駅で電車を降り、同じ道を歩き、いつもの席に座るたびに思ってしまう。
私は、この仕事を選んだ。
そうして守ったはずのものの先で、七年間の終わりまで、自分ひとりで引き受けることになった。
彼について行かなかったことが間違いだったとは思いたくない。
けれど、あの場所にいる限り、私は何度でも、自分の選択が正しかったのかを問い続けてしまう。
それが、もう苦しかった。
だから辞めた。
失恋したから仕事を捨てたのではない。
好きだった仕事を、失った未来の証拠にしたくなかった。
駅前広場を行き交う人たちの流れに、私はもう一度歩き出した。
前の仕事は終わった。
七年間続いた恋も終わった。
新しい仕事が始まるのは、三日後。
今の私は、そのどこにもいない。
宙ぶらりん。
けれど、立ち止まったままではない。
紅葉便り 第1話 「宙ぶらりんの一日」 おわり
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
第1話は、まだ何も始まっていないような一日です。
仕事を辞めて、新しい職場へ行くまでの、宙ぶらりんな時間。
紅葉にとって、この一日が少しでも「休み」になっていればいいなと思います。
駅前で出会った親子に見覚えのある方は、そっと笑っていただければ(笑)。
次回から、紅葉の新しい仕事が始まります。
今作は毎日ではなく、少しゆっくり更新していく予定です。
また紅葉に会いに来ていただけたら嬉しいです。




