第8話前編 正義のヒーローは商店街にいる
第八話 前半案
ある男の視点
限界、という言葉を口にすると、思っていたよりも軽く聞こえた。
もっと重いものだと思っていた。胸の奥に沈んで、息をするたびに肺を押しつぶすような、そういう種類の言葉だと思っていた。
けれど実際には、稽古場の端に置かれた折りたたみ椅子に腰を下ろし、汗で湿ったTシャツの襟元を指でつまみながら、ふと浮かんだ。
ああ、そろそろ限界なのかもしれない。
それだけだった。
劇的な音楽も鳴らなければ、空から光が差すこともない。誰かが肩を叩いて、「よく頑張ったな」と言ってくれるわけでもない。現実の幕引きは、舞台の暗転よりずっと地味で、客席からの拍手もなかった。
実家に帰ろうと思ったのは、何か決定的な事件があったからではない。
スマートフォンの画面を閉じ、しばらく暗くなった表面に映る自分の顔を眺めていた。稽古帰りの疲れた顔。少し伸びた髭。目の下の影。
その時、母から届いていた短いメッセージを思い出した。
『たまには帰ってきなさい』
何でもない一文だった。
だが、何でもない一文だからこそ、逃げ場のように見えた。
俺はその週のうちに荷物をまとめ、実家に帰ることにした。
帰省という言葉には、どこか穏やかな響きがある。けれど、俺のそれは帰省というより撤退に近かった。戦って負けた者が、いったん後ろへ下がる。そんなものだ。
新幹線の窓に、流れていく景色が映る。
都会のビルが低くなり、看板の数が減り、線路沿いの家々の間に畑が混じり始める。子供の頃は退屈だった景色が、今は妙に優しく見えた。
優しく見える、ということは、自分が弱っている証拠なのかもしれない。
駅に着くと、空気が少し違った。
都会より薄いわけでも、澄んでいるわけでもない。ただ、音の距離が違う。車の音も、人の声も、足音も、少し遠くにあるように感じる。駅前のロータリーには、見覚えのある銅像がまだ立っていた。昔より小さく見えたのは、銅像が縮んだのではなく、俺が大きくなったからだろう。
ふと商店街のことを思い出した。
駅から少し歩いた先にある、古いアーケード商店街。子供の頃の俺にとって、そこは世界の中心に近かった。
駄菓子屋があり、本屋があり、肉屋のコロッケがあり、夏には天井から色褪せた七夕飾りが下がっていた。冬になるとスピーカーから季節の歌が流れ、クリスマス前には、どの店も無理に明るくしているような色の飾りをつけた。
そして、その奥に小さな玩具屋があった。
黒川玩具店。
俺はその店が好きだった。
今にして思えば、特別に大きな店ではない。品揃えも、都会の量販店には到底かなわない。だが、あの頃の俺には十分すぎるほどの宇宙だった。
棚には変身ベルトが並び、カードのパックが吊るされ、ミニカーの箱が積まれていた。少し古いプラモデルが奥の棚に残っていて、店の隅には動かなくなったゲーム筐体が置かれていた。何かを買わなくても、見ているだけで楽しかった。
その店には、黒川さんがいた。
店主は黒川さんの祖父だった。
穏やかな人で、俺たち子供が棚の前で長居していても、追い払うようなことはしなかった。買うかどうかより、何を見て目を輝かせているかを楽しんでいるような人だった。
黒川さんは、その店にほとんど毎日のようにいた。
店番をしていることもあれば、奥の作業台で何かを分解していることもあった。壊れたラジコンを直している日もあれば、売り物ではない妙な玩具を作っている日もあった。
俺にとって黒川さんは、店員でも、先生でも、友達でもなかった。
少し先を歩いている人。
子供の世界にも大人の世界にも、どちらにも片足を突っ込んでいるような、不思議な人だった。
俺がヒーローに憧れていると知ると、黒川さんはよく悪役をやった。
段ボールで作った爪をつけ、新聞紙を丸めた剣を振り回し、店先で「ぐわあ、やられた」と倒れる。店の前を通りかかった大人たちは呆れた顔をしていたが、俺は真剣だった。
あの頃の俺にとって、黒川さんは初めて戦った悪の組織だった。
そう思うと、少しだけ笑えた。
バスを待つのをやめ、俺は商店街へ向かって歩き出した。
懐かしい道のはずなのに、足取りはどこかぎこちなかった。帰ってきた、という実感よりも、昔の自分の痕跡を勝手に踏み荒らしているような後ろめたさがあった。
アーケードの入口は、まだ残っていた。
ただ、看板の文字は少し剥げている。天井のパネルも、ところどころ色が違う。新しく取り替えた部分と、古いまま残った部分がまだらになっていて、その不揃いさが歳月をそのまま貼りつけたようだった。
商店街は、記憶の中より静かだった。
シャッターの下りた店がいくつかある。知らない店も増えていた。昔ながらの八百屋は残っていて、店先のケースには色の濃いトマトが並んでいる。肉屋の前を通ると、揚げ物の匂いがした。あの匂いだけは、ほとんど変わっていない。
俺は歩きながら、一つずつ記憶と照らし合わせた。
ここは文具店だった。看板だけ残って、店内は空っぽだ。
あの角の自販機はまだある。だが、値段は当然のように変わっていた。
当たり前だ。
変わらないものなどない。
そんな分かりきったことを確認するために、俺はここへ来たのかもしれなかった。
商店街の奥へ進むと、足が少し遅くなる。
黒川玩具店があった場所だ。
胸の中に、わずかな期待があった。残っていてほしい。けれど、残っていても困る。あの頃のままの店がそこにあったとして、俺はどんな顔で入ればいいのだろう。
子供の頃の俺は、真っ直ぐにあの店へ走れた。
今の俺は、夢に疲れて帰ってきた大人だ。
同じ入口をくぐるには、少し荷物が重すぎる。
それでも、俺は角を曲がった。
そして、足を止めた。
そこに、黒川玩具店はなかった。
いや、建物はあった。場所も同じだ。間口も、おそらく昔のままだ。けれど、店の顔がまるで違っていた。
看板には、大きな文字でこう書かれていた。
『世界征服玩具店』
俺はしばらく、その文字を見上げていた。
読み間違いかと思い、もう一度読んだ。
世界征服玩具店。
間違いではなかった。
店の入口には、巨大なクマが二体立っていた。
可愛い、と言えば可愛い。
だが、大きすぎる。
片方はピンクブラウン。もう片方はブルーブラウン。
胸元には、それぞれ見慣れない記号のようなマークがついている。
子供の頃の黒川玩具店にも、店先に大きなぬいぐるみが置かれていた記憶はある。
だが、こんな圧はなかった。
これはもう、看板というより門番だった。
俺は入口の前で立ち尽くした。
正確には、立ち尽くさざるを得なかった。
記憶の中にある黒川玩具店は、そこにはない。
看板は変わり、入口には三メートルほどもある巨大なクマが二体、門番のように立っている。
そして、そのクマの間――店先に、白衣の男と女子高生がいた。
女子高生は肩から鞄を提げ、片手にはスーパーの惣菜が入ったビニール袋を下げていた。
もう片方の手にはスマートフォン。画面を見ながら何かを確認している。
学校帰り、なのだろう。
客というより、ここにいることが日常になっている人間の立ち方だった。
巨大なクマにも、世界征服と書かれた看板にも、白衣の男にも、いちいち驚いていない。
俺は足を止めたまま、ほんの少しだけ息を忘れた。
白衣の男が、こちらを見る。
鼻の頭まで下がった眼鏡。
大きく広げた腕。
無駄に芝居がかった立ち方。
年齢は重ねている。
顔つきも、声の厚みも、昔とは違う。
それでも、分かった。
「……黒川さん?」
俺の声は、思っていたより掠れていた。
白衣の男は、眼鏡の奥で目を細めた。
「そこに立っているのは、誠一郎……緋村誠一郎くんではないか」
女子高生が、俺と黒川さんを交互に見た。
「え、店長の知り合いですか?」
「古い友人だ」
黒川さんは、当然のように言った。
友人。
その言葉に、俺は少しだけ驚いた。
昔の俺にとって、黒川さんは友人というより、少し先を歩いている人だった。
店主である祖父のそばにいて、いつも玩具を分解したり、組み立てたりしていた人。
子供の俺に本気で付き合い、本気で悪役をやってくれた人。
その人が今、俺を友人と呼んだ。
たったそれだけのことが、妙に胸に残った。
「久しいな、誠一郎」
「黒川さん」
「うむ」
「何をしてるんですか?」
黒川さんは、待っていたとばかりに胸を張った。
「世界征服だ」
女子高生が横で小さく息を吐いた。
「再会一発目でそれ言うの、本当にやめた方がいいですよ」
「事実だから仕方あるまい」
「事実ならなおさら隠してください」
俺は二人のやり取りを眺めながら、しばらく言葉を失っていた。
黒川玩具店はなくなっていた。
けれど、完全になくなったわけではないのかもしれない。
目の前の白衣の男は、昔よりずっと怪しくなっている。
店の看板は世界征服を名乗り、入口には巨大なクマが二体立っている。
そして、見知らぬ女子高生が、それを当たり前のように受け入れている。
何もかも変わっている。
それなのに、黒川さんが楽しそうに無茶を言い、それに誰かが呆れながら返している光景だけは、どこか昔の店先とつながって見えた。
「入れ、誠一郎」
黒川さんは店の扉に手をかけ、俺を手招きした。
「ちょうど君に話したいことがある」
「……俺に?」
「そうだ」
「嫌な予感しかしないんですが」
「良い勘だ」
女子高生が、惣菜の袋を持ち直した。
「やめるなら今ですよ」
その声は冗談めいていたが、半分くらい本気にも聞こえた。
俺は店の入口を見る。
巨大なクマは動かない。
ただ、門番のようにそこに立っている。
子供の頃の俺なら、迷わず飛び込んでいただろう。
今の俺は、立ち止まる理由ばかり探している。
黒川さんが「話したいことがある」と言った。
その一言で何かが変わるほど、俺の悩みは軽くない。
それでも、その言葉は胸の奥に引っかかった。
俺はゆっくり息を吸い、足を前に出す。
「……少しだけ、寄らせてもらいます」
「少しだけで済むかな」
「本当に不穏なことしか言いませんね」
黒川さんは満足そうに笑った。
女子高生が、諦めたように入口の扉を開ける。
「いらっしゃいませ。世界征服玩具店へ」
その言い方は、半分は店員のそれで、半分は巻き込まれた者の諦めだった。
俺は世界征服玩具店の入口をくぐった。
懐かしい玩具屋の匂いと、知らない機械の音が混ざっていた。
入口の幅、ガラス戸の位置。
店内に漂う、プラスチックと紙箱の混じった匂い。
違うものになっているはずなのに、奥の方にかすかに覚えのある空気が残っている気がした。
その瞬間、長いあいだ閉じたままだった何かが、胸の奥でほんの少しだけ軋んだ。
店内は、外観ほど奇妙ではなかった。
少なくとも、最初の印象はそうだった。
棚にはぬいぐるみが並び、カードのパックが吊るされ、小さな車やロボットの箱が整然と置かれている。壁際には昔と同じように、子供の背丈に合わせた低い棚があった。奥の棚は少し高く、値段も対象年齢も上がる。子供の頃の俺が、背伸びをしながら眺めていた配置に似ていた。
もちろん、全部が同じではない。
見たことのない商品名。
妙に精密な機械部品のような玩具。
棚の隅に置かれた、用途の分からない端末。
そして、店の奥へ続く扉の横には、『関係者以外立入禁止』と書かれたプレートがある。
懐かしさと違和感が、同じ棚に並んでいた。
案内してくれた女子高生は、店に入るなり早々に帰っていった。手に下げた惣菜を、なるべく温かいうちに家へ持って帰りたいらしい。
去り際に彼女は「これも推し活なので」と言っていたが、推し活という言葉くらいは分かる。けれど、惣菜と何が関係するのかはよく分からない。世の中には、俺の知らない推し方があるらしい。
扉が閉まる。
黒川さんと二人きりになった途端、さっきまでの軽さが少しだけ遠のいた気がした。
「さっきの子はアルバイトの子ですか?」
「うむ。我が世界征服玩具店の助手だ」
「女子高生を助手にしてるんですね」
「労働契約は適正だ」
「そこを先に言うあたり、何か言われ慣れてますね」
黒川さんは楽しそうに笑った。
その笑い方は、昔とあまり変わっていない。
子供の頃、俺が玩具のルールに文句を言った時も、黒川さんはよくこんな顔をしていた。こちらの反応を面白がっているようで、それでいて、ちゃんと次の手を考えている顔。
「それで」
黒川さんは、棚の間をゆっくり歩きながら言った。
「久しぶりに帰ってきた理由を聞いてもいいか」
俺は少しだけ黙った。
聞かれるとは思っていた。
けれど、答えを用意していたわけではない。
適当にごまかすこともできた。たまたま近くに来た。実家に顔を出しに来た。昔の店が懐かしくなった。どれも完全な嘘ではない。
でも、黒川さんの前でそれを言うのは、何となく違う気がした。
「役者をしていました」
口にすると、思っていたより簡単だった。
黒川さんは驚かなかった。
「知っている」
「知ってるんですか」
「商店街の者は、地元を出ていった若者の噂に意外と敏感だ。君が舞台に出ていることも、映像の仕事をしていることも、何となくは聞いていた」
「そうですか」
知られていたのか。
少し気恥ずかしかった。成功して帰ってきたわけでもないのに、昔の自分を知っている場所に、今の自分まで知られている。その事実は、温かいようで少し痛い。
「ヒーローにはなれたか」
黒川さんは、何でもないことのように聞いた。
その言葉で、胸の奥に沈めていたものが静かに浮かび上がった。
「……なれませんでした」
店の中に、小さな機械音がした。どこかで玩具が待機しているのかもしれない。
「役者としての仕事は、なくはないんです。舞台もあるし、映像の端役もある。イベントの仕事もしました。ヒーローショーにも出ました」
「ほう」
「でも、怪人とか、戦闘員とか、そういう役が多くて」
「悪役か」
「はい」
言ってから、少し笑った。
「黒川さんと遊んでいた時と、あまり変わりませんね」
「私の悪役指導が役に立ったわけだ」
「そういうことにしておきます」
笑いはした。
でも、胸の重さは消えなかった。
「俺は、ヒーローになりたかったんです」
その言葉は、店の空気に溶けずに残った。
黒川さんは黙って聞いている。
「テレビの中で、子供に夢を見せるヒーローに。強くて、優しくて、最後には必ず立ち上がるような人に。そういう役をやりたくて、役者になりました」
棚に並んだ変身玩具が目に入る。
知らない名前の商品だった。けれど、その形には見覚えがある。ベルト。武器。変身音。子供が自分ではない誰かになれる道具。
俺は、そういうものに救われた子供だった。
「でも、届きませんでした」
声は思ったより落ち着いていた。
「オーディションには落ちる。若い子はどんどん出てくる。俺より華があって、俺より未来がある。続けようと思えば、まだ役者は続けられると思います。でも、俺がなりたかったものには、もう届かない気がして」
言葉を切る。
自分の声が、少し遠く聞こえた。
「一度、帰ってきました。今後のことを考えようと思って」
「撤退か」
黒川さんの言葉は鋭かった。
けれど、不思議と責められている気はしなかった。
「そうですね」
俺は頷いた。
「たぶん、撤退です」
黒川さんは、しばらく何も言わなかった。
店の外から、商店街のざわめきがかすかに届く。自転車のベル。遠くの話し声。どこかの店のシャッターが揺れる音。
この場所は、昔からそうだった。
子供の夢のすぐ外側に、生活の音がある。
「誠一郎」
黒川さんが言った。
「君は昔から、負けた時の顔が下手だった」
「何ですか、それ」
「悔しいくせに、平気なふりをする。泣きそうなくせに、負けてないと言う。そういう顔だ」
「……子供の頃の話でしょう」
「今もあまり変わらん」
言い返そうとして、やめた。
変わっていないと言われて、腹が立つより先に、少し安心してしまったからだ。
「君はヒーローになれなかったと言ったな」
「はい」
「それは、誰が決めた」
俺は顔を上げた。
黒川さんは、鼻の頭まで下がった眼鏡の奥で、真っ直ぐにこちらを見ていた。
「テレビの主役に選ばれなかったことか。オーディションに落ちたことか。若い役者が増えたことか」
「それは……」
「確かに、テレビの中にはテレビの中のヒーローがいる。舞台には舞台のヒーローがいる。だが」
黒川さんは、棚に並んだ玩具を指先で軽く叩いた。
「ヒーローの居場所が、そこだけだと誰が決めた」
その言葉は、派手ではなかった。
けれど、妙に耳に残った。
「子供の頃の君は、段ボールの剣一本でヒーローだったぞ」
「あれは、ごっこ遊びです」
「ごっこ遊びを侮るな」
黒川さんの声が、少しだけ強くなった。
「子供にとっては、ごっこ遊びこそ世界の予行演習だ。誰かを助ける。悪に立ち向かう。負けても立ち上がる。そういう形を、最初に練習する場所だ」
黒川さんは昔から、時々こういうことを言った。
ふざけているのか、本気なのか分からない。だが、聞いたあとに、こちらの胸の中に何かを残していく。
「テレビの中だけが、ヒーローの居場所ではあるまい」
俺は何も言えなかった。
言い返せないほど納得したわけではない。そんな一言で、長年の焦りや悔しさが消えるほど単純ではなかった。
それでも、胸の奥に引っかかった。
黒川さんは、そこで急にいつもの調子に戻った。
「そこでだ、誠一郎」
「……そこで?」
「ちょっと手伝いをしてくれないか」
嫌な予感がした。
この人の「ちょっと」は、昔から信用できない。
視点が違うので2回に分けました。後編はいつも通り




