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第7話 初任給と商店街の隠し通路

また長くなってしまった…

第七話 初任給と商店街の隠し通路 改稿案


 働き始めて、一ヶ月が経った。


 一ヶ月。


 数字にすると短い。カレンダーをめくれば一枚分でしかないし、学校生活で考えれば、席替えの間隔より少し長いくらいだ。


 けれど、世界征服玩具店で働いた一ヶ月は、普通の一ヶ月とは密度が違う。


 巨大なクマが喋った。

 地下に研究所があった。

 決戦闘技場とかいう、名前からして穏やかではない施設があった。

 弟は地下でヨンクラを走らせ、常連小学生から私はお義姉さん呼ばわりされた。


 濃い。


 あまりにも濃い。


 普通のバイトなら、レジの打ち方を覚えて、品出しをして、少しずつ常連さんの顔を覚えていくくらいだろう。いや、この店でもレジ打ちと品出しはしている。しているのだが、その横で店長が「世界征服だ!」と叫ぶので、労働経験として何かがおかしい。


 そんな一ヶ月目のある日。


 私はいつものように、商店街のアーケードを歩いていた。


 朝の商店街は、昼ほど賑やかではない。シャッターを半分だけ開けている店や、店先に商品を並べているおばちゃん。自転車で通り抜けるおじいちゃん。揚げ物の匂いを準備している惣菜屋。


 その奥に、世界征服玩具店がある。


 相変わらず店名が強い。看板だけで近所の平和を軽く揺さぶっている。


 入口には、ピンクブラウンの巨大なクマと、ブルーブラウンの巨大なクマ。


 シータとデルタが、左右にどんと立っていた。


「おはようございます」


「おはよ〜、ユズちゃん」


 シータがふわふわと手を振る。


「おう、嬢ちゃん」


 デルタはいつも通り腕を組んでいる。表情はぬいぐるみなのに、どこか警備員感がある。いや、実際警備員以上の仕事はしているのかもしれない。


「今日は地下ですか? 店ですか? それともまた説明不足の何かですか?」


「今日は店だよ〜」


「珍しく平和そう」


「平和かどうかはガングー次第だな」


「一番信用できない要素じゃないですか」


 私はため息をつきながら店に入った。


 開店前の店内は、きれいに整えられていた。


 ラヴェンナの棚。θδシリーズのぬいぐるみコーナー。ヨンクラ関連の新商品棚。前回の大会の影響なのか、ヨンクラのパーツは少し増えている。


 その中に、見覚えのない商品が並んでいた。


『新発売!

 シータフレーム/デルタフレーム

 ヨンクラをかわいく! かっこよく! ほんの少し征服的に!』


「最後の一文いらないな……」


 私がポップを見ていると、奥から白衣の影が現れた。


「来たか、白山くん」


 店長だ。


 いつもの白衣。鼻の頭まで下がった眼鏡。妙に芝居がかった立ち姿。見慣れたはずなのに、毎回何かしら新しい不安を連れてくる。


「おはようございます、店長」


「うむ。まずはこれを確認したまえ」


 店長はレジカウンターの上に一枚の紙を置いた。


 給与明細だった。


「給与を振り込んでおいた。明細と一緒に確認したまえ」


「……え?」


 私は固まった。


 店長は胸を張っている。


「どうした」


「いや……ちゃんとしてる……」


「失礼な!」


「すみません。でも、この店で一番びっくりしたかもしれません。地下闘技場よりびっくりしてます」


「そこまでかね!?」


 そこまでである。


 巨大なクマが喋るより、地下に決戦闘技場があるより、店長が普通に給与を振り込んで明細確認を促してきたことの方が、労働者としては衝撃が大きい。


 この店、社会のルールを守る気があったんだ。


 いや、失礼かもしれないけど、でも本当にそう思ってしまった。


「昨日の夜ガンちゃんに三回確認したからね〜」


 シータが横からにこにこしながら言った。


「三回」


「うん。振込、明細、控除、確認。あとユズちゃんにちゃんと説明すること〜って」


 デルタがぼそっと続ける。


「放っておいたら『振り込んだ! 以上!』で終わってたな」


「結局シータの指示じゃないですか!」


「結果として正しく処理されたのなら問題はない」


 店長は堂々と言い切った。


「ありますよ。社会性を外部委託しないでください」


「シータは優秀だからな」


「そこは否定しませんけど!」


 私は明細を受け取った。


 紙の端には、世界征服玩具店のロゴが印刷されている。妙にしっかりしている。怪しさと事務処理が同居しているの、なんだか腹立つ。


 金額を見る。


「……え?」


 明細を目の前まで持ってきてもう一回見る。


「え?」


 今度は腕を伸ばし明細を遠ざけて三回目を見る。


「え、ちょ、待ってください」


「どうした」


「思ったより多いんですけど!?」


 声が裏返った。


 予想していたより、かなり多い。もちろん高校生のバイト代として、である。人生が変わるほどではない。けれど、私の弟妹貢ぎ財布には、十分すぎる衝撃だった。


 視界の中で、シータフレームとデルタフレームが輝いて見える。いや、実際には光っていない。私の欲望が勝手に照明を足している。


「働いた分だ」


 店長が当たり前のように言った。


「急にまとも!」


「ワタシはいつもまともだ」


「その発言がもうまともじゃないんですよ」


 私は明細をさらに見た。


 基本時給。勤務時間。手当。ラヴェンナ販売補助。イベント補助。デザイン協力料。


「デザイン協力料?」


「ああ。ラヴェンナ関連だな」


 店長が頷く。


「白山くんの意見は商品展開に有益だった。よって対価を支払う」


「えっ、ラヴェンナのデザインとか、ポップの文言とかですか?」


「それも含む」


 シータが嬉しそうに言う。


「ユズちゃんが考えてくれた服の組み合わせとかも評判いいんだよ〜。女の子にも、ドール好きの大人にも」


「そうなんですか……!」


 嬉しい。


 普通に嬉しい。


 レジで売れるのを見るのも嬉しかったけれど、こうして金額として返ってくると、また違う実感がある。私の考えた事が仕事になった。仕事になったものがお金になった。


 すごい。社会ってすごい。


 いや、世界征服玩具店で社会を学んでいいのかは怪しいけど。


「あ、でもラヴェンナ代が引かれてる」


 明細の下の方に、見覚えのある名前があった。


 ラヴェンナ購入代金。


 しっかり天引きされている。


「当然だ。商品だからな」


「そこはちゃんとしてるんですね」


「店員割引は適用してあるよ〜」


 シータが補足する。


 確かに、金額はかなり安い。あの子の出来を考えると破格だった。


「……なら良し」


「良しなんだな」


 デルタが笑った気がした。


「あれは想楽への献上品なので」


「献上品」


「妹にかわいいものを捧げるのは、姉としての義務です」


「重いな」


「ラヴェンナ自体もかわいいですし。広義では推しです」


「広いな」


「弟妹に渡したいものは、だいたい全部広義の推し活です」


「もう何でもありだな」


 私は明細を大事に折りたたんだ。


 心が浮いている。顔がにやけそうになる。いや、にやけているかもしれない。仕方ない。初任給だ。人生初の、ちゃんと働いて得た給料。


 これで景娯に何か買える。

 想楽にも買える。

 お母さんとお父さんにも何か買って帰れる。


 完璧では?


「このペースで働くなら税金も考えろよ」


 デルタが音速で現実を連れて来た。


「初任給の感動を最速最短で潰さないでください」


「大事なことだ」


「大事ですけど、今ですか?」


「あとでシータに聞け」


「税務関係はこっちで説明するね〜。扶養とか、年収のラインとか、分かりやすくまとめておくから」


「サポートが手厚い……!」


 高校生バイトへのサポートとしては、妙に実務的である。

 世界征服玩具店、変なところでちゃんとしている。いや、たぶんシータがちゃんとしている。


「そして、白山くん」


 店長がもう一つ、カウンターの下から箱を取り出した。


「給与確認に加えて、君に渡すものがある」


「嫌な予感と嬉しい予感が半々です」


「安心したまえ。今回は実験体ではない」


「今回は、って言いましたよね?」


 店長は私のツッコミを無視して、箱を開けた。


 中に入っていたのは、スマホケースとピンバッジだった。


 スマホケースは、白をベースにシータとデルタの小さなマークが入っている。可愛い。けれど、側面に見慣れない金属パーツがあり、妙に精密だ。市販品ではないのが一目で分かる。


 ピンバッジは、丸い形をしていた。半分がピンクブラウン、半分がブルーブラウン。中央に小さくθとδの文字が入っている。


「可愛い……けど、絶対ただのケースとバッジじゃない」


「その通り!」


 店長は待ってましたと言わんばかりに指を鳴らした。


「これは世界征服玩具店オリジナル、θδリンクケースである!」


「名前の時点で業務用じゃない」


「このθδリンクケースは独立した通信ユニットを内蔵している」


「ケースなのにハイテク」


「そして君のスマートフォンから、画面と操作系を一部借りる」


「借りる事に一抹の不安が残りますね」


「シータおよびデルタとの常時通信、地下施設への入場認証、提携店舗のアクセス、簡易マップ表示、防犯通知、緊急連絡、そして一部玩具との連動が可能だ」


「怖いくらい多機能!」


 私はケースを手に取った。


 見た目は可愛い。サイズも私のスマホに合っている。けれど内側に細かい端子のようなものがあり、普通のスマホケースが持っていていい情報量ではない。


「しかし、勤務中にスマホをいじるわけにはいかない」


 店長は今度はピンバッジを持ち上げる。


「ゆえにこちらだ。θδリンクバッジ。勤務中の簡易通信、通知、認証に用いる」


「インカムでよくないですか?」


「玩具店に勤めておきながら夢がないな、白山くん」


「業務効率の話をしてるんですけど」


「夢と効率は両立する」


「私としては効率だけで良いですけどね」


 シータが私の肩のあたりを覗き込んだ。


「ピンバッジなら制服にも私服にもつけやすいでしょ〜。あとユズちゃん、スマホ触り出すと通知見ちゃうタイプだと思って」


「否定しづらい」


 推しの通知は見たい。世界で一番見たい。仕事中は見ないようにしているが、スマホが近くにあるだけで心が揺れる時はある。


 デルタが説明を引き継ぐ。


「店で必要な連絡はバッジに飛ばす。地下への入り口もそれで通れる」


「前に少し教えてもらいましたけど、地下への入り口って何箇所あるんですか?」


 私が聞くと、三人がなぜか顔を見合わせた。


 いや、シータとデルタはぬいぐるみなので表情は分かりにくいのだが、空気で分かる。


「常設で使える入口は、ここを含めて六箇所だな」


 デルタが淡々と言った。


「六」


 思ったより多い。


「臨時用と搬入口を入れると、もう少し増えるよ〜」


 シータが軽い調子で付け足す。


「もう少し、の幅が怖いんですけど」


「白山くん」


 店長がにやりと笑った。


「世界征服とは、点ではなく面で行うものだ」


「数字を聞いたあとでも嫌な言い方ですね」


「一箇所に入口を集中させれば、混雑する。非常時にも弱い。子供たちの動線も限られる」


「あれ、急にまとも」


「ゆえに、商店街全体を使う」


「やはり規模がおかしい!」


 デルタが説明を続ける。


「基本的には、子供が自然に出入りできる店舗を選んでいる。駄菓子屋、雑貨屋、惣菜屋、本屋、服屋。それと、ここだ」


「生活圏に秘密通路を混ぜないでください」


「秘密通路ではない。提携導線だ」


「言い換えても秘密通路ですよね?」


 シータが楽しそうに笑う。


「常連の子たちは、それぞれ認証用のグッズを持ってるんだよ〜。キーホルダーとか、カードケースとか、リストバンドとか」


「え、じゃあ景娯も?」


「持ってるぞ」


 デルタがあっさり言った。


「聞いてない!」


「あいつはカードケース型だな」


「聞いてない!」


 弟よ。姉に内緒で地下へのパスを所持するな。


 いや、私も今渡されたけれど。


「妹ちゃんはまだ正式なパスはないよ〜。でもアタシたちと一緒なら入れるからね」


「それはそれでどうなんですか」


 想楽なら普通に「てんちょー、あけてー」とか言って入っていきそうで怖い。


 地下への入口が複数あることは、前に軽く聞いていた。


 でも、こうして具体的な店名を並べられると、急に現実味が増す。


 駄菓子屋の奥に地下への入口。


 本屋の奥に地下への入口。


 惣菜屋の裏にも地下への入口。


 この商店街、私が思っていたよりだいぶ深い。物理的にも、たぶん人間関係的にも。


「ところで、このスマホケース、最初から渡せなかったんですか?」


「調整に時間がかかってな」


 店長は少しだけ視線を逸らした。


 怪しい。


「本当ですか?」


「本当だとも」


「ガンちゃん、途中でヨーヨーいじってたよね〜」


「シータ」


「ヨンクラの追加パーツも作ってたな」


「デルタ」


「あとケースに無駄な変形機能を入れようとして、シータに止められてた」


「無駄な変形機能!?」


 私はケースを落としそうになった。


「安心して〜。変形はしないようにしたから」


「しないようにした、って言い方がもう怖いです」


「ワタシとしては、スマートフォンが小型指令端末に変形する構想もあったのだが」


「絶対いりません」


 店長は不満そうだった。


「夢がない」


「スマホに夢を詰めすぎて壊れると困るんですよ」


 私はスマホケースとピンバッジを受け取った。


 ピンバッジを胸元につける。小さく、カチッと音がした。


『認証しました。白山遊子さん、勤務用アカウントに接続します』


「喋った」


 バッジからシータの声に似た、けれど少しだけ機械的な音声が流れた。


「ユズちゃん専用だよ〜」


「専用って言葉、ちょっと嬉しいのが悔しい」


「気に入ったか」


「まだ業務用備品として受け取っただけです」


 デルタがぼそっと言う。


「言い方が固い時は、だいたい気に入ってるな」


 私はデルタをスルーし、ケースをスマホにはめる。ぴったりだった。


 すぐ画面に小さなθδアイコンが現れた。タップすると、シータとデルタの簡易通信画面が開く。


 便利そう。

 怖いくらい便利そう。


 そして可愛い。

 負けた気がする。


 開店準備を終えてから、私は新商品の棚を整理していた。


 さっきから、給与明細の金額が頭の中で踊っている。


 初任給。

 初任給である。


 世の中には、初任給で親に何か買う人がいるらしい。テレビやネットで見たことがある。ちょっといいご飯をご馳走したり、プレゼントを買ったりするやつだ。


 私も、家族に何か買って帰りたい。


「景娯に何買おう……」


 自然と声が漏れた。


 次に浮かぶのは想楽の顔。


「想楽にも何か……」


 推し活と言うと外向きにはアイドルやキャラを追いかける感じがするけれど、私にとっては弟妹がその位置に近い。


 いや、本人たちに言うと嫌がられるので言わない。特に景娯は絶対に嫌がる。想楽は無表情で「そっか」と言いそうで、それはそれで怖い。


 でも、可愛いものは可愛い。


 弟は中二病で面倒くさいし、妹は妹で、喜び方が分かりやすいようで分かりにくい。二人とも、かわいいだけで選ぶと外す時がある。けれど、何か買って帰った時の反応を想像すると、それだけで財布の紐が緩む。


 私はヨンクラ棚の前で足を止めた。


 シータフレーム。淡いピンクブラウンを基調にした、少し丸みのあるデザイン。可愛い。想楽が好きそうな色ではある。


 デルタフレーム。青みのあるブラウンと黒のライン。こちらは少しシャープで、景娯にも合いそうに見えなくもない。


「うーん……」


 手に取る。


 景娯はヨンクラに興味を持っていた。前回の大会でも、あいつは隼くんが黒炎四式をケースに入れて持ち帰るところを、最後までじっと見ていた。


 たぶん、欲しくないわけじゃない。

 でも。


「景娯はこういうの自分で選びたいタイプだよね」


 完成されたフレームを渡すより、パーツを前にして悩む時間の方が好きそうだ。しかも黒炎四式とか言い出す弟である。デルタフレームを渡しても、性能を見て無言で改造しそうだし、シータフレームはたぶん選ばない。


 想楽はどうか。


 想楽はシータとデルタが好きだ。話を聞く限り、シータの事はかなり気に入ってるらしい。けれど、ヨンクラに興味があるかと言われると怪しい。


 あの子は走る車より、喋るクマ本人を抱きしめに行くタイプだ。


「……やめとこ」


 棚に戻す。


 買ってあげたい気持ちと、喜んでほしい気持ちは、似ているけれど違う。


 私はまだ初任給に浮かれている。ここで勢いだけで買うと、帰ってから「違ったな」となるやつだ。


「白山くん、買わないのかね?」


 店長が横から顔を出した。


「うわっ」


「うわとは何だ」


「気配を消して近づかないでください」


「消していない。君がそれだけ真剣だったということだ」


「それは……まあ」


 店長は棚を見る。


「弟妹への贈り物か」


「何で分かるんですか」


「君は、自分のものを見る時より弟妹のものを見る時の方が目が真剣だ」


「そんな分かりやすいですか」


「分かりやすいとも」


 店長は楽しそうに笑った。


「だが、良い判断だ。玩具は与えれば良いというものではない。本人が欲しいと思う余白も含めて遊びだ」


「まともなこと言ってる……」


「フフフ、今日のワタシはまとも判定が多いな」


「普段の反動です」


 シータがカウンターから声をかけてくる。


「ユズちゃん、商店街を回ってみたら? 景娯くんと想楽ちゃんに合うもの、玩具店以外にもあるかも」


「商店街か……」


 確かに商店街を見るのは良いかもしれない。


 ここ一ヶ月、私は世界征服玩具店と地下施設ばかり見ていた。でもこの店は商店街の中にある。店長たちが言う提携店舗も気になる。


 弟妹のものも探せる。

 両親のものも探せる。

 ついでに、自分のものも……いや、そこは後で考えよう。


「よし。休憩時間に少し回ってきます」


「ならば、そのバッジの動作確認も兼ねるといい」


 店長が言った。


「やっぱり実験じゃないですか」


「実地確認だ」


「言い方を変えても中身が同じです」


「白山くん」


 店長は妙に真面目な顔になった。


「世界征服は、地域密着から始まる」


「言ってることの規模が合ってないんですよ」



 休憩時間。


 私はピンバッジをつけたまま、商店街に出た。


 スマホケースの画面には、簡単なマップが表示されている。商店街の地図。その中に、いくつか小さなマークがあった。


 駄菓子屋。雑貨屋。惣菜屋。本屋。服屋。


 全部にθδマークがついている。


「本当に提携してるのか……」


『第一提携店舗まで、直進六十メートルです』


 バッジからシータ音声の案内が流れる。


「ナビまである」


『商店街征服率、現在二パーセントです』


「その表示いる!?」


 思わずバッジにツッコんだ。


 通りがかったおばちゃんが、「元気ねえ」と笑って通り過ぎる。違うんです。独り言ではなく、バッジに話しかけているんです。いや、その説明も十分怪しい。

 

 近くのATMで、必要な分だけお金を下ろす。

 初任給を全部財布に入れる勇気は、さすがになかった。


 最初に向かったのは、駄菓子屋だった。


 商店街のメイン通りから少し脇に入ったところにその店はあった。


 一軒家の一階部分だけを店舗にしたような、古い建物。二階は普通に人が住んでいそうで、外壁には年月の色がしみついている。軒先には色あせた看板。店の前にはガチャ台や、くじ引きの箱、安いおもちゃが並んでいた。


 夕方なら子供たちでいっぱいになりそうな店だ。


 昼前の今は、少し静かだった。


 ガラス戸を開けると、小さな鈴が鳴る。


「いらっしゃい」


 店の奥から声がした。

 レジのところに、おばあちゃんが座っていた。白髪をひとつにまとめて、椅子に腰かけている。店番という言葉がぴったりの人だった。


 店内は狭い。けれど、棚にはぎっしりお菓子が詰まっている。十円、二十円、三十円。小さな袋菓子、ラムネ、チョコ、謎のゼリー、当たり付きのガム。天井からは小さなおもちゃやくじがぶら下がっている。


 懐かしい。


 何がどこにあるのか分からないのに、なぜか全部ある気がする。そういう店だ。


 私は胸元のピンバッジに手を添えた。


 バッジが小さく光る。


『提携店舗を確認しました』


「おや」


 おばあちゃんが私を見る。


「あんた、新しい子かい」


「え、分かるんですか?」


「そのクマのグッズを持ってる子は、だいたいあっちへ行くからねえ」


「あっち」


 おばあちゃんは、レジの後ろを親指で示した。


 そこには、古い木の扉があった。


 ペンキが剥がれかけていて、取っ手も少し錆びている。どう見ても、物置か勝手口だ。秘密基地の入口というより、掃除用具が入っていそうな扉である。


「……あれですか?」


「そうだよ」


「地下への入口が?」


「そう」


「物置にしか見えないんですけど」


 おばあちゃんは笑った。


「そう見えるようにしてるんだよ」


「なるほど。ちゃんと隠してる」


「レジの後ろの扉を勝手に開ける子なんて、まずいないからねえ」


「それは確かに」


 普通の駄菓子屋で、レジの後ろの扉を勝手に開ける子供はあまりいない。いたら普通に怒られる。


 おばあちゃんは、私の胸元のバッジをちらっと見た。


「乗るなら何か買ってきな。うちは駄菓子屋だからね」


「秘密通路より商売優先なんですね」


「当たり前だよ。秘密だけじゃ店は続かないからねえ」


 それはそうだ。通路としてだけ使われていたらただの管理人になってしまう。


「子供が出入りする店なんだから、お菓子の一つも買わずに奥へ行くのは無粋だよ」


「無粋……」


 秘密組織の入口で言われる言葉ではない。

 でも、なんだか気に入ってしまった。


 私は棚を見て回る。

 景娯には何がいいだろう。


 黒っぽいパッケージの、やたら辛そうなお菓子が目に入る。名前が妙に物騒だ。中二病の弟には刺さるかもしれない。いや、味で嫌がる可能性もある。


 隣に、カードゲームっぽいイラストのシール付きお菓子があった。こっちの方が無難か。


 想楽には、可愛い包装のラムネと、小さな動物型のチョコ。あの子は食べる前に並べそうだ。無表情で「この子はこっち」とか言いながら、謎の配置を作りそうである。


 両親用には袋菓子を少し。


 かごに入れていくと、思ったより量が増えた。


「買うねえ」


 おばあちゃんが言った。


「初任給なので」


「へえ。ガングのとこで働き始めた子だね」


「ガング」


 呼び方が強い。


「店長のことですか?」


「そうだよ。そんな変な名前、あの子しかいないだろ。あの子は昔から変わった子でねえ」


「昔からなんですか」


「昔からだよ。今より少し静かだったけど、変なのは変だった」


「そこは変わらないんですね」


 おばあちゃんは楽しそうに笑いながら、レジを打つ準備をした。


「でも悪い子じゃないよ」


「それは……何となく分かってきました」


「子供が泣いてると、放っておけないからね」


 その言葉に、少しだけ手が止まる。


 店長は変だ。うるさい。世界征服とか言う。玩具に余計な機能を足す。赤いボタンを五つ並べる。


 でも。

 子供が遊んでいる時の店長は、妙に真剣だ。


 負けず嫌いで、子供相手にも本気で挑む。そのくせ、子供が本当に傷つきそうなところでは、変な形で手を伸ばす。


「……変な人ではあります」


「それはそう」


 おばあちゃんは即答した。

 私は笑ってしまった。


 レジにかごを置くと、おばあちゃんが中身を見た。


「弟くんと妹ちゃんの分かい?」


「えっ」


「あと両親の分」


「……分かります?」


「分かるよ。自分の分がない」


 私はかごを見る。

 確かに。


 景娯用。想楽用。母と父に出す分。ついでに学校で食べられそうなものも、たぶん想楽にあげる前提で選んでいた。


「自分の分は?」


「いや、私は別に」


「初任給なんだろう?」


「そうですけど」


「なら一つくらい、自分が今食べたいものを選びな」


「エレベーター代ですか?」


「違うよ。働いた子への駄菓子だよ」


 さらっと言われて、私は少し黙った。


 働いた子への駄菓子。

 そんな言い方をされると、なんだか断りづらい。


 私は棚に戻って、しばらく悩んだ。


 高いものを選ぶ気にはならない。というか駄菓子屋なので高いものはそんなにない。でも、安ければいいというわけでもないと言われた気がする。


 今、食べたいもの。


 目に入ったのは、昔ながらのラムネだった。小さな袋に入った、丸くて白いラムネ。子供の頃によく食べたやつだ。


 私はそれを一つ取って、レジに戻った。


「これで」


「はいよ」


 おばあちゃんは何も言わずに会計した。


 お金を払う。

 初任給から出す、初めての買い物。


 大げさかもしれない。でも、少しだけ特別な気がした。


「じゃ、奥を開けるよ」


 おばあちゃんは立ち上がり、レジの後ろのボロい扉に手をかけた。


 ぎい、と音がする。

 古びた扉が開く。


 その向こうにあったのは、真新しいエレベーターだった。


「ギャップがすごい!!」


 思わず声が出た。


 古い木の扉の奥。そこだけ別世界のように明るい。壁は白く、操作盤は銀色。扉には小さくθδマーク。床までぴかぴかだ。


 駄菓子屋の奥にあるには、未来すぎる。


「最初はみんなそう言うねえ」


 おばあちゃんは慣れた様子で笑う。


「これ、いつ作ったんですか」


「さあねえ。ある日、ガングが『おばあちゃん、少し奥を改装してもいいかね!』って言ってきてね」


「少し?」


「少しって言ってたよ」


「絶対少しじゃないですよね」


「そうだねえ」


 おばあちゃんは、まるで棚を一つ増やしたくらいの軽さで言った。


 私が扉に近づくと。


『認証しました。白山遊子さん、休憩中です。地下移動を行う場合、帰還予定時刻に注意してください』


「勤務管理までされてる」


 エレベーターの扉が開いた。


 中には乗らなかった。今日は地下に行くのが目的ではない。動作確認だけだ。


「すごいですね、本当に」


「便利だよ。小さい子が商店街の端から端まで歩かなくてもいいしねえ」


「発想が秘密基地じゃなくて生活導線なんですよね」


「荷物が多い子もいるからね」


 おばあちゃんの一言は、妙に強かった。


 秘密通路。地下施設。世界征服。


 言葉だけ並べると怪しいのに、ここでは「子供が楽に移動するため」になる。

 それが、この商店街なのかもしれない。


 私はラムネの袋を開け、一粒口に入れた。

 しゅわっと溶ける。


 景娯のものでも、想楽のものでも、両親のものでもない。


 私が、私のために買ったラムネ。


 たったそれだけなのに、少しだけ胸の奥がくすぐったかった。


 駄菓子屋を出たあと、私は商店街を少し回った。


 次に向かったのは本屋だ。


 古いけれど、児童書から雑誌まで揃っている町の本屋。入口には新刊のポップが並び、奥にはホビー誌や漫画雑誌の棚がある。


 ピンバッジが小さく光る。


『第二提携店舗を確認しました。商店街征服率、五パーセントです』


「買い物するたびに征服率上げるのやめてほしい」


 私は小声で言った。


 本屋の奥に行くと、カードゲーム関連の雑誌と、ヨンクラの改造記事が載った本があった。


 景娯なら読むだろう。


 読みながら「この理論は浅い」とか言いそうだ。言いそうだけど、最後まで読む。そういう弟である。

 私は少し悩んで、ヨンクラの理論寄りの本を一冊選んだ。


 黒炎四式の次に、何か作るかもしれない。

 それを想像すると、少し楽しい。


 会計を済ませて外に出る時、入口近くの棚に古い特撮ヒーローのムック本が置かれているのが見えた。

 少しだけ表紙が色褪せている。


「こういうのも置いてるんだ」


 私は何となく表紙を見た。


 赤いマスクのヒーローが、青空を背にポーズを決めている。古いけれど、妙に熱い。


 本を棚に戻し、次に向かったのは雑貨屋。


 文房具や学用品、キーホルダー、ヘアゴム、小さなポーチなどが並ぶ店だ。想楽に合いそうなものが多い。


 私はシータ色とデルタ色が入った小さなヘアゴムを手に取った。


 想楽は髪を結ぶ時もあるし、ぬいぐるみに巻く可能性もある。どちらにしても使うだろう。あの子は物の用途を勝手に広げる才能がある。


 ふと、隣に小さなチャームが並んでいるのが見えた。


 星形。動物型。キャンディ型。色々ある。


 その中に、透明な小さな星のチャームがあった。淡いピンクと青が混ざっている。シータとデルタっぽい色だ。


 私はそれを手に取った。


 支給されたスマホケースにつけたら、少し可愛いかもしれない。

 いや、スマホケースは業務用だ。勝手にデコるのはどうなのか。


 でも、ケース自体は私専用だ。

 専用なら、少しくらい私っぽくしてもいいのではないか。


 いやいや、待て。これは仕事道具だ。仕事道具に私っぽさを出す必要はあるのか。


 あるような気もする。ないような気もする。


 私は今、合理性の皮をかぶった欲望と向き合っている。


『ユズちゃん、それかわいいね〜』


 ピンバッジからシータの声がした。


「聞いてたんですか!?」


『通信は開いてるよ〜』


「プライバシー!」


『買っちゃえば?』


「これは業務用ケースの親しみやすさを向上させるための検討で」


『かわいいから欲しいんだよね〜』


「親しみやすさの向上です」


『二回言った』


 デルタの声まで入った。


「二人とも暇なんですか!?」


『店番中だ』


『ユズちゃんが楽しそうだから〜』


「楽しそうじゃないです。冷静に必要性を判断しています」


『じゃあ必要だな』


 デルタが短く言った。


「雑!」


『自分のもんを一つくらい買え』


 その言い方は、少しだけ駄菓子屋のおばあちゃんに似ていた。


 私はチャームを見下ろす。


 値段は高くない。むしろ安い。買っても財布に大きな影響はない。

 でも、自分のために買うというだけで、少し迷う。


 景娯の本は迷わず買えた。想楽のヘアゴムも迷わない。両親のものだって、たぶん迷わない。


 自分のチャームだけ、妙に理由を探している。


「……まあ、ケースの親しみやすさ向上なので」


『うんうん』


『そういうことにしとく』


「何ですかその言い方」


 私はチャームをかごに入れた。


 会計を済ませて、外に出る。

 スマホケースにチャームをつけると、思ったよりしっくりきた。支給品だったケースが、少しだけ私のものになった気がする。


 胸のあたりがまた、少しくすぐったい。

 悪くない。

 自分のために使うのも、悪くない。


 でも次に考えたのは、想楽がこのチャームを見て「かわいい」と言うかどうかだった。


 そこは揺るがないらしい。



 休憩時間が終わる前に、私は世界征服玩具店へ戻った。


「白山くん、戻ったか」


「戻りました。休憩時間内です」


「うむ。バッジの動作は?」


「問題なかったです。でも商店街征服率って表示はいりません」


「いるだろう」


「いりません」


「地域制圧の進捗が分かる」


「買い物の達成率みたいに言わないでください」


 シータが私の買い物袋を見て、目を輝かせたような気がした。


「いっぱい買ったね〜」


「ほとんど弟妹のものですけど」


「ユズちゃんのは?」


「ラムネを買いました。あと、これ」


 私はスマホケースにつけたチャームを見せた。


 シータがぱっと明るい声を出す。


「かわいい〜! ユズちゃん仕様だね!」


「業務用ケースの親しみやすさ向上です」


「気に入ってるな」


 デルタが言う。


「……まぁ、それなりに?」


「素直じゃないな」


「今日は初任給なので、多少は素直です」


 店長はふむ、と頷いた。


「労働の対価をどう使うか。それもまた、社会勉強だ」


「店長が言うと急に先生っぽいですね」


「ワタシは世界征服の先生だからな」


「台無しです」


 私は笑いながら、買い物袋をカウンターの下に置いた。

 その後の勤務は、いつもより少しだけ真面目にできた気がする。


 レジを打つ。棚を整える。子供に商品の場所を教える。ラヴェンナの棚を直す。ヨンクラのパーツを見比べて悩んでいる小学生に、前回の大会で見た話を少しだけする。


 普通の玩具店みたいな仕事。

 普通ではない玩具店で、普通みたいな仕事をしている。

 その感覚にも、少しずつ慣れてきた。


 勤務が終わる頃には、商店街の空気も朝とは変わっていた。


 家に帰るのだろう子供たちがちらほら増えて、惣菜屋の前には夕飯のおかずを買う人が並び始めている。


 私はカウンターの下から買い物袋を取り出した。


「帰りに惣菜屋へ寄ってから帰ります」


「家の分かな〜?」


 シータが聞く。


「はい。初任給なので、夕飯を少し豪華にしようかと」


「いいね〜」


 デルタが頷く。


「買いすぎて潰すなよ」


「財布をですか? 袋をですか?」


「両方だ」


「現実的な心配をどうも」


 店長は白衣を翻し、なぜか偉そうに頷いた。


「よい。家族への還元もまた、世界征服の第一歩だ」


「何でも世界征服に繋げないでください」


「家庭を制する者は世界を制する」


「家庭を制したりしませんよ!」


 私は店長たちに挨拶して、惣菜屋へ向かった。


 商店街の角にある店で、夕方になると揚げ物の匂いが本気を出す。コロッケ、メンチカツ、唐揚げ。空腹時に通ると危険な店だ。


「あら、ガングちゃんとこの新しい子じゃない」


 店のおばちゃんが私を見るなり言った。


「ガングちゃん」


「ガングちゃんの店で働いてるんでしょ?」


「あ、はい。白山です」


「大変でしょう」


「かなり」


 即答すると、おばちゃんは豪快に笑った。


「でも悪い子じゃないのよ、あの子」


「みんなそう言いますね」


「変だけどね」


「それもみんな言います」


 商店街での店長評価は、どうやら「変だけど悪くない」で統一されているらしい。


「店長、そんなに昔からここにいるんですか?」


「いるわよ。前の玩具屋の頃からねえ。子供の頃から出入りして、いつの間にか店を継いで、いつの間にか地下に変なもの作って」


「いつの間にかで済ませていい規模じゃないです」


「まあ、商店街も色々助けてもらってるからね。防犯カメラ直してもらったり、祭りの音響組んでもらったり、迷子探してもらったり」


「色々やってるんですね」


「シータちゃんが見つけるの早いのよ」


 確かに早そうだ。


 商店街全体に目があるようなものだ。怖いと言えば怖いが、子供を探すにはこれ以上ない。


「あとガングちゃん、子供相手に本気で遊ぶでしょ」


「遊びますね」


「今どき、あそこまで本気で相手してくれる大人も珍しいのよ」


 おばちゃんはコロッケを紙袋に入れながら言った。


「うるさいけど」


「そこは否定できません」


「はい、コロッケ五つ。初任給なら一個おまけ」


「え、いいんですか?」


「いいのいいの。家で食べな」


「ありがとうございます」


 私は惣菜の袋を受け取った。

 温かい。


 この温かさを持って帰れば、家の夕飯が少し豪華になる。想楽はたぶん無表情で喜ぶ。景娯は「別に」と言いながら二個食べるかもしれない。


 想像すると、また嬉しくなる。


「あ、そうだ」


 おばちゃんがふと思い出したように顔を上げた。


「白山ちゃん、ガングちゃんに伝言頼んでもいい?」


「はい、何ですか?」


「今度の商店街イベントの企画、そろそろ考えといてって言っといて。去年みたいに直前で変なの持ち込まれると、こっちの準備が大変だから」


「去年、何したんですか」


「巨大しゃぼん玉発生装置」


「楽しそうではありますね」


「風向きが悪くて、八百屋の大根が全部きらきらになったのよ」


「最悪だ」


 おばちゃんは笑いながら続ける。


「子供たちは喜んでたけどね。今年はもう少し、ちゃんと段取りのあるやつにしてほしいのよ。ヒーローショーとか、工作教室とか、そういう分かりやすいやつ」


「ヒーローショー」


「ガングちゃん、そういうの好きそうでしょ」


「好きそうですね。ものすごく」


 というか、余計な改造をしそうだ。


 私はもう一度、惣菜の袋を持ち直した。


「分かりました。伝えておきます」


「ありがとね。あと、変な爆発とか煙とかはなしって言っといて」


「それも伝えます」


『商店街征服率、八パーセントです』


 ピンバッジが空気を読まずに言った。


「だから征服じゃなくて買い物です」


 バッジにツッコむと、おばちゃんが楽しそうに笑った。


「ガングちゃんっぽいわねえ」


「本当に、どこにでも店長の影がある……」


 私は買い物袋を持ち直した。


 駄菓子。景娯の本。想楽のヘアゴム。家のコロッケ。自分用のラムネはもう食べた。スマホケースには、小さなチャーム。


 初任給は、思ったより早く減った。


 でも、不思議と損した気はしない。

 むしろ、袋が増えるたびに嬉しくなった。


 景娯が嫌そうな顔をしながら本を受け取るところ。想楽がヘアゴムを手に取って、何に使うか真顔で考えるところ。家の食卓にコロッケが並ぶところ。


 考えるだけで、かなり元が取れている。


 ただ、スマホケースについた小さなチャームを指で弾くと、少しだけ違う嬉しさもあった。


 自分のために買うのも、案外悪くない。


 まあ、基本は弟妹優先だけど。


 そこは揺るがない。


 伝言を忘れる前に、スマホで連絡しても良かったが私はもう一度だけ世界征服玩具店へ戻った。


 店の前まで来ると、ちょうど店長が看板の下で何やら工具を持っていた。


「白山くん、帰ったのでは?」


「惣菜屋さんから伝言です」


「ほう」


「今度の商店街イベントの企画、そろそろ考えておいてほしいそうです。あと、変な爆発と煙はなしで」


「注文が多いな」


「去年、巨大しゃぼん玉で大根をきらきらにしたらしいですね」


「美しかったぞ」


「惣菜屋さんは困ったって言ってました」


 店長は鼻の頭まで下がった眼鏡をくいっと上げようとして、上がりきらなかった。


「商店街イベントか……ふむ」


 その顔が、少しだけ楽しそうになる。


「子供たちが喜ぶ催しが必要だな」


「変な方向に行く前に言っておきますけど、安全第一でお願いします」


「当然だ」


「今の当然、信用していいやつですか?」


「白山くん、君はワタシを何だと思っている」


 その時、店の外で誰かが立ち止まる気配がした。

 何となく顔を上げる。


 アーケードの灯りの下に、一人の男の人がいた。


 年齢は、たぶん大人。二十代後半か、三十代くらいだろうか。少しくたびれたジャケットを着て、手には本屋の袋を持っている。


 その人は、世界征服玩具店の看板を見上げていた。


 それから入口のシータとデルタを見て、目を見開く。


 シータは動かなかった。

 デルタも、いつものようにただ立っているだけだった。


 初見の大人に向かって、いきなり喋ったりはしないらしい。そういうところは妙に慎重である。


「……ん?」


 私が首を傾げると、その人はゆっくり店に近づいてきた。


 男の人は、看板をもう一度見た。


「世界征服玩具店……」


 小さな声だった。

 それから、店長を見た。

 店長も、その人に気づいたようだった。


 鼻の頭まで下がった眼鏡の奥で、目がわずかに細くなる。


 男の人が呟いた。


「……黒川さん?」


 その声には、驚きと、懐かしさと、少しだけ置いていかれたような響きがあった。


 店長は工具を置いた。


「む」


 短く声を漏らす。

 私は店長と男の人を交互に見た。

 どうやら、ただのお客さんではないらしい。


 男の人は、もう一度店名を見上げた。


「……前の店、なくなったのか」


 商店街の音が、少しだけ遠くなる。

 シータとデルタも、いつもより静かに感じた。


 店長は白衣を軽く払うと、いつものように胸を張った。


「なくなってはいない」


 そして、芝居がかった声で言う。


「進化したのだ」


「いや、店名が物騒になりすぎだろ……」


 男の人が、心の底から困惑した顔で言った。

 その反応は、とてもまともだった。


 私は思わず頷きそうになった。

 そうですよね。

 普通、そう思いますよね。


 けれど店長は、どこか嬉しそうだった。


「久しいな、緋村くん」


 初めて聞く名前だった。


 緋村と呼ばれた男の人は、苦笑いを浮かべる。


「本当に、何やってるんですか。黒川さん」


 店長は高らかに笑った。


「見ての通りだ!」


 見ても分からないから聞いているのでは。

 私はそうツッコミかけて、やめた。


 今日の私は初任給で少しだけ機嫌がいい。

 だから、少しだけ様子を見ることにした。


 ただし、店長がまた余計なことを始めたら、すぐ止める。


 私は胸元のピンバッジにそっと触れた。

 小さなバッジは、静かに光っている。


 給料明細。スマホケース。秘密通路。駄菓子屋のエレベーター。弟妹へのお土産。自分用のチャーム。商店街イベントの伝言。


 働き始めて一ヶ月。


 私はようやく、この店に少し慣れてきた気がしていた。


 でも、どうやら。


 世界征服玩具店は、私が慣れた頃に、また新しい変なものを連れてくるらしい。


 勘弁してほしい。


 ほんの少しだけ、楽しみなのが悔しいけれど。

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