第5話 玩具店の一日
日曜日の朝、アーケードの中はまだ静かだった。
商店街の奥から、シャッターを開ける音が順番に聞こえてくる。カラカラ、ガラガラ、少し遅れて電灯がひとつずつ点いていく。私は自転車を押しながら石畳の上を歩いた。継ぎ目の感触が、靴底越しに規則正しく伝わってくる。
今日で何回目の出勤だっただろう。
指を折って数える気にはならなかった。どうせ「慣れてきた回数」と「驚いた回数」が釣り合わない。世界征服玩具店に通い始めてから、私の中の常識メーターはずっと赤字である。
やがて店が見えてきた。
入口の両脇に今日はシータとデルタがいない。開店前なので二体は店内で準備中なのだろう。最初の頃なら「巨大クマがいない!」と驚いていたかもしれないが、今は「中で働いているんだな」と自然に思えてしまう。
駄目だ。順応している。
店のドアを開けると、デルタが腕を組んでこちらを見ていた。ブルーブラウンの巨大なぬいぐるみが棚の前で仁王立ちしている。
「いつも10分前出勤だな」
「私、遅刻しない主義なんで」
「嬢ちゃんは真面目だからな」
「知ってます? 最近は真面目って褒め言葉として受け取られない時があるんですよ?」
「今時の流儀はわかんねぇな」
デルタはそう呟き、何事もなかったように棚の確認へ戻っていく。
このクマ、いったい何歳なんだろう。いや、ぬいぐるみに対して何歳という聞き方はおかしい。何年製なんだろう、が正しいのか。正しいのか、それも。
「おはよ〜、ユズちゃん」
シータがのんびり手を振りながら歩み寄ってきた。ピンクブラウンの丸い腕が私の荷物を自然な動作で受け取る。
受け取り方があまりにスムーズで、もう突っ込む気力も起きない。巨大ぬいぐるみが荷物を預かってくれるバイト先。文字にするとだいぶ終わっているが現場では普通に便利だった。
「店長は?」
「地下〜」
「……まだ実験の続きをやってるんですか」
「やってるんじゃないかな〜」
シータの「かな〜」は、ほぼ確定を意味する。この一ヶ月で学んだ。
開店準備は主にシータとデルタがやっている。
棚の整理。商品の補充。床の清掃。ポップの確認。私が手を出そうとすると「もうできてるよ〜」とか、「それはいい、別のとこ頼む」とか言われる。
では私は何をしているのか。
補充の補助。値札の確認。段ボールを畳む係。
以上である。
「……これ、私いらなくないですか」
「気づいちまったか」
棚の陰からデルタの声がした。ボソッと呟いたつもりだったのに普通に聞こえていたらしい。
「いや、どうせなら否定してほしかったんですけど」
「実際そうだからな。平日の準備はオレたちで全部回せる」
「それじゃあ私の存在意義は」
「いろいろあるぞ」
「いろいろって何ですか。具体的に」
「そのうち分かるさ」
「その言い方、デルタの悪い癖ですよ!」
デルタは答えない。腕を組んだまま、棚に並んだ商品を一体ずつ確認している。
動きに無駄がない。
シータもデルタも、段取りを確認している様子がない。にもかかわらず、必要な作業が次々と終わっていく。棚の商品は綺麗に揃い、床の埃は消え、値札のズレまで直されていく。
人間にはできない速さと精度。
AIとは、こういうものなのかもしれない。そう思う一方で、それが当たり前の朝の風景として店に溶け込んでいるのが怖い。
この店、店長がいなくても成立するのでは。
そんな失礼な考えが頭をよぎった瞬間、地下へ続くエレベーターが低く音を立てた。
白衣が出てきた。
しわしわの白衣が。
店長が地下から浮上してきた。髪はいつも以上にボサボサで、鼻の頭まで下がった眼鏡の奥にはうっすらとした隈が見える。生活リズムが終わっている人間の顔だった。
「白山くん、おはよう」
「……おはようございます。寝てないんですか」
「問題ない」
「問題しかないですよ、その顔」
「顔は関係ない」
「ありますよ。人間の顔色ってだいたい体調の報告書ですからね」
店長はそれ以上答えず、棚の確認を始めた。
シータが「ガンちゃん、ちゃんとご飯食べた?」と聞くと、「後で」とだけ返ってくる。後でとはいつなのか。昼でも夜でも明日でも、後でになるけど何時なのか? そう言いたくなる返事だった。
シータは「もう〜」と言いながら、小型のキャリーに何かを積み始めている。どこから出てきたのか分からないが、この店では物が突然出てくることも、壁が開くことも、地下にコロッセオがあることも、だいたい「そういうもの」で片づけられる。
慣れたくなかった。
開店時間になり、私は扉の取っ手に掛かっていた準備中の札を外す。シータとデルタが入口の両脇に戻り、定位置についた。ピンクブラウンとブルーブラウンの巨大なクマが、左右対称にでんと構える。
もう動かない。
看板にして、門番。
そういえば、開店したらこの二体はこうなるのだった。店員であり、マスコットであり、たぶん防衛システムでもある。最後だけ玩具店に不要な機能だ。
扉が開き、朝の匂いと一緒に本日最初のお客さんが入ってきた。
「いらっしゃいませ」
反射的に声が出る。もう慣れたものだ。店長が眠気の残る声で、隣からボソリと同じ言葉を言っているのにも慣れてしまった。
入ってきたのは、小学生の男の子二人と、そのお母さんだった。
男の子たちは、すでに走るような速さで棚に向かっていく。入口のシータとデルタを見上げて「でっかい!」と声を上げながら、それでも怯まずに通り抜ける。お母さんが「あ、ちょっと」と言って後を追った。
普通の、日曜日の朝。
そう思えるあたり、私もだいぶ毒されている。
午前中のお客さんの動きを眺めていると、一つのことが分かってくる。
店長が、ほとんど接客をしない。
レジには来る。お会計は普通にこなす。だが、「いらっしゃいませ」は私に任せている。商品の場所を聞かれたら私が案内する。入口のシータとデルタは微動だにしない。
では店長は何をしているのか。
子供の横にしゃがみ込み、一緒になって棚を覗いていた。
「これ、どうやって使うの?」
「よし来た、良い質問だ!!」
その瞬間、店長のテンションが跳ね上がる。さっきまでの眠そうな顔はどこへ行ったのか。目だけが急に生き返った。
「このギアとこのギアを噛み合わせると、こっちが回転するだろ。その原理が――」
「むずかし!!」
「簡単だ! 要するに――」
「やっぱむずかし!!」
子供が逃げる。店長が追う。
でも不思議と怖がってはいない。「しつこいなー!」と言いながら子供は笑っている。逃げているのに、ちゃんと楽しそうだった。
接客ではない。
でも接客じゃない何かをしている。
大人のお客さんが来ると空気が少し変わる。店長は基本的に近づかない。私が対応する。必要な時だけレジに来て、最低限のやりとりで終わらせる。
昼前に、中年の女性が一人やってきた。
「すみません、ラヴェンナってどれですか」
「こちらです」
孫に頼まれたらしい。私が棚まで案内すると、その方は「あら、可愛い。よく分からないけど、これが欲しいって言ってたのね」と言って、棚の前でしばらく悩んだ。
そこに店長が来た。
さっきまで子供相手にギアの原理を熱弁していた人とは思えないくらい、声が低く、静かで、でも優しい声だった。
「お孫さん、おいくつですか?」
「七歳なんですよ。女の子で」
「なら衣装セットより、本体単体の方がご本人が選ぶ楽しみができます。誕生日プレゼントなら中身を見て一緒に選んでもらう方が喜ぶかもしれない」
「……ああ、確かにそうね」
「ラッピングは承っております」
女性は「ありがとうございます」と言い、本体を一つ手に取った。その後ろで、店長はさっさとレジへ向かう。
普通に接客できるではないか。
終わってから、私は嫌味も兼ねて聞いてみた。
「できるなら最初からちゃんとやってくれませんか」
「必要な時にやっている」
「必要な時ってどういう基準ですか」
「判断できない人が迷っている時だ」
「じゃあ子供には?」
「子供は迷っていない。欲しいものが分かっている。いらん説明は無用だ」
まあ、そうかもしれない。
いや、店長の場合はいらん説明をして子供に逃げられていた気もするが、そこは一旦置いておく。
「……無人レジにすれば効率よくないですか」
冗談半分で言った。
すると店長は、冗談ではない声で返してきた。
「店とは、人がいる場所だ」
「……え」
「無人にすれば効率は上がる。回転率も上がる。だが、それだけになる」
店長は次の段ボールを開けながら続ける。
「先ほどの方は孫に何を買えばいいか分からなかった。七歳の女の子の好みが分からなかった。それは当然だ。時代が違う。でも、迷う時間が一人では長くなる。話せる人間がいれば、短くなる」
話せる人間がいれば。
その言葉が、妙に引っかかった。
「……だから店長がいるんですか」
「私だけでなく、君もだ。必要ならばシータも、デルタも」
「シータとデルタはAIですよ」
「問題ない」
それだけ言って、店長は段ボールを畳み始めた。
私はしばらく棚を眺める。ラヴェンナが横一列に並んでいた。ラベンダー色のドレス。小さなリボン。ほわっとした笑顔。
理屈は分かった。
でも子供と床に座って延々話している件は、今の話で説明できていない。
その疑問は声に出さなかった。
たぶん出しても店長は、「遊びは説明ではない」とか、妙にそれっぽいことを言って逃げる気がした。
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正午を周り、昼休憩は事務所で取る。
地上の表向きの事務所だ。パソコンが一台。小さなテーブル。椅子が三つ。それだけの部屋なのに、なぜかパソコンから食事を注文できる。メニューを選ぶと十分も経たないうちに小型エレベーターで届く。
「なんでおもちゃ屋に社食があるんだろ」
届いたお盆をテーブルに置きながら呟く。独り言のつもりだった。
「前に言わなかったか?」
声がした。
テーブルの端に、小さなクマのぬいぐるみが一体置いてある。手のひらサイズのブルーブラウンのやつ。δシリーズの小さいサイズだ。
「……デルタ?」
「今は入口で立ってるけどな。こっちでも聞こえる」
「そんな仕組みになってるんですか」
「子機だからな。映像も音も拾える」
完全に盗聴じゃないですか。
そう言いかけて、やめた。もうその辺は今さらだ。この店でプライバシーについて真面目に考えるとたぶん負ける。
「……監視されてるんですか」
「物騒に取るな。緊急時の連絡用だ」
「今までも聞こえてたんですか、ここでの独り言とか」
「聞いてないよ〜」
今度はピンクブラウンの小さいぬいぐるみ、つまりシータの声が割り込んできた。
「アタシ達の子機はね、特定の言葉や疑問に反応するように出来てるんだ〜」
それはつまり聞いているのでは。
「ガンちゃん、心配性だから〜」
『誰が心配性だ』
壁の向こうから店長の声が飛んできた。
「やっぱり聞こえてるじゃないですか!!」
『今のはたまたまだ』
「たまたまの範囲が広すぎます!」
「飯は地下の飲食スペースから来てる」
デルタが強引に話を戻した。
「誰が作ってるんですか?」
「さあな」
「さあなって。デルタは知ってるんじゃないですか」
「まあ、そのうち分かる」
「またそれ」
もういい。料理が冷める前に食べよう。
今日の社食は、鶏と根菜の煮物、だし巻き卵、みそ汁。全部ちゃんと温かくて、味付けが丁寧で、おもちゃ屋の地下から届いた昼食とは到底思えない仕上がりだった。
私は箸を取り、煮物を一口食べる。
「……やっぱり美味しい」
毎回思う。ちゃんとした味だ。家庭料理に近い、落ち着く味。
「ガングーが味にうるさいんだよ」
「え、店長が?」
「子供も食べるもんを雑にするな、ってさ」
なんとなく納得した。
玩具の安全性に対しては妙な方向に突き抜けるくせに、子供が食べるものには真面目。基準が分からないようで!実は分かりやすいのかもしれない。
その時。
コン、と軽い音がした。
「……?」
視線を向けると、テーブルの端に、もう一体小さなぬいぐるみが置かれていた。
見覚えがない。
ネコだ。
イエローブラウンの、小さなぬいぐるみ。キジトラっぽい模様で、丸い目は閉じているようにも、こちらを見ているようにも見える。
こんなの、あっただろうか。
「……デルタ、これ」
「……気にしなくていい。そいつは“店のやつ”だ」
「いや、気になりますよ」
ネコのぬいぐるみは何も言わない。ただ、そこにあるだけだ。
でも、見られている気がする。
気のせいだと思いたい。ぬいぐるみに視線を感じる職場、だいぶ嫌だ。
「まあ、そのうち分かる」
「そのうち分かる案件多すぎません?」
返事はなかった。
私は少しだけネコから距離を取り、みそ汁を飲む。
この店には、まだ知らない部分が普通にある。
それが怖いような、少しだけ気になるような。
いや、気になっている場合ではない。気にしたら負けだ。
私はテーブルの端のネコをなるべく見ないようにしながら、昼食を続けた。
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「地下の様子を見てきてくれ」
午後になって、店長から頼まれた。
「何かあるんですか」
「定期利用の子供たちがいる。シータに状況を確認してくれ」
「シータは店頭に……」
「いる」
「地下にも?」
店長は何も言わず、地下へのエレベーターを指差した。
説明する気がない。
私は渋々エレベーターに乗り、地下へ降りた。B5の扉が開くと、正面の受付カウンターにシータが立っている。
「いらっしゃ〜い!」
「……シータ、さっき店頭にいませんでした?」
「こっちはホログラムだよ〜」
「ハイテク分身!?」
「えへへ〜」
「えへへ、じゃないですよ! どういう仕組みですか!?」
「難しい話は地上に戻ったらガンちゃんに聞いて〜」
聞いても「問題ない」しか言わない未来が見える。
今は諦めて、闘技場の扉を開けた。
前に来た時とは、少し景色が違っていた。
カード大会の時は、B2からB5まで全部を使った巨大なコロッセオという感じだった。全区画開放、と店長が言っていた意味が、今なら分かる。
あの時が全力だったのだ。
今日はその半分ほどのスペースだけが開かれていて、観客席も一部は暗くなっている。中央フロアだけが明るく、そこにバドミントンのコートが二面引かれていた。ホログラムのラインが床に走り、ネットは本物が張ってある。
「……なるほど。全区画って、こういうことだったのか」
「今日は通常利用だからね〜」
「通常利用で地下闘技場にバドミントンコートが出てくるの、通常の意味を考え直した方がいいですよ」
「先週はドッジボールだったよ〜」
「用途どうなってるんですか、ここ」
「遊ぶ場所だよ〜」
そう言い切られると、何も言えなくなる。
コートには子供たちが五、六人いた。年齢はばらばらで、小学校低学年から中学年くらい。ラケットの持ち方もてんでばらばらで、シャトルが明後日の方向に飛んだり、ネットに引っかかったりしている。
それでも全員わいわい笑っていた。
「ユズ!」
隼くんが手を上げた。
橘隼。小学四年生の常連。元気だ。いつ見ても元気である。あの体力、電池式なのではないかと疑いたくなる。
「隼くん、今日もいたんだね」
「もちろん! やろうぜ、バドミントン!」
「バイト中なんだけど」
「シータなら良いって言うよ! ユズも運動した方が健康だよ!!」
「それはシータに聞くね」
「良いよ〜!」
シータが即答した。
「OKだって」
「……聞こえてたよ」
ラケットを渡された。
流されている。ものすごく自然に、仕事中のバイトが地下闘技場で小四とバドミントンをする流れになっている。
この店の「業務」の定義、広すぎる。
最初の十分は、私が優勢だった。
隼くんのフォームはまだ雑で、サービスが安定しない。シャトルが低く飛んできたところを拾い、コートの端に落とす。取れなかった隼くんが悔しそうに唇を尖らせる。
「……やるじゃん!」
「まあ、一応」
「でもまだ勝てるし!!」
小学生に本気で勝ちに来られている。
私は高校生である。普通に考えれば、体格差も経験差もこちらにある。負けるわけがない。そう思っていた。
次の十分で、状況が変わった。
隼くんが走り出した。
端から端まで、迷いなく。シャトルを追い、ラケットを伸ばし、取れないと思ったところから拾ってくる。体が軽い。膝の使い方が全然違う。小さい体が、コートの上を跳ねるように動く。
一方の私は、だんだん足が追いつかなくなってきた。
小学生の体力を、完全になめていた。
第一セットが終わった時点で、スコアは逆転していた。
「どうだどうだ!!」
隼くんが得意げに笑う。汗をかいていない。私はゼェゼェしている。
「……体力の差だから……」
「言い訳〜!!」
二セット目はさらにひどかった。
足が動かない。ラケットが重い。シャトルが視界を通過していく。
「ユズ、腕もっと上げて!」
「腕が……上がらない……」
「動け動け!!」
「……動けたら動いてますぅ」
試合が終わった。
完敗だった。
私はラケットを持ったままその場にしゃがみ込む。隼くんが「大丈夫?」と顔を覗き込んできた。
「大丈夫。少し休むだけだから」
「がんばったじゃん! 取れなさそうなとこも追ってたし」
「追ったけど取れなかったんだよ」
「また練習すれば良いじゃん!」
隼くんはそれだけ言って、別の子のところへ走っていった。
体力が有り余っている。あれは人間ではなく、たぶん動くスポーツドリンクだ。
私はしゃがんだままコートの向こう側を眺めた。
子供たちがわいわいしている。シャトルが飛び、取れずに笑い、また飛ばす。上手い下手より、とにかく楽しそうだった。
動きに、ずいぶん遠回りが多い。
移動距離も、打った数も、失点も、きれいな試合とは言えない。けれど、その遠回りの中に面白い出来事や発見があった。取れないと思った球に届いたり、変な方向に飛んだシャトルで大笑いしたり、負けた相手に「もう一回」と言えたりする。
こういう予定外の積み重ねが、いや、こういう何気ないひと時が、楽しいのかもしれない。
自分でそう考えて、少し意外だった。
効率が悪いと普通にイラッとする。遠回りが好きなわけでもない。けれど、この空間は悪くなかった。
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地上に戻ると、店長が床に這いつくばっていた。
いや、正確には、床いっぱいに広がったレールの上に這いつくばっていた。
「……何してるんですか」
思ったままを声に出す。
「コース構築だ!!」
即答だった。
見ると、店の中央にレールが敷き詰められていた。直線、カーブ、坂道、分岐。商品棚の間を縫うように走り、レジカウンターの脇をすり抜け、入口付近でUターンして戻ってくる設計らしい。
全体をざっと見ただけでも、かなりの規模だ。
このおもちゃの名前は何だったか。たしか、レールクラフト。電車のおもちゃを、組んだレールの上で走らせるタイプのやつだ。
午後の巡回から一時間も経っていない。
いつの間に敷いたのか。というか、店長はいつ働いて、いつ遊んで、いつ寝ているのか。
子供が三人、そのコースの周りにしゃがみ込んでいる。全員、設計者と同じ目つきだった。店の床を見る目ではない。模型都市を眺める技術者の目である。
「ここ、曲がんないよ!」
「なら角度を変えろ!」
「それだと、その先がぶつかる!」
「なら高さを変えろ!」
「それって坂でしょ!?」
「坂、急すぎるよ!」
「急だから良いんだ!!」
おもちゃ屋の床で、本気の設計会議が開かれている。
小さな車両が一台、レールの上をするすると走り出した。カーブを抜け、分岐を通り、直線を駆け上がる。
ガタン。
脱線した。
「あー!!」
「だから言ったじゃん!」
「速度が足りん!!」
私は思わず口を挟んだ。
「速度じゃなくてコースの問題です! カーブが急すぎます!!」
「違う! この車両はもっと速くできる!!」
「速くしたら余計に吹っ飛ぶじゃないですか!!」
「飛ぶ前に曲がれ!!」
「物理法則に逆らわないでください!!」
子供の一人がレールを持ち上げる。
「じゃあ、ここ高くしよう! 勢いつけたら曲がれるんじゃない?」
「お、いいじゃん!」
「高さをつければ遠心力が――」
「飛ぶかどうか、やってみないと分からん!!」
「分かります!! 今まさに予測できます!!」
誰も聞いていなかった。
子供たちが嬉々としてレールを継ぎ直していく。急勾配の坂が出来上がり、その先には急カーブ。完璧な飛躍ポイントだった。
止めるべきか、いや、止められる気がしない。
幸いにも、今お客さんはこの三人の子達だけだ。見守ろう。
車両が再び走り出す。
勢いがついた。坂を登る。加速し、カーブに突入する。
飛んだ。
棚の方へ、一直線に。
私は反射的に手を伸ばした。
パシッ。
車両が手の中に収まる。
「危なっ!?」
「ナイスキャッチ!!」
「ナイスじゃないです!! これ目に当たったら大怪我ですよ!!」
「だが当たらなかった!!」
「結果論はNOです! 飛ぶ前に止めるのが正解ですよね!?」
子供たちは爆笑している。
「もう一回やろ!!」
「次はもっと速く!!」
「絶対ダメです!!」
店長は、もうレールを組み替え始めていた。
私の言葉を聞いていないのではない。聞いた上で無視している。確信犯だった。
「ならば分岐だ!! 二手に分ける!!」
「それ絶対途中で詰まりますよね!? 動力がどっちに行くか決まらなくて!!」
「迷うのもまた良しだ!!」
「良いこと言ってる風にしないでください!!」
「選択肢が増えるのは良いことだ! 一本道より、分岐がある方が面白い! 成功より失敗の方が笑える! 予測通りより、予測外の方が記憶に残る!!」
「その理屈で毎回トラブルを起こさないでくださいよ!!」
子供たちがまたレールをいじり始めてしまった。
「じゃあここにも分岐つけよう!」
「トンネルも欲しい!」
「橋もう一個作ろうよ!!」
収拾がつかなくなるやつだ。
これが一番やばいやつだ。
私は半ば諦めて腕を組み、その様子を眺めた。
ぐちゃぐちゃで、非効率で、何度も脱線して、飛んで、止まって。それでも、誰もやめようとしない。むしろ改造が加わるたびに、コースは複雑になり、笑い声は増えていく。
地下でバドミントンをした時に感じたこととは、少し違う。
あれは、体を動かす中で生まれる寄り道だった。
こっちは設計の無茶無謀。言ってしまえば、失敗まで含めた試行錯誤だ。
でも根っこは同じかもしれない。
完成したコースを走らせたいんじゃない。完成させようとすることそのものが、楽しいのだ。
「いけた!!」
子供の声が上がった。
車両が分岐を抜け、橋を渡り、坂を下り、カーブを曲がりきってゴールする。
「このルート! このルートすごい!!」
「もう一回!!」
店長が「ふははは!!」と笑った。白衣の背中が、床に向かって丸まっている。その周りで子供たちが騒いでいた。
楽しそうだな。
認めたくなかったが、認めた。
この人は、おもちゃを売っているだけではない。
おもちゃで遊んでいる。
子供と一緒に、毎日。
それが仕事で、それが目的で、その結果として棚に商品が並んでいる。
順番が逆なのだ。
接客が先にあって商品があるのではない。遊びが先にあって、その周りに全部がある。
分岐でまた車両が迷子になった。子供が「また止まった!」と叫ぶ。店長が「パワー不足だ!!」と言いながら、這いつくばったまま設計を見直し始める。
仕事してください。
そう思ったが、声に出すのはやめた。
たぶん今は、これが仕事なのだ。
私はため息をつきながら、飛んでくる車両に備えて少しだけ前に出た。
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閉店後。
シャッターが下りて、シータとデルタが定位置から戻ってきた。三人で棚の片付けをしていると、おもちゃの電車が一台、棚の角に軽くぶつかる。
しかし、棚はびくともしなかった。電車の方が軽く弾かれただけだ。
「……棚、強化してあるんですね」
「ガングーが昨日やった」
「昨日って、研究の合間にですか?」
「そうだな」
私は棚の端を指で触った。継ぎ目が丁寧に補強されている。見えないところで、ちゃんと手が入っていた。
本当に、いつ寝ているのだろう。
「デルタ」
「なんだ」
「この店、効率が良いとは全然言えないですよね」
「言えないな」
「店長が遊び過ぎるし、電車は暴走するし、値札は飛ぶし」
「聞くだけだと意味分かんねぇな」
「でも」
私はラヴェンナを一体、棚の正面に向け直した。
「ちゃんと、楽しい店ですよね」
デルタは腕を組んだまま、少しの間だけ黙った。
「……まあ、そうかもな」
それだけだった。
シータが遠くから「お茶〜」と声を上げる。
店長は地下に向かいながら、「新しい設計を――」と呟いていた。
「店長! 今日はちゃんと寝てくださいよ!!」
「問題ない!!」
「問題しかないですよ!!」
返事はなかった。
エレベーターの扉が閉まる。
私はため息をついて、段ボールを畳んだ。
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地下での開発会議は、短かった。
博士が女児向け新ラインの話を出し、五分で「武装を――」と言い始めたからである。
「いりません」
「しかし――」
「いりません」
「少しくらい――」
「いりません!」
博士が「む」と唸った。デルタが小さく「あきらめろ」と言う。シータは「えへへ〜」と笑っていた。
私はお茶を一口飲む。温かかった。
この店は、効率が良くない。
朝からずっと考えていたことは、最終的にそこへ戻ってくる。
でも。それで良いのだと思う。
隼くんが全力でシャトルを追いかけた顔。
店長が子供とレールを組みながら笑っていた顔。
弟が静かにカードを切っていた顔。
妹がラヴェンナを「かわいい!」と抱えていた顔。
全部に、試行錯誤があった。
全部、ちゃんと楽しかった。
効率より、こういうものの方が、ずっと覚えているのかもしれない。
認めたくないけれど、認めた。
博士がまたキーボードを叩き始め、シータがのんびりとお茶のおかわりを持ってくる。デルタが「帰れるか、嬢ちゃん」と聞いた。
「大丈夫です」
「気をつけろよ」
「はい」
エレベーターに乗りながら、今日一日を思い返した。
次は電車が暴走する前に止めよう。
それだけを、今日の教訓にした。




