第2話 可愛いってなんだ?
可愛いとは何か。
そんな哲学みたいな問いを突きつけられたのは、閉店五分前。私は段ボール箱を抱えたまま、レジ横で値札シールと格闘している時だった。
「白山くん」
背後から声がした。
振り返ると、店長――黒川玩具が腕を組んで立っていた。白衣。ぼさぼさの髪。鼻の頭まで下がった眼鏡。今日も今日とて、普通の玩具店の店長というより、地下で何かを培養していそうな顔をしている。
「君に聞きたいことがある」
「……なんでしょう?」
「可愛いとは何だ?」
「哲学の話ですか??」
私は抱えていた段ボールを、そっと棚の横に置いた。
世界征服玩具店でアルバイトを始めて、まだ数日。
ぬいぐるみが動くことにも、店の地下に研究所があることにも、店長が地下では博士と呼ばれたがることにも、まだ全然慣れていない。
慣れていないはずなのに、こうして「また何か始まったな」と受け止めている時点で、人間の適応能力は怖い。怖いというか、ちょっと負けた気分になる。
「可愛い、ですか」
「そうだ」
店長は真剣だった。ふざけている顔ではない。
それが逆に怖い。
「ざっくりしすぎてません?」
「まずは概略で良いんだ」
「がいりゃく?」
「……ざっくり教えて欲しい」
言い直せるなら最初からそっちでお願いします、と言いかけて、私は飲み込んだ。まだ勤務中である。たぶん。
そこで、入口の方からのっそりと影が動いた。
閉店時間が近くなったためか、入口で看板役をしていた巨大なクマ――シータとデルタが、いつの間にか店内側へ戻ってきている。
ピンクブラウンの方がθ、シータ。
ブルーブラウンの方がδ、デルタ。
初日に迷惑客を外へ投げ飛ばしたぬいぐるみたちだ。ぬいぐるみが迷惑客を投げ飛ばす職場。どう考えても労基より先に別の機関が来るべきだと思う。
「ユズちゃん、女の子だしね〜」
シータがのんびり言った。
「しかも妹ちゃんがいるから、意見聞きやすいよね〜」
「そこはまあ、確かに」
妹が喜ぶものなら、ある程度は分かる。
私はお姉ちゃんなので。
お姉ちゃんなので!
わざわざ二回思った。大事なことだから。
声に出さなかっただけ、理性がある。
デルタは棚にもたれるように腕を組んでいた。ぬいぐるみのくせに、その姿勢が妙に板についている。
「ガングーは女児向けが壊滅的だからな」
「前にも聞きましたが、そんなにですか?」
「致命的で壊滅的だ」
念入りに強調された。
私が店長を見ると、本人は不服そうに眉を寄せていた。
「壊滅はしていない。方向性が少し独創的なだけだ」
「その言い方、だいたい失敗してる人の言い訳ですよ」
「む」
む、じゃない。
店長は咳払いをひとつした。
「この店には、男児向け、あるいは中性的な玩具は十分ある。ロボット、カード、ミニカー、ボードゲーム。θδシリーズも主力商品だ」
「クマ推し、すごいですよね」
「だが、低年齢の女児向けが薄い」
それは店内を見れば分かる。
棚には格好いいもの、変なもの、妙に本格的なものが多い。けれど、キラキラしたお人形や、着せ替え系のおもちゃは少ない。
妹を連れてきたら、最初はクマに飛びつくだろう。
でもその後、棚を見て少し迷うかもしれない。
「だから、君の意見が欲しい」
店長は、そう言った。
やけにまともな流れだった。
まともすぎて、逆に私は警戒してしまう。この店でまともな話が、まともなまま終わりそうにない。
「……それだけなら、別にいいですけど」
「助かる」
「妹を直接連れてくるのはなしですからね」
「……分かっている」
デルタが低く笑っている。
「そりゃそうだよな」
「大事な妹なので」
「シスコンだね〜」
「否定できないのが悔しい」
私は小さく咳払いした。
妹のことになると、つい言葉が強くなる。仕方ない。可愛いは防衛本能を刺激するのだ。たぶん。
「それで、具体的に何を聞きたいんですか?」
「まず、女児向けの定番を教えてほしい」
「定番なら、ドール系ですかね。お人形とか、着せ替えとか。服を替えたり、小物を持たせたりできるやつ」
「定番すぎる」
「定番には理由があるんですよ」
私は棚に視線を向けた。
ここには個性的なおもちゃが多い。それは分かる。けれど、子供が最初に手を伸ばすものには、分かりやすさも必要だ。
「初めて見た子が、ぱっと見て可愛いって思えることが大事だと思います」
「ぱっと見て」
「はい。見た目、色、表情、触り心地。あと、持ちやすさ」
「機能は?」
「機能の前に安心感です」
店長は腕を組んだまま、黙り込んだ。
どうやら真剣に考えている。変な人だけど、おもちゃに対しては本気なのだろう。その本気の向かう先が、だいたい危ない方向なのが問題なだけで。
「ならば、まず試作品を見てもらおう」
店長の言葉に、私は少しだけ固まった。
「試作品があるんですか?」
「そうだ」
「嫌な予感がするんですけど……」
その言葉に、デルタが視線を逸らした。
シータは、なぜか嬉しそうに手を叩いた。
「あ〜、アレだね〜」
「アレか……一応言っとくけど、ガングーは本気だったんだぜ」
デルタの言い方が一番怖い。
本気で失敗したものほど、見ていてつらいものはない。
店長は奥の棚へ向かい、しばらくして箱を抱えて戻ってきた。
箱は黒かった。
この時点でおかしい。
女児向けドールの試作品を入れる箱が、なぜ黒いのか。
店長が蓋を開ける。
中にいたのは、人形だった。確かに、人形ではある。
ただし。
赤茶けた髪が、ストレートに足元近くまで垂れていた。
丸い顔には、そばかすのような点が散っている。
服はボーダー柄のシャツに、子供用のオーバーオール。そこに、なぜか市松模様の羽織が重ねられていた。
和と洋。
可愛いと怖い。
子供服と殺意。
全部が中途半端に混ざって、最終的に「深夜に廊下の奥で立っていたら泣く」方向へ着地している。
「……」
私は黙った。言葉が出なかった。
店長は胸を張る。
「チャッキ一松だ」
「名前!!」
「良い名だろう」
「攻めすぎです! いろんな方向に!」
私は一歩下がった。
いや、下がるつもりはなかったが、体が勝手に下がった。
チャッキ一松の口元は笑っている。
にこり、ではない。
にたあ、に近い。
「女児向けドールの試作第一号だ」
「女児向けの試作でこれを作ったんですか?」
「もちろんだ」
「勇気だけはすごいですね」
「褒め言葉か?」
「違います」
デルタが横からぼそりと言う。
「オレは止めた」
「でしょうね」
シータがチャッキ一松を覗き込む。
「でもね〜、作りはすごく丁寧なんだよ〜」
「それは、分かります……」
本当に、作りは良い。
髪の一本一本、服の縫製、手足の可動、素材の質感。
全部ちゃんとしている。
ちゃんとしているからこそ、怖い。
雑なら笑えたのに、技術があるせいで逃げ場がない。
「どこが悪い?」
店長が真顔で聞いてきた。
「全部の方向性が」
「具体的に」
「やたら長い髪、そばかす、オーバーオール、虚ろな目、市松模様。要素が全部ホラー方面に寄ってます」
「ホラーは人気ジャンルだ」
「低年齢女児向けの話ですよね?」
「恐怖に惹かれる子供もいる」
「いますけど、これは“怖いもの見たさ”じゃなくて“見たら夢に出る”側じゃないですか」
店長は納得できない顔をしている。
やはりこの人、感覚がズレている。
ズレているが、悪意はない。そこが面倒くさい。
「可愛いというのが、分からない」
店長は静かに言った。
さっきまでの勢いが、少しだけ落ちる。
「機能的に優れているかどうかは分かる。耐久性、安全性、可動域、素材の強度。それらは数値で見える」
「はい」
「だが、可愛いは数値化しづらい」
店長はチャッキ一松を見る。
「私は、子供が手に取りたくなるものを作ろうとした」
「その結果が、夜中に動きそうな人形なんですね」
「動くぞ」
「動くんですか!?」
私は反射的に叫んだ。
デルタがため息をつく。
「まだテスト前だけどな」
「テスト前の人形を店頭に出すつもりだったんですか?」
「だから今、君に見せている」
「ギリギリ踏みとどまってる……!」
私は額に手を当てた。
この店では、常識の基準が低い。
でも、ここで投げ出すわけにはいかない。
女児向けおもちゃが全部チャッキ一松になったら、妹が泣く。いや、泣かないかもしれない。妹は意外と好奇心が強い。けれど、私は泣く。
「まず、怖さを減らしましょう」
「個性が消える」
「個性と恐怖は別です」
私はチャッキ一松の髪を指差した。
「赤毛は悪くないです。でも長すぎです。もっと短く、長くても腰のあたりまでで。そばかすも、可愛く見える範囲にする。目は焦点を合わせる。口元は、にたあ、じゃなくて、ふわっと笑う感じ」
「ふわっと」
「はい。あと服も、オーバーオール自体は可愛いです。でも市松模様の羽織を合わせると、一気に怪異っぽくなります」
「怪異」
「深夜アニメの敵側です」
シータが「分かりやすいね〜」とのんびり頷いている。
私は続ける。
「私の妹が好きなのは、柔らかい色です。ラベンダーとか、淡いピンクとか。強すぎない色。リボンとか、小さなバッグとか、そういう飾りも好きですね」
「リボンに機能は?」
「ありません」
店長は本気で分からない顔をした。
私は近くの小さなθシリーズのキーホルダーを手に取る。
「これだって、この丸い耳に意味がなくても可愛いじゃないですか」
「その耳には衝撃吸収材と小型センサーが――」
「例えに使うものを間違えました……」
この店のおもちゃ、だいたい余計な機能がある。
店長はしばらく黙って、私の手元のキーホルダーを見ていた。
それから、鼻の頭まで下がった眼鏡の奥で、目つきが少し変わる。
嫌な予感とは違う。
開発者の顔だ。
「地下へ行くぞ」
「結局地下ですか」
「うむ、設計する」
「今から?」
「今からだ」
私は時計を見た。既に閉店後、勤務時間外。
しかし、店長はさらっと言う。
「残業代は出す」
「仕方ありません、行きます」
デルタが笑った。
「欲に正直だな、嬢ちゃん」
「推し活にはお金がかかるんです」
「世界征服より俗っぽいな」
「世界征服より健全です」
そう言いながらも、私は地下へのエレベーターに乗り込んだ。
壁が閉じ、エレベーターが下がる。
普通のバイトは、閉店後に地下研究所へ行かない。
今さらすぎる事実が、妙に胸にしみた。
地下六階。
銀色の壁と、無駄に光るパネルと、用途不明の機械たち。
二度目でも、やはり慣れない。
中央には大きな作業机があり、表面が淡く光っていた。
「ホログラフィックデザインシステムだ」
店長――いや、地下なので博士が言った。
「空中に描いたものを、そのまま設計データに変換できる」
「ただのおもちゃ屋に置いていい技術じゃないですね」
「便利だぞ」
「便利だけで済ませていいのかな」
私は机の前に立たされた。
博士が当然のように言う。
「描きたまえ」
「私が?」
「君の感覚が必要だ」
「絵、下手ですよ」
「問題ない。概念が欲しい」
「概念で許されるなら美術の成績に苦労してないです」
文句を言いつつ、私は指を伸ばした。
光の線が空中に走る。
丸い顔、小さめの耳、大きめの目。
リボン、柔らかい服。
妹が抱きしめやすい大きさ。
そう思いながら描いた。
描いた、はずだった。
「……あれ?」
空中に浮かんだのは、謎の生物だった。
頭は丸いというより歪んだ芋。
目は左右で高さが違う。
口元は笑顔ではなく、何か企んでいる。
リボンはワカメみたいになった。
デルタが肩を震わせている。
「笑ってますよね」
「いや」
「絶対笑ってますよね」
「前衛芸術だなと」
「笑ってる人のフォロー!」
シータが私の隣に来た。
大きな手が、ふわっと私の頭に乗る。
ぬいぐるみの手なのに、不思議と温かいような気がした。
「ユズちゃん、思い浮かべて〜」
「何をですか」
「妹ちゃんが、かわいいって笑う顔」
その言葉で、少しだけ胸の奥が静かになった。
私は目を閉じる。
妹がぬいぐるみを両手で抱える姿。
リボンを見つけて目を輝かせる顔。
柔らかい色の服を選んで、嬉しそうに笑うところ。
抱きしめた時に、腕にちょうど収まる大きさ。
あの子が笑うなら、少しくらい下手な絵でも頑張れる気がした。
指を動かした。今度は、線が崩れなかった。
光の中に、ドールの形が浮かぶ。
ラベンダー色の服。
小さなリボン。
丸みのある顔。
怖くない、自然な笑顔。
見た瞬間に、抱きしめたくなるような柔らかさ。
「……できた」
私は小さく呟いた。
「シータさんがやったんですよね?」
「ユズちゃんのイメージを、ちょっと整えただけだよ〜」
「ありがとうございます。……でも、今の機能、普通にすごすぎません?」
シータは楽しそうに笑っている。
私はまだ頭の上に残っているふわふわした感触を、なんとなく意識してしまった。人の想像をそのまま形にするなんて、冷静に考えたらおもちゃ屋の機能ではない。
博士は黙って立体モデルを見ていた。
ふざけていない。真剣に見ている。
「良い」
博士が言った。
「……本当ですか」
「少なくとも、チャッキ一松より泣かれない」
「比較対象が低すぎますね」
デルタがモデルを横から眺める。
「これは売れるんじゃねぇか」
「デルタさんの言葉は信頼できますね」
「オレは普通の感性を持ってるからな」
「普通の感性を持ったクマ型玩具……」
「何か言ったか?」
「いいえ」
博士が端末を操作すると、モデルの横に服のパターンがいくつも表示された。
「着せ替え要素を入れるなら、初期衣装のほかに追加服が必要だな」
「カジュアル服、パーティードレス、パジャマとかどうですか」
「戦闘服は?」
「入れません」
博士は不満そうに眉を動かした。
私は先に言葉を重ねる。
「アーマーもなしです。剣もなし。防衛機構もなし」
「まだ何も言っていない」
「顔に書いてあります」
「む」
言うつもりだったらしい。
「名前はどうする〜」
シータが聞いた。
私は浮かんだドールを見る。
ラベンダー色。柔らかい雰囲気。
妹が呼んでも違和感のない名前。
「ラヴェンナ」
自然に、口から出た。
「この子は、ラヴェンナです」
博士がその名前を繰り返す。
「ラヴェンナ。悪くない」
「かわいいね〜」
シータが手を叩いた。
デルタも小さく頷く。
私は少しだけ、胸を張った。自分で作ったと言うには、シータの補助が大きすぎる。
けれど、妹が笑う顔を思い浮かべたのは私だ。
そこだけは、私のものだった。
翌日。
開店前の店に行くと、レジ横に箱が二つ置かれていた。
「……まさか」
「そのまさかだ」
デルタが腕を組んでいた。
「もう出来たんですか?」
「地下の製造ラインを回したからな」
「店長、寝ました?」
「……聞くな」
「聞くなってことは寝てないんですね」
デルタは答えない。答えないのが答えだった。
私は一つ目の箱を開ける。
そこに、ラヴェンナがいた。
昨日の光のモデルが、そのまま形になっている。
ラベンダー色の服。
小さなリボン。
ふわっとした手触り。
抱きしめやすい大きさ。
「……すごい」
思わず声が漏れた。
これは、妹が絶対に好きなやつだ。
私は確信した。
その一方で、二つ目の箱からは強烈な気配がした。
「……こっちは?」
「ガングーの改良型だ」
デルタの声が少し沈んだ。
私は恐る恐る箱を開ける。
チャッキ一松がいた。
昨日より完成度が上がっていた。
赤茶けた髪の質感が増し、オーバーオールの古びた感じもリアルになっている。市松模様の羽織はなぜか高級感を帯び、口元の笑みはさらに危険になっていた。
「なんでブラッシュアップしたんですか!?」
奥から店長が出てきた。
顔色は悪いが目は輝いている。
一番ダメな徹夜明けの顔だ。
「可能性を感じた」
「感じないでください!」
「本日、ラヴェンナとチャッキ一松のテスト販売を行う」
「やめましょう」
「市場に問う」
「市場に出す前に止めるのも店員の仕事だと思います」
店長は聞いていない。
こうなった店長は、止まりづらい。
デルタが小声で言う。
「子供が泣いたら下げる条件にしろ」
「最初から下げたいんですけど」
「それは無理だな」
「でしょうね」
私は大きく息を吐いた。
「分かりました。でも、子供が怖がったら即撤去です」
「よかろう」
店長は高らかに言った。
「勝負だ、白山くん」
「勝負じゃなくて安全確認です」
こうして、ラヴェンナとチャッキ一松は店頭に並んだ。
結果は、早かった。
ラヴェンナを見た女の子が、目を輝かせる。
「かわいい!」
その一言で、私は心の中でガッツポーズした。
いや、心の中どころか、指先がちょっと動いた。危ない。店員としての冷静さを保たなければならない。
続いて、お母さんらしき人も微笑む。
「いいわね。触り心地も柔らかい」
ラヴェンナはそのまま一体売れた。
私はレジを打ちながら、口元が緩むのを必死に抑える。
何に勝ったのかは分からない。でも勝った。
一方、チャッキ一松は、棚の端で異様な存在感を放っていた。
男の子が近づき、目が合う。
次の瞬間、男の子は母親の後ろへ隠れた。
「こわい」
ほら見たことか。
私は店長を見る。店長は本気で衝撃を受けていた。
「なぜだ」
「なぜだ、じゃないです」
けれど、世の中は広い。
昼前、三十代くらいの男性がチャッキ一松の前で足を止めた。
「……これ、いいな」
「え」
私が声を漏らす。
店長の目が輝いた。
男性はチャッキ一松を手に取り、じっくり眺める。
「海外ホラー人形っぽさに、市松人形の不気味さを混ぜてるのか。狙ってる?」
「もちろんです」
店長は胸の前で指先をこねるように動かしながら即答した。
そこはたぶん、本当に狙っている。
「造形、かなり良いですね」
「昨夜、質感を調整しました」
「本気だ」
男性はチャッキ一松を一体買っていった。
店長は嬉しそうだった。とても嬉しそうだった。
それを見ると、少しだけ強く否定しづらくなる。
「……ニッチには刺さるんですね」
私は入口脇にいるデルタに小声で言った。
「そうだな」
「でも低年齢女児向けではないですよね」
「まったく違う」
そこは揺るがない。
チャッキ一松は、売る場所を間違えている。
それだけだ。
問題が起きたのは、昼を過ぎた頃だった。
店内には親子連れが三組。
ラヴェンナの棚には、女の子たちが集まっている。
チャッキ一松は端の方に下げた。
これで何事もなく終わる。
そう思った。思ってしまった。
足元を、何かが通った。
「……え?」
見下ろす。
チャッキ一松が歩いていた。
赤茶けた髪を揺らし、オーバーオール姿で、ぎこちなく。
でも妙に滑らかに。
ゆっくりと。
こちらへ。
「待って待って待って」
棚を見る。
他のチャッキ一松も降りてきていた。
一体。
二体。
三体。
全員が、あの危険な笑顔のまま歩き出している。
「歩いてるんですけど!?」
女の子がそれを見て、固まった。そして泣いた。
当然だ。私でも泣きたい。
「ガングー!」
入口脇に立っていたデルタが、店内へ踏み込んだ。
いつもの眠そうな声ではなく、低く鋭い声だった。
「お前、感情認識AI仕込んだな!」
「感情認識AIってなんですか!?」
私が聞き返すと、デルタが舌打ちでもしそうな声で答えた。
「子供の表情や声を読んで、反応を変える機能だ」
「それだけ聞くと良さそうなのが腹立ちますね!?」
店長が奥から出てきた。
落ち着いている場合ではない。
「子供の感情に寄り添うためだ!」
「発想だけは良いのに、今起きてる絵面が最悪です!」
チャッキ一松が、泣いている女の子へ向かった。
小さな手を伸ばす。
慰めようとしているのかもしれない。
でも見た目は完全に、夜中に包丁を持って追ってきそうな人形である。
「ア、ソ、ボ」
「喋ったぁぁぁ!」
女の子がさらに泣く。お母さんも悲鳴を上げた。
チャッキ一松の顔が、少し歪む。
悲しそうにも見える。でも怖い。
悲しいほど怖い。
「店長、止めてください!」
「直接停止コードを入れる必要がある」
「遠隔で止められるようにしてくださいよ!」
「試作品だからな」
「試作品を店頭に出すなって何回言えばいいんですか!」
チャッキ一松がさらに増える。
棚から降りる。歩く。集まる。
ゆっくりなのに怖い。
ゆっくりだから、なお怖い。
「完全にホラー映画!」
「安心しろ、武器は積んでいない」
「武器を積む選択肢がある時点で安心できないんですよ!」
店長がポケットから小さなリモコンを取り出した。
「緊急プロモーション偽装システム起動!」
「なんですかそれ!!」
「細かいことはいい!」
ボタンを押す。
店の外に、ホログラム映像が投影された。カラフルな光の演出と、効果音が鳴り響く。さらに小型ドローンがカメラを構えて飛び始めた。
通りがかった人たちが立ち止まる。
「すごいドッキリ!」
「最近の宣伝すごいな!」
「これ配信してる人いる?」
店前がざわつき始めた。
「無理があるでしょ!!」
私が叫ぶ。
「問題ない!世の中には想像力が豊かな者と、そうでない者がいる。後者にとって“普通ではないこと”は全部演出に見える」
「それはどうなんですか、いろんな意味で……」
でも確かに、外の人たちはスマホを出して映像を撮影し始めている。商店街の中に急にカラフルな光が出れば、そりゃあ何かのイベントだと思うか。
助かる。助かるけど、根本的解決ではない。
店内では、チャッキ一松たちがまだじりじりと動いている。
デルタが一体を抱え上げ、その足元を別の一体がすり抜けた。店長はリモコンを睨みつけながら「停止コードを……いや、こっちではなく……」とぶつぶつ言っている。
二人とも、明らかに余裕がない。
なのに。
シータだけが、いつもの調子で店内を眺めていた。
「……シータさん」
「なあに〜?」
「なんでそんなに落ち着いてるんですか」
「え〜? だって、止めようと思えば止められるし〜」
「止められるんですか!?」
「うん〜」
「じゃあ今すぐ止めてください!」
「もうちょっと、ガンちゃんに頑張ってもらおうかなって思ってたんだけど〜」
「泣いてる子がいるので教育的配慮は後でお願いします!」
デルタもチャッキ一松を両脇に抱えたまま、低く唸った。
「シータ、頼む。数が多い」
シータが前に出た。
のんびりした声のまま、片手を上げる。
「指令優先権、上書き〜」
その瞬間。
すべてのチャッキ一松が、ぴたりと止まった。
店内に静けさが戻る。
泣いている女の子の声だけが、まだ少し響いていた。
私は安堵して深く息を吐いた。
「……もっと早く止めてくださいよぉ」
「少しは反省してもらおうかな〜って」
「反省会は閉店後にしてください!」
「危なくはなかったよ〜」
「怖がらせた時点でアウトです!」
デルタが止まったチャッキ一松を回収していく。
店長は腕を組んで、難しい顔をしていた。
「寄り添うつもりだったのだが」
「結果、追跡してました」
「……改善が必要だな」
「販売停止です」
「改善後に」
「販売停止です」
私は言い切った。ここは譲れない。
店長は少しだけ不満そうに黙る。
けれど、反論はしなかった。
「ただ」
私は回収されたチャッキ一松を見る。
怖い。ものすごく怖い。
でも、さっき買っていった人のように、好きな人はいるのだろう。
「好きな人がいるのは分かりました。でも、低年齢女児向けじゃないです。売るなら棚を分けて、説明も付けて、対象年齢もちゃんと考えてください」
「専用ラインか」
店長の目がまた少し輝く。
「チャッキ一松・深淵シリーズ」
「名前は後で考えてください」
「恐怖と愛嬌の境界線を――」
「後で!」
私は頭を抱えた。
閉店後。
地下六階で反省会が開かれた。
今日の議題は明確だった。
ラヴェンナは継続。
チャッキ一松は子供向け棚から撤去。
感情認識AIは停止。
以上。
……で終わればよかったのだが、博士はまだ端末を見ている。
「チャッキ一松は別ラインで再検討する」
「してください。ただし子供向け棚には置かないでください」
「分かっている」
本当に分かっているかは怪しいが……
私はお茶を一口飲んでやっと一息つけた。
シータが出してくれたお茶は、今日も普通においしい。
この店は、変なところほど丁寧だ。
博士はラヴェンナの試作品を机に置いた。
「ラヴェンナは売れた」
「売れましたね」
「子供が笑っていた」
「はい」
博士は静かにラヴェンナを見る。
「……あれが、可愛いか」
その声には、いつもの大げさな響きがなかった。
「たぶん」
私はラヴェンナを見た。
「可愛いって、性能じゃないんですよ」
「性能ではない」
「でも、手を抜いていいわけでもないです。触り心地とか、サイズとか、安心できる表情とか。全部ちゃんとしているから、子供が安心して可愛いって言えるんだと思います」
「安心して、可愛い」
「はい」
博士は少し考えている。
デルタも黙っていた。
シータだけが、にこにことラヴェンナを撫でている。
「あと」
私はラヴェンナを見ながら、言葉を選んだ。
「おもちゃ側が全部やらなくていいんです」
「どういう意味だ」
「ラヴェンナは、自分で歩かなくてもいい。喋らなくてもいい。子供が手に持って、名前を呼んで、服を替えて、遊ぶんです」
言いながら、妹の顔が浮かぶ。
きっとこの子を抱きしめる。きっと名前を呼び、きっと服を替えたがる。
「子供が入る余白がある方が、楽しいんだと思います」
「余白……か」
博士は腕を組み、その言葉を噛みしめるように目を細めた。
「玩具側がすべてやるのではなく、子供が入り込む余地を残す、ということか」
「たぶん、そうです」
博士は端末に何かを入力した。
「ラヴェンナには、自律機能を入れない」
「本当にお願いします」
「代わりに、着せ替えラインを増やす」
「それは良いと思います」
「それと、カード連動機能を」
「カード?」
博士が少しだけ得意げに笑う。
「そのうち分かる」
「この店の“そのうち”は大体怖いんですよ」
デルタが小さく笑った。
「まあ、今回は悪くない方向だと思うぞ」
「本当ですか?」
「ああ。ラヴェンナは使い道が広い」
「使い道って言い方が少し不安です」
博士が口を開く。
「装備としてランスを――」
「不要です」
「……リボン型の」
「不要です!」
博士は不満そうに黙った。
危ない。何か生まれかけていた。
この人は油断するとすぐ武装させる。
私は箱に入ったラヴェンナを見た。
「この子、持って帰ってもいいですか」
「もちろんだ。モニターとして妹さんに見てもらうといい」
「ありがとうございます」
シータが丁寧にラヴェンナを箱へ収めてくれる。
「妹ちゃん、喜ぶといいね〜」
「絶対喜びます」
私は言い切った。そこだけは自信がある。
妹が好きなものを考えて、作った子だ。
私が全部作ったわけじゃない。
むしろ技術的には、ほとんど博士とシータが作った。
でも、あの子が笑う顔を思い浮かべたのは私だ。
それだけで、少し胸を張れる気がした。
帰り際。
私は自転車にまたがる。
夜の商店街を抜けながら、カゴの中の箱をちらりと見た。
中には、ラヴェンナがいる。
妹が見たら、きっと笑う。
弟はたぶん、横から見て「別に普通」とか言う。けれど、少しだけ気にする。そういう子だ。
早く見せたい。そう思うと頬が緩む。
帰ったら、まず妹に見せよう。
いや、その前に、もう一度だけ中身を確認しよう。
博士のことだから、まだ何かしら武装が隠れている可能性がある。
自転車を漕ぎながら箱を開けて確認しようかと思ったが、手が届かない。しかも危ない。
家に着いたら、忘れずに確認しよう。
私は夜風の中でため息をついた。
可愛いとは何か。
今日一日考えた結果、分かったことがある。
可愛いは難しい。
そして、博士に任せきりにすると、だいたい武装する。




