第1話 ようこそ世界征服玩具店へ
ぬいぐるみが人間を投げ飛ばすところを見たことがあるだろうか。
私はある! 今まさに。
着ぐるみではない。
ぬいぐるみが、だ。
「またな。いや、来なくていいけど」
ブルーブラウンの巨大なクマがそう言うと、片手で成人男性の襟元を掴み、店の外へ運び、そのままぽいっと投げた。
スマホをベッドに放るような気軽さで、本当に、ぽい、と。
投げられた男性は店の前で尻もちをつき、何かを叫びながら逃げていった。商店街のアーケードに、その足音だけが妙に乾いて響く。
そして、入口の反対側。
ピンクブラウンの巨大なクマが、にこにこと手を振っていた。
「ばいば〜い」
声が可愛い。動きも可愛い。
状況は一ミリも可愛くない。
呆気に取られていると、男がぱん、と手を打った。
「さて、白山くん」
ぼさぼさの髪。鼻の頭まで下がった眼鏡。
白衣のポケットに片手を突っ込み、全部予定通りだと言わんばかりの顔をしている。
この店の店長、黒川玩具だ。
「説明する。ついて来たまえ」
その瞬間、壁が音もなく開く。
隠し扉の先には、エレベーターがあった。
「君には、知っておいてもらう必要がある。この店で働くならな」
求人票には、そんなこと一行も書いてなかったんですが。
これは、私――白山遊子が、人生初バイト先で世界征服に巻き込まれる話。
いや、違う。正確には。
世界征服を目指す変な玩具店で、子供たちの遊びと弟妹の笑顔を、時々暴走するおもちゃから守る話である。
たぶん、きっと。
そういう話なのだと思う。
少なくとも、この時の私はそんな未来を想像もしていなかった。
――数時間前。
私はまだ、この店が普通の玩具店である可能性を、それなりに信じていた。
---
商店街のアーケードの下を、自転車を押しながら歩いていると、閉まったシャッターの隙間から、古い店の匂いがした。
油。埃。朝のパン屋。少し湿った石畳。
全部が混ざったような匂いが、妙に落ち着かない。
今日で、人生初バイト。
そう思うと、制服の袖を握る指に少し力が入った。
白山遊子。高校一年生。
まだクラスにも完全には馴染めていないし、部活も決めていない。朝の電車でどの車両が空いているか、毎回こそこそ探っている程度には、普通の女子高生である。
お小遣いがもう少しあれば……そんなことを考えつつ求人アプリを眺めていたら、近所の商店街にある聞いたことのない玩具屋が出てきた。
世界征服玩具店。
店名を見た瞬間、私は一度アプリを閉じた。
そして、もう一度開く。
やっぱり書いてあった。
【世界征服玩具店】
しかも、時給が妙に高い。
仕事内容は、接客、品出し、レジ補助、玩具の企画補助。
最後だけ少し浮いていた。
玩具の企画補助とは何なのか。高校生歓迎のバイトに混ぜていい単語なのか。そこだけ妙にクリエイティブ業界の顔をしているのが怖い。
そう思ったけれど、勤務地は近い。高校生歓迎。未経験歓迎。シフト相談可。
そして何より、時給が高い。
怪しい条件は揃っていた。
揃っていたが、私にはお金が必要だった。
いや、生活に困っているとか、そういう深刻な話ではない。そこは大事なので強調しておきたい。家が貧しいわけでも、今日の晩ご飯に困っているわけでもない。
ただ、女子高生には女子高生なりの事情がある。
推しとか。
推しとか。
あと、推しとか。
その辺りは長くなるので、今は横に置いておく。私の財布事情と精神の健全性に関わる、非常に重要な問題である。
面接だけなら引き返せる。
そう思って応募した。
面接は、思ったより普通だった。
いや、普通ではなかったかもしれない。
店長は白衣だったし、店名について聞いたら「理念だ」と言われたし、入口には巨大なクマのぬいぐるみが二体立っていた。
普通ではない。
ただ、店内はきれいだったし、商品もちゃんと並んでいた。
子供たちが楽しそうに出入りしていたのもポイントが高い。
何より、店長が提示してきた時給は、求人票の数字より少し高かった。
負けた。
私は負けたのだ。
お金に。現実に。
そして、たぶん、ちょっとだけ好奇心にも。
だから私は今日、初出勤としてこの店の前に立っている。
商店街の端。
開いている店より閉まっている店の方が多いんじゃないか、という微妙な通りの奥に、目的地はあった。
【世界征服玩具店】
黒い看板に、妙に堂々とした白文字。
何度見ても強い。
普通、玩具店の名前に「世界征服」は入れない。少なくとも、近所のおばあちゃんが孫を連れて安心して入れる単語ではない。
そして入口の両脇には、巨大なクマのぬいぐるみが立っている。
左はピンクブラウン。丸い目でにっこり笑っている。胸元のプレートには【θ】。
右はブルーブラウン。眠そうな半目で、どこか気だるそうな顔をしている。胸元のプレートには【δ】。
大きい。とにかく大きい。
ぬいぐるみにあるまじき圧がある。
癒やし系ではなく、門番系だ。
可愛いか可愛くないかで言えば、可愛い。
でも抱きつきたいかと言われると、少し考える。抱きついた瞬間に何かを判定されそうなのだ。入店資格とか。心の清らかさとか。人生の徳とか。
このクマ達、近所の子供たちには人気らしい。
妹も前に言っていた。
「くまさん、ふわふわなの!」
その時の妹は、目をきらきらさせていた。
弟もなんだかんだ、この店のおもちゃを持って帰ってきたことがある。本人は「別に、たまたま」と言っていたが、買ったものを机の上にちゃんと飾っていたので、気に入っているのは丸わかりだった。
つまり、子供たちの中ではセーフ判定らしい。
その判定基準、国の検査を通っているのだろうか?
一方で私は、面接に来るまでこの店に入ったことがなかった。
怪しいから、というのも少しある。いや、少しではない。かなりある。
でも一番の理由は、普段使うスーパーやコンビニとは逆方向で、わざわざ足を向ける用事がなかったからだ。
「ヤバかったら即辞める」
私は扉に手をかけながら、自分に言い聞かせた。
「でも、普通に良い店だったら……頑張る」
推し活のために。
そして、人生初バイトのために。
私は扉を押した。
カラン、とドアベルが鳴った。
店内は、外の薄暗さとは打って変わって明るかった。
面接の時も思ったけれど、外観とのギャップがすごい。照明がきちんと入っているし、棚は見やすく整理されていて、床も磨かれている。
ロボット。
ミニカー。
カード。
ボードゲーム。
ぬいぐるみ。
見渡す限り、おもちゃが詰まっている。
普通に良い店に見える。
そう思いかけて、すぐに気を引き締めた。
店の中央に、クマの棚があった。
大小さまざまなクマが、ずらっと並んでいる。キーホルダーサイズから両手で抱えるサイズまで。外にいた門番クラスはいないが、それでも存在感がすごい。
ポップにはこう書かれていた。
【θシリーズ】
【δシリーズ】
やっぱりクマが主役なのだ、この店は。
しかも、よく見ると一体一体の顔が微妙に違う。
にこにこしている子。
少し眠そうな子。
得意げな子。
なんか妙に達観した顔の子。
最後の子は、人生を何周くらいしているのだろう。
思わず手に取りかけた、その時だった。
「来たか」
「ひゃっ!?」
背後から声がして、肩が跳ねた。
振り返ると、白衣の男が立っていた。
ぼさぼさの髪。鼻の頭まで下がった眼鏡。
その奥の目だけが、妙に楽しそうに光っている。
面接で見た、店長だ。
「お、おはようございます。本日からお世話になります、白山遊子です」
慌てて頭を下げる。
声がちょっと裏返った。
初手から情けない。人生初バイトの第一声として、もう少し凛としたかった。
「うむ、改めて名乗ろう。黒川玩具だ」
店長は腕を組んだ。
「今日から君は、我が計画の一端を担う存在となる」
「バイトです」
「そうとも言う」
「そうとしか言いませんよ」
初手から会話の足場がぐらついている。
「さっそくだが、白山くん。まずは陳列を頼む」
店長は足元の段ボールを指差した。
「君のセンスが見たい」
「せ、センスですか……」
急にハードルを上げないでほしい。
初バイトで求められるものは、まず元気な挨拶とか、メモを取る姿勢とか、そういうところではないのか。
「売り場作りは遊び場作りだ」
店長は恍惚とした顔で言う。
「棚とは、ただ商品を置く場所ではない。子供が手を伸ばす前に、心を動かす場所だ」
「……おお」
表情に思うところはあるが、意外なことにちょっと良いことを言った。
「つまり、このクマたちを良い感じに並べたまえ」
「急に雑」
いい話っぽい入りから、着地がふわっとしすぎている。
私は段ボールを開けた。
クマが詰まっていた。ほぼクマ。どこを見てもクマ。
右を見てもクマ。左を見てもクマ。底の方までクマ。
「……クマしか入ってないんですけど」
「当然だ。主力商品だからな」
「主力の圧がすごい」
仕方なく、一体取り出してみる。
手触りは良い。縫製も丁寧。タグも可愛い。
クオリティは高い。
店名と店長以外は、かなりちゃんとしている。
「……やりますか」
私は自分の両頬を軽く叩き、棚の前に立った。
高さを揃えて、色を分けて、手に取りやすい位置に小さいものを置く。目線の高さには、一番顔が可愛い子。いや、可愛い子というか、売れそうな子。たぶん。
少し引いて見る。
ちょっと良い感じだった。
ちゃんと売り場っぽい。いや、売り場なのだが。
私が作った売り場、という意味で。
これを妹が見たら褒めてくれるだろうか。
脳内で妹が「おねえちゃんすごーい!」と言った。
はい優勝。
危ない。まだ何も勝っていないのに、心の中で表彰台に立ちかけた。
でも、意外と楽しい。
タグの向きひとつで印象が変わる。どう並べれば目に入るか、どう置けば可愛く見えるか。
気づくと、私は夢中で手を動かしていた。
そのときだった。
「だからこのクマは最強なのだ!」
「ほんとかよー!?」
店の奥から、やけに楽しそうな声が聞こえた。
見ると、床に小学生の男の子が座っていた。
その正面に、店長も座っていた。
勤務中ですよね、と喉まで出かかった。
いや、店長なのだから勤務中も何もないのかもしれない。
でも床に座る必要はあるのだろうか。
「この関節可動! この耐久性! さらに表面素材は汚れに強い! 高出力駆動フレーム搭載! 都市ひとつくらいなら制圧可能だ!」
「すげー!」
スケールが物騒だ……都市を制圧するな。
おもちゃ屋で出していい単語ではない。
「でもこっちのロボの方がかっこいいし!」
男の子が棚のロボットを指差す。
「見た目だけで判断するとは愚か者め!」
「かっこいい方がいいじゃん!」
「機能美を理解していないな!」
「そのクマ、かわいいけどかっこよくはないじゃん!」
「かわいいと強いは両立する!」
完全に同レベルだった。
止めるべきなのか。
接客として見守るべきなのか。
そもそもこれは接客なのか?
分からない。分からないが、男の子は楽しそうだ。
店長も楽しそう。
店内に笑い声が響いている。
こういうおもちゃ屋、最近あんまり見ないかもしれない。
ただ売るだけではない。
遊んで、試して、言い合って、また遊ぶ。
その空気だけは、悪くなかった。
「もういい! 今日は帰る!」
男の子が立ち上がった。
「あ、ありがとうございました!」
反射的に声をかけると、男の子は振り返って、にっと笑った。
「また明日来る!」
「ほう、再戦を望むか」
店長が腕を組む。
「今度はロボの方が強いって証明するからな!」
「受けて立とう!」
いつ勝負になっていたのかは分からない。
男の子は元気よく店を出ていった。
カラン、とドアベルが揺れる。
「……また来るんですね」
「当然だ」
店長は棚を見ながら言った。
「子供は正直だからな。つまらなければ来ない」
「……それは、そうですね」
「また来ると言ったなら、今日は勝ちだ」
「勝ち負けなんですか」
「遊びは、いつだって真剣勝負だ」
変な人だ。でも、変なだけではない。
子供のことは、ちゃんと見ている。
そう思った時、カランとまたドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
反射的に声が出た。
今、少し店員っぽかった。
自分で自分を褒めたい。褒めてくれる弟妹がここにいないので、セルフでやるしかない。
入ってきたのは、大人の男性だった。
ラフな服装。手にはスマホ。視線は商品棚ではなく、一直線にレジ横へ向いている。
買うものが決まっている人の動きだった。
男性はカウンターに近づき、淡々と言った。
「人気のモンスターカード、BOXである?」
「あ、はい。レジ横にあります」
「未開封? シュリンク付き?」
その言い方で、なんとなく分かった。
これ、たぶん転売の人だ。
言葉にすると簡単だが、初バイト初日に対応するには重い。
売れば売上にはなる。
でも、売っていいものか……。
分からない時は。
「店長」
上に投げる。大人に任せる。
私はまだ初日なので。
店長は、ゆっくり立ち上がった。
その瞬間、さっきまでの空気が消えた。
子供と床で言い合っていた人とは別人みたいに、静かで、重い。
「お子様へのプレゼントですか」
声の温度が下がった。
初対面の私でも分かる。これは接客の声じゃない。
男性は少しだけ眉を動かした。
「あー、まあ、そんな感じ」
「お子様は、何がお好きで?」
「頼まれただけなんで」
「年齢は?」
「……関係あるか?」
店長が一歩前に出た。
「帰れ」
「は?」
「お前に売る物はない」
空気が凍った。
男性の顔つきが変わる。
「客だぞ、こっちは」
「違う」
店長は静かに、しかし力強く言った。
「子供の遊び場に寄生する者を、客とは呼ばん」
語彙が強すぎる。
正論かもしれないけれど! これでは宣戦布告だ。
男性が詰め寄る。距離が近い。
止めなきゃ。
そう思った瞬間。
「はいはい、そこまで」
背後から声がした。
入口に立っていたはずのブルーブラウンのクマが、動いていた。
δ。デルタ。
ぬいぐるみが、自然な足取りで。
男性の横まで歩いてきた。
「悪いな、お客さん。うちは転売とせどり? っての、そういうのはお断りなんだわ」
「は? なんだ、着ぐるみ?」
「ぬいぐるみだよ」
次の瞬間、男性の体が浮いた。
「え」
私の声だったのか、男性の声だったのか分からない。
デルタは片手で男性の襟元を掴み、そのまま店の外へ向かって歩いた。
「またな。いや、来なくていいけど」
ぽいっ。
本当に、ただそれだけだった。
大人一人を投げたというより、邪魔な荷物を玄関の外に出したくらいの気軽さだった。
「ばいば〜い」
ピンクブラウンのクマが入口で手を振っていた。
θ。シータ。
にこにこしている。
私はゆっくり店長を見た。
店長は何事もなかったように白衣の袖を払っている。
「えっと、今ってどういう状況ですか……」
声が思ったより小さく出た。喉が追いついていない。
「迷惑客対応だ」
「迷惑客対応って、あんな物理的な!?」
「デルタは力仕事が得意だ」
「得意の範囲が引っ越し業者を超えてますよ!? いや、待って、まずそこじゃない。ぬいぐるみが動いて、喋った。投げた。三アウト!!」
「ふむ、野球ならチェンジだな」
「誰が上手いこと言えと!?」
シータが近づいてきた。
動いて近づいてくると、さっきまで入口に立っていた時より圧がすごい。
「ユズちゃん、びっくりした〜?」
「びっくりしたどころじゃないです! 今、人生の常識が何個か落下してます」
「あ、ユズちゃんって呼んでもいい?」
「今それですか!?」
「だめ?」
「……だめじゃ、ないですけど」
「やった〜」
押し切られた。
このクマ、距離の詰め方が早い。
デルタが腕を組みこちらを伺うように言う。
「嬢ちゃん、反応良いな」
「良くないです! 普通です。普通は動くぬいぐるみを見たらこれくらい混乱しますよ」
店長がぱん、と手を打った。
「さて、白山くん」
「その“何事もなかった顔”をまずやめてください。私は今、何事もありすぎて理解が追いついてないんです」
「説明する。ついて来たまえ」
「ここでお願いします」
「設備を見せた方が早い」
「その言い方、もう完全に嫌な予感しかしないんですけど」
店長は答えず、店の奥の壁へ向かって歩き出した。
ただの壁。
商品の棚と棚の間にある、普通の壁。
少なくとも、私にはそう見えていた。
「ユズちゃん、こっちこっち〜」
シータの大きな手が背中に置かれる。
「いや、行くとは言ってません」
「大丈夫〜。ちょっと下に行くだけだから〜」
「下って何ですか! 地獄ですか!?」
「地下だ」
デルタが横から言った。
「それでも嫌です!」
その瞬間、壁が音もなく開いた。
中には、エレベーターがあった。
私は一度、店内を見回した。
おもちゃ。棚。レジ。クマ。
隠しエレベーター。
最後の一個だけジャンルが違う。
「ここ、平屋ですよね?」
「地上部分はな」
「その補足で安心できる人間はいません」
「白山くん」
エレベーターの前から、店長がこちらを見た。
さっきまでの妙なテンションではなく、少しだけ真剣な顔だった。
「君には、知っておいてもらう必要がある。この店で働くならな」
「……普通のバイトに、隠しエレベーターの知識って必要ですか」
「ここは普通の店ではない」
「開き直りが早い!」
「それに——面接で言っていただろう。君の弟妹も、この店に来ていると」
その一言で、私は止まった。
弟。
妹。
この店に来ている。
そうだ。
私がこのバイトを選んだ理由は、時給だけではない。
推しのため。
弟妹のため。
最近、少し距離を取り始めてしまった弟。
まだまだお姉ちゃん子の妹。
おもちゃでも、可愛い服でも、ちょっと良いお菓子でもいい。
あの子たちが喜ぶなら、私はわりと簡単に財布を開く。
そのためにバイトを始めた。
そして、その弟と妹が、この店に来ている。
地上だけならまだいい。
でも、もしこの店に地下があって、動くぬいぐるみがいて、私の知らない何かがあるなら。
私が知らないままの方が、まずい。
嫌だけど。
ものすごく嫌だけど。
ここで逃げるわけにはいかなかった。
「……説明だけですからね」
「もちろんだ」
「変な実験とか、契約とか、世界征服の儀式とか始めたら即帰ります」
「儀式はない」
「実験は?」
店長が黙った。
「黙らないでくださいよ!」
デルタがため息をつき、仕方ねぇと言わんばかりに口を挟んできた。
「ガングー、不安にさせるような態度を取るな。嬢ちゃんが逃げる」
「逃げてもいいですよね?」
「落ち着け。危ねぇことをするつもりはねぇよ」
「危ないことをする人は、だいたいそう言うんです」
「まあ、それはそうだな」
「認めないでください!」
シータが背中をそっと押す。
ふわふわしているのに、まったく抵抗できない。
いや、正確にはじわじわ動かされている。
「ちょ、押してますよね? これ、完全に押してますよね?」
「説明だけだから〜」
「説明を受ける場所が地下の時点で信用できないんですよ!」
デルタが黙って、エレベーターの扉の横に立った。
「嬢ちゃんが帰るって言ったら、その場で上に戻す。ガングーがゴネたら、オレが止める」
「……止められるんですか?」
「止める役だからな」
冗談っぽく言ったわけではなかった。
デルタの声は、妙に落ち着いている。
その落ち着きだけは、少し信用できる気がした。
「……分かりました」
私は盛大にため息をついて、エレベーターに足を踏み入れ、博士を見据えた。
「ただし、私はまだ何も了承してません」
「うむ、構わん」
「後でちゃんと労働条件の話もします。書面で。ちゃんとしたやつで」
「……しっかりしているな」
「初日から地下に連れていかれるバイトなので、自衛もしますよ」
扉が閉まる。
静かな機械音とともに、エレベーターが下がり始めた。
帰りたい。
今日だけで何度目か分からない本音が、胸の奥でしみじみ響いた。
「何階まで行くんですか」
「今日は地下六階だ」
「もう数字の時点で怖いんですけど。地下って一階でも嫌なのに、なんで六まで増やしたんですか」
「六階で終わりとは言ってない」
「どんだけ深いんですか!」
チン、と鳴り、扉が開いた。
銀色の壁。
無機質な床。
よく分からない機械。
無駄に発光するパネル。
壁際に積まれた試作品らしきおもちゃの山。
どこからどう見ても、普通の玩具店の地下ではない。
「ようこそ」
店長が両腕を広げた。
「世界征服玩具店、地下研究区画へ!」
「帰ります」
「待ちたまえ」
「帰ります。今ならまだ、私の中でギリギリ夢だったことにできます」
「時給はさらに上乗せする」
足が止まった。
止まるな私。
止まったら負けだ。
でも上乗せという言葉は強い。現代日本において、時給上乗せは魔法よりも即効性があると思っている。
「今のは聞かなかったことにして、話だけ聞きます。弟妹のために。決して時給ではなく」
「素直ではないな」
「素直だったら初日に地下六階まで来ません」
白衣の男は、ビシッと私を指差した。
「まず手始めに、ここでは私のことを、博士、またはDr.ガングーと呼びたまえ!」
「嫌です」
「即答!?」
「店長でいいじゃないですか」
「地上では店長。地下では博士だ。雰囲気が大事だろう」
「雰囲気で地下研究所を運用しないでください」
シータが横でにこにこしている。
「アタシはシータだよ〜。よろしくね、ユズちゃん」
デルタはエレベーターの扉を片手で押さえたまま、眠そうな半目をこちらへ向けた。
「オレはデルタ。まあ、よろしくな。本気で帰りたくなったら言え」
「……よろしくお願いします」
返事をしてから、少しだけ驚いた。
挨拶している場合だろうか。
でも相手が挨拶してきたら返すしかない。常識は大事だ。
たとえ相手が、二メートル超えの動くぬいぐるみでも。
「この子たちは何なんですか。中に人が入ってるんですか」
「ああ、AIだ」
「……あっそうですか」
あまりにもさらっと言われると、逆に反応に困る。
「理解が早くて助かる」
「受け入れたわけじゃないです。今日はもう驚きの在庫が足りないだけです」
「良い表現だな」
「褒めなくていいです」
店長……もとい博士が端末を操作すると、空中に店内の映像が浮かんだ。
さっき私が並べたクマの棚が、角度までしっかり映っている。
「監視カメラ?」
「売り場確認用だ」
「言い方を変えても監視カメラですよね」
「シータ、評価を」
「は〜い」
シータが手を挙げた。
「ユズちゃんの陳列はね〜、すごく良かったよ〜。高さも見やすいし、子供の手が届く位置も考えてあったし、タグもちゃんと前向きだったし」
「……え」
普通に褒められた。
嬉しい。残念な事に、嬉しい。
相手は動くぬいぐるみだ。落ち着け。
そう思っても、嬉しいものは嬉しいのだ。
「あと、アタシたちの顔が一番可愛く見える角度だった」
「そこ評価ポイントなんですね」
「大事だよ〜」
「ふむ、ならば合格だな」
博士がうなずく。
「すでに採用されてたから今日来たんですけど」
「表向きはな」
「求人で裏採用みたいなことしないでください」
「シータの確認を通過しなければ、今日限りで終わりだった」
「それは……良かったです、たぶん。いや良いのかな。今、地下にいますけど」
「君には追加で頼みたい仕事がある」
嫌な予感がした。
こういう時の嫌な予感は、だいたい当たる。
「世界征服の研究助手だ」
言いたいことはある。
山ほどある。
世界征服とは何だとか、研究助手とは何だとか、初バイトに投げる単語じゃないだろとか。
ただ、その前に聞いておかなければならないことがあった。
「あの、まず世界征服って具体的に何するんですか?」
一応、聞いておく。怖いけど。
「単純に、このお店を世界進出させたい〜って話ですかね?」
「そうだな。基本、その方向で間違いない」
あ、思ったよりまとも。
……いや、規模はデカいな。
アルバイトにやらせる話ではない。絶対に。
「まぁ、世界征服ってのはコンセプトだよ。この店のな。ただファンシーなだけの玩具屋じゃ、今どき目立たねぇだろ」
デルタが淡々と説明する。
なるほど。
確かに【世界征服玩具店】という名前は、一回聞いたら忘れない。実際、私も気になって調べた口だ。
少しだけ安心しかけた時。
「……本気を出せば、わかんねぇけどな」
デルタがボソッと言った気がする。
怖くて聞き返せないんだけど!
「そ、それで、助手というのは具体的にどんなことをすればいいんですか?」
「うむ。主に、新しいおもちゃの実験た——モニターと企画協力だ」
「今、実験体って言いかけませんでした?」
「そんなまさか」
「目を逸らさないでください」
デルタが横から言った。
「嬢ちゃん、断っても大丈夫だからな」
「デルタさん……」
まともだ。
このクマ、まともかもしれない。
「ただこの店、と言うかガングーは女児向けの玩具に弱くてな。女の子の気持ちが分かる人間が必要なんだよ」
「……女児向けが弱い?」
「ああ。ガングーが作ろうとすると、だいたいホラーか兵器になる」
「最悪の二択」
「どこが最悪だ!」
博士が即座に反論してきた。
「強くて可愛いは両立する!」
「その考え自体は否定しませんけど、方向が間違ってると思います」
「……聞こう」
「女の子向けの人形を作ろうとして、防衛機構とか積みませんよね?」
「……積まないのか?」
「積みません」
「非常時の自衛機能くらいは」
「いりません!」
博士が本気で納得いかなそうな顔をした。
この人、だめだ。
でも、話は分かった。
女児向けが弱い。
妹のいる私の意見が欲しい。
それ自体は理解できる。
地下六階の研究所で、動くぬいぐるみに囲まれて聞く話ではないけれど。
「……妹に変なものを見せる気はないです」
「当然だ」
博士の声が、そこだけ少し変わった。
「子供に見せるものは、子供が笑うものでなくてはならない」
私は逡巡する。
地下研究所。世界征服。
AIのぬいぐるみ。
全部怪しい。全部おかしい。
でも、地上で子供と遊んでいた店長の顔を思い出す。
転売屋を追い返した時の、低い声を思い出す。
変だ。ものすごく変だ。
でもたぶん、子供を食い物にするタイプの変人ではない。
弟と妹が来る店なら、私がいた方がいい。
止める人間は必要だ。
「分かりました」
言ってから、自分で少し驚いた。
言ってしまった。
いや、でもここで引いたら負けだ。
何に負けるのかは分からないけど、とにかく負けだ。
「働きます。ただし条件があります」
「ほう」
「弟と妹に変なことを吹き込まないこと。危ないおもちゃを近づけないこと。私を実験体にしないこと。あと募集要項に書いてない仕事をするなら、ちゃんと時給とか契約とか、その、そういう大人のやつをきっちりしてください」
「大人のやつ、ね」
「今そこ拾わないでください。私も言いながらふわっとしてる自覚はありますから」
息を吸い、整える。
最後だけは、ちゃんと言わないといけない気がしたから。
「それと、おかしいことをしていたら止めます」
言った。言ってしまった。
私は何者なのだろう。
シータも、デルタも、博士も、こちらを見ている。
やがて博士が、口元を上げた。
「なるほど。君は助手であり、監視役であり、我が暴走を止める者と言うわけだな」
「まあ、そう……なんですかね」
「つまり、魔法少女か」
「違います!」
「魔法女子」
「言い直す場所そこじゃないです!」
「ユズちゃん、魔法少女似合いそう〜、マスコット役は任せて〜」
デルタが肩を揺らして笑っている。
「良かったな、嬢ちゃん。初日から肩書きが増えたぞ」
「いりません。バイトだけでいいです」
「では改めて、よろしく頼むぞ、助手よ!」
「助手じゃなくて、白山です」
可愛らしい「えい」という声とともに、背中からふんわり抱きつかれた。
柔らかい。柔らかいのに、なぜか逃げられない。
「ユズちゃんがいいよ〜」
「シータさんは距離の詰め方が早い」
「オレは嬢ちゃんでいいか」
「デルタさんはもうそれでいいです」
気づけば、少しだけ空気が柔らかくなっていた。
地下六階の研究所で。
動くぬいぐるみ二体と。
世界征服を名乗る白衣の店長に囲まれて。
働くところ、間違えたかもしれない。
そう思った。思ったけれど。
さっき並べたクマの棚。
楽しそうに帰っていった男の子。
妹が「くまさん、ふわふわなの」と笑っていた顔。
弟が文句を言いながらも、この店のおもちゃを持って帰ってきたこと。
全部が、頭の中でつながってしまった。
もう少しだけ見てみよう。
私は小さく息を吐いた。
「ところで博士」
「なんだね、助手よ」
「白山です。この地下研究所、労基的には大丈夫なんですか?」
「問題ない」
「問題ある人ほどそう言うんですよ」
博士はふっと笑った。
シータはニコニコと笑い、デルタは肩をすくめた。
私はため息をついた。
人生初バイトの初日。
私は、世界征服玩具店の地下六階で、世界征服の研究助手に任命された。
時給は高い。
仕事内容は怪しい。
上司は変人。
同僚は動くぬいぐるみ。
労働環境としては、たぶん最悪に近い。
でも。
子供が笑うものを作る。
その一点だけは、少しだけ信用してもいい気がした。
少しだけ。
本当に、少しだけ。
結局、私はこの判断をやや後悔することになるのだが。
それはまた、別の話である。




