第11話 ヒーローは取材中にも走りだす。
魔法少女化計画についてはその後も何度か話題に出た。
私はそのたびに聞こえないふりをした。
ステッキ? 知らない子ですね。
人間には、触れてはいけない記憶というものがある。思い出すたびに心のどこかがきゅっと縮むタイプのやつだ。たとえば小学生の頃に書いたポエムとか、深夜テンションで送ったメッセージとか、勢いで決めたハンドルネームとか。
魔法少女化計画は、私の中でそれらと同じ棚にしまわれた。
鍵もかけた。布もかけた。上に重石も置いた。
なのに、世界征服玩具店では、店長が定期的にその棚を開けようとする。
「白山くん、例の変身ステッキだが――」
「聞こえません」
「まだ何も言っていないぞ」
「単語が聞こえた時点で終了です」
私は店内の棚を拭きながら、全力で耳を閉じた。
人間の耳は便利に閉じられない。けれど心は閉じられる。私はそう信じている。
「ふむ。では変身ピンバッジならどうだ?」
「形状の問題じゃないんですよ!」
店長は鼻の頭まで下がった眼鏡の奥で、実に不満そうに目を細めた。
黒川玩具。世界征服玩具店の店長にして、地下施設の開発者にして、自称Dr.ガングー。今日も白衣の下に妙な英字シャツを着ている。たぶん、また世界征服がどうとか書いてあるのだろう。見たくないので見ない。
「魔法少女という単語が不満なら、商店街防衛型ファンシー戦士という呼称も――」
「より嫌です」
「ファンシーを減らすか」
「そこじゃないです」
店長は腕を組んで唸った。唸らなくていい。もうこの話題は消えてほしい。
その時、私の胸元で小さな電子音が鳴った。
制服の胸につけた、小さなピンバッジ。
丸い土台に、シータとデルタの顔が半分ずつデザインされている。見た目は可愛い。普通に雑貨屋で売っていたら買う人もいそうだ。問題は、これが世界征服玩具店製であるという一点に尽きる。
『ユズちゃん、聞こえる〜?』
ピンバッジから、シータの声がした。
「聞こえます」
『今、魔法少女の話してた?』
「してません」
「していただろう」
「してません」
私は店長の発言を正面から消した。
このピンバッジは、先日店長から支給された通信機器である。θδシリーズとの緊急連絡用、という名目だった。可愛い。便利。軽い。胸元につけていても邪魔にならない。
ただし、シータがいつでも私の耳元で喋れる。
便利とは、時に逃げ道を塞ぐ言葉である。
『今日は店前に出てきてね〜。取材の準備、始まるよ〜』
「取材?」
私は雑巾を持ったまま顔を上げた。
店長が、ふふんと胸を張る。
「そうとも。本日は地域新聞の取材日だ」
「地域新聞」
「商店街の新たな名物、正義のヒーロー活動に密着、というわけだ」
「ヒーロー活動」
魔法少女の次はヒーローである。
この店、肩書きの温度が高すぎる。
私はため息をつき、雑巾を置いた。
「それ、私いります?」
「もちろんだ。白山くんには広報補助を頼む」
「広報補助」
『ユズちゃん、今日はアタシが指示出すから大丈夫だよ〜』
「不安しかないんですが」
『まずは笑顔で、“地域密着型の玩具店です”って言えれば大丈夫〜』
「店名が世界征服玩具店なんですよ」
『地域の範囲を広めに取ればいけるよ〜』
「地域の概念を壊さないでください」
ピンバッジ越しのシータは、いつも通りのんびりしている。のんびりした声で無茶を言うので、余計に怖い。
デルタが店の入口付近からこちらを見た。
「嬢ちゃん、諦めろ。今日はもう外に人が集まってる」
「早いですね」
「地域新聞だけじゃねぇ。商店街の連中も来てる」
「何でですか」
「ヒーローが好きなんだろ」
ざっくりしている。けれど、たぶん間違っていない。
私は店の入口へ向かった。
ガラス戸の向こうに、人だかりが見えた。
子供たちが数人。商店街のおじちゃんおばちゃんが何人か。カメラを提げた女性。メモ帳を持った男性。そしてその中心に、赤と銀を基調にしたヒーロースーツ姿の人物が立っている。
緋村誠一郎さんだった。
少し前に世界征服玩具店を訪れた、博士の昔なじみ。昔からヒーローに憧れて、役者を目指して、うまくいかなくて、それでもどこかで諦めきれていなかった人。
その人が今、商店街の子供たちに囲まれている。
「ヒーロー! ポーズして!」
「この前のやつやって!」
「握手して!」
子供たちの声は遠慮がない。好意が全力で飛んでくる。
緋村さんは少し照れながら、それでも一人ずつきちんと相手をしていた。
「はいはい、順番な。押すと危ないぞ」
声が優しい。
すごい。
ちゃんとヒーローだ。
私はというと、好かれる対象は弟妹くらいで十分だと思っているタイプなので、あの熱量を真正面から受け止められる時点で尊敬に値する。
いや、隼くんはちょっと別枠である。
あれは好意というより、将来的な親族申請だ。
私がそんなことを考えていると、ピンバッジが小さく震えた。
『ユズちゃん、出番だよ〜』
「もうですか」
『記者さんがシータのこと気にしてるから、自然に説明して〜』
「自然に説明できる要素あります?」
店前には、二メートル強の巨大なクマが二体立っている。
ピンクブラウンのシータ。ブルーブラウンのデルタ。
地元では“大きいクマさんの店”として知られているけれど、知らない人からすれば普通に異様だ。しかも喋る。動く。たまに余計なことも言う。
地域新聞の記者らしい女性が、シータを見上げていた。
「こちらの大きなクマさんは、どういう仕組みなんですか?」
来た。
私は営業スマイルを作ろうとして、たぶん失敗した。
「当店独自のマスコット運用システムです」
『ユズちゃん、えらい。さっき教えた通り〜』
「今しゃべらないでください」
記者さんが目を丸くした。
「え、今の声は?」
まずい。
非常にまずい。
私は一秒で判断した。こういう時、深く考えると負ける。
「夢です」
「夢」
「あと店の技術と、私の苦労です」
『ユズちゃんの苦労は入れてないよ〜』
「入ってます」
子供たちがシータを見上げる。
「シータって夢が入ってるの?」
「そうだよ、そうなんだよ」
「夢ってすげー!」
子供は柔軟だった。
記者さんは大人なので、さすがに柔軟ではなかった。困惑している。
私はさらに笑顔を作った。
「地域密着型の玩具店なので」
「ええと、店名は……世界征服玩具店、ですよね?」
「地域の範囲を広めに取っています」
『ユズちゃん、上手〜』
「褒めないでください。今、私の中の常識が一個死にました」
記者さんは困ったように笑い、それからメモを取った。
何を書いたのか非常に気になる。
“店員、常識を失う”とかではないことを祈る。
「では、まず緋村さんの取材から始めさせていただきますね」
「はい、お願いします」
緋村さんが少し背筋を伸ばした。
ヒーロースーツは、初めて見た時よりもずっと様になっている。
赤い胸当て。銀色の肩パーツ。黒いアンダースーツ。手首や足首には、少し玩具っぽい意匠のパーツがついている。いかにも商店街ヒーローという手作り感はあるのに、安っぽくはない。
たぶん店長が本気で作ったからだ。
その証拠に、背中には小さく世界征服玩具店のロゴが入っていた。
広報を忘れない男である。
「商店街ヒーローとして活動を始めたきっかけを教えてください」
記者さんが聞く。
緋村さんは、少しだけ照れた。
「昔から、ヒーローになりたかったんです」
その言葉は、まっすぐだった。
大人がそれを言うのは、たぶん簡単ではない。
私なら三回くらい冗談にして逃げる。たぶん「いやまあ、ノリで」とか「店長に巻き込まれて」とか、そういう言い訳を並べる。
けれど緋村さんは、逃げなかった。
「子供の頃、テレビのヒーローが好きで。困っている人の前に現れて、助けて、笑って去っていく。そういうのに憧れていました」
記者さんは頷きながらメモを取る。
「役者を目指されていたと伺いましたが」
「はい。ヒーローになりたくて、役者を目指しました。まあ、うまくはいかなかったんですけど」
緋村さんは苦笑した。
その横で店長が、何か言いたそうに口を開きかける。
私は先に睨んだ。
店長は少しだけ口を閉じた。
偉い。いや、普通は黙る場面だ。
「でも、この商店街でまたヒーローとして立てる機会をもらいました。だから今は、できることをやっていきたいと思っています」
緋村さんの声は派手ではなかった。
決め台詞のような勢いもない。けれど、ちゃんと届く。
子供たちが静かに聞いている。
さっきまで「ポーズして!」と騒いでいた子たちも、今は緋村さんを見ていた。
すごいなと思った。
子供に好かれるのは、たぶん才能だ。
少なくとも私は、あの人数に囲まれたら三分でレジ裏に逃げる自信がある。弟妹だけで十分。弟は時々面倒くさいし、妹は常に自由だけれど、それでも我が家の範囲ならまだ対応できる。
商店街全域のちびっ子に好かれ、対応する覚悟は私にはない。
「今後の目標はありますか?」
記者さんが続ける。
緋村さんは少し考えた。
「大きなことは言えませんけど、まずは商店街の人たちに覚えてもらって、子供たちが安心できる存在になれたらと思います」
「素敵ですね」
「いえ、まだまだです。スーツにも慣れてきたところで」
そこに店長が割り込んだ。
「そのスーツについては、私が説明しよう!」
来た。
来ると思った。
店長は白衣を翻し、取材の輪に入ってくる。鼻の頭まで下がった眼鏡を指で押し上げ、妙に得意げだ。
「このヒーロースーツは、我が世界征服玩具店の技術を惜しみなく投入した、商店街制圧用――」
「地域貢献用です」
私は即座に訂正した。
「地域貢献用正義装備である!」
「正義装備って言葉もまあまあ怪しいです」
緋村さんが苦笑する。
記者さんは興味深そうにスーツを見た。
「実際に機能があるんですか?」
「もちろんだ」
店長は胸を張った。
「脚部には瞬発補助アクチュエータを搭載。一瞬であれば、常人を大きく超える加速が可能だ。腕部にはパワーアシスト。数馬力相当の出力補助を行える。ただし使用者の姿勢制御が未熟だと転ぶ」
「転ぶんですか」
「転ぶ」
緋村さんが少し恥ずかしそうに言う。
「最初は何度か転んだよ」
「何度かで済んだんですか?」
「店長がマットを敷いてくれていたから」
「安全配慮があるだけで感動するようになってきました」
私は思わずため息をついてしまった。
世界征服玩具店にいると、基準が壊れる。
店長は続ける。
「胸部と背面には衝撃吸収素材を使っている。軽い衝突程度なら受け止められるぞ。商店街では台車、自転車、看板、飛び出す子供など、さまざまな危険が想定されるからな」
「最後の言い方はちょっと嫌ですけど、用途はまともですね」
「まともだとも。ヒーローとは、人を助けるものだからな」
店長がさらっと言った。
私は少し意外だった。
普段、世界征服だの制圧だの言っている人が、こういう時にだけ急にまともなことを言う。
ずるい。
記者さんが目を輝かせる。
「なるほど。見た目だけではなく、本当に人助けを想定したスーツなんですね」
「その通り!」
店長はさらに胸を張った。
「もちろん、必殺技音声も搭載している」
「急に不安要素を足さないでください」
「ヒーローに必殺技音声は必要だろう」
「場合によります」
その時、シータが明るく手を振った。
「緋村くん、子供たちにポーズ見せてあげて〜」
「あ、はい」
緋村さんは少し照れながら、子供たちの方を向いた。
「じゃあ、一回だけな」
「やったー!」
「ヒーロー!」
子供たちは大喜びだ。
緋村さんは片足を引き、片腕を斜めに構えた。商店街のアーケードを背にして、赤と銀のスーツが光を受ける。
少しぎこちない。
でも、そのぎこちなさが逆にいい。
「商店街の平和は、俺が守る!」
声が響いた。
子供たちが歓声を上げる。
私は拍手しながら、素直に感心していた。
恥ずかしい決め台詞を、ちゃんと言える。
それだけでもすごい。
私なら途中で笑って崩れるか、顔を覆ってしゃがむ。
「白山くん」
博士がこちらを見た。
「君も魔法少女として――」
「聞こえません」
「まだ最後まで言っていない」
「聞こえません」
私は拍手の音に紛れて、店長の声を心から締め出した。
その時だった。
カラカラ、と乾いた音がした。
最初は、商店街の雑音に紛れるくらい小さな音だった。シャッターの軋みでも、台車を押す音でも、子供の玩具が転がった音でもありそうな、なんでもない音。
けれど、デルタの顔がわずかに動いた。
ブルーブラウンの巨大なクマが、店先でマスコットのように立ったまま、視線だけを商店街の奥へ向ける。
私もつられてそちらを見た。
八百屋の店先。
木箱をいくつも載せた台車が、ゆっくりと動き出していた。
たぶん、ストッパーが甘かったのだろう。最初は本当に、歩くより遅いくらいの速度だった。けれどアーケードの床は、店先から通路中央に向けてわずかに傾いている。
台車は少しずつ速度を上げる。
その先に、小さな子供がいた。
手から離れた風船を追いかけて、通路の中央へ飛び出している。
「あ」
誰かが声を漏らした。
私も息を飲む。
台車の上には野菜の入った木箱が積まれている。軽くはない。あれが子供にぶつかれば、ただ転ぶだけでは済まない。
デルタの足が、ほんのわずかに動いた。
店前に記者さんがいるとか、子供たちが見ているとか、青年会の人がスマホを構えているとか、そんなことは関係ない。
本当に間に合わないなら、デルタは全部無視して走る。
そういうやつだ。
けれど、その足はすぐに止まった。
緋村さんが、先に動いていた。
決め台詞の余韻も、取材のカメラも、子供たちの歓声も。
全部置いて、走っていた。
『ユズちゃん、デルタは動かないよ』
胸元のピンバッジから、シータの声がした。
いつもの柔らかい声なのに、少しだけ真剣だった。
「……いいんですか」
『うん。緋村くんが間に合う』
その声には、不思議なくらい迷いがなかった。
シータとデルタは見ている。
博士の作ったヒーロースーツの性能も、緋村さんの踏み出した一歩も。
だから、任せたのだ。
二メートル強のクマが人間離れした速度で動けば、それはもう「夢が入ってます」では済まない。
でも、それ以上に。
今この場で走るべきなのは、デルタではなかった。
ヒーローとして取材を受けていた、緋村誠一郎さんだった。
「危ない!」
緋村さんの足元で、スーツの脚部パーツが光る。
低い駆動音。
次の瞬間、緋村さんの体が前に跳ねた。
速い。
明らかに、人の走り方ではなかった。
いや、走ってはいる。ちゃんと自分の足で地面を蹴っている。でも、一歩ごとの伸びが違う。足が地面を掴んで、スーツがその力を前へ押し出しているように見えた。
ヒーロースーツの脚部アクチュエータ。
さっき店長が言っていた、瞬発補助。
説明だけ聞いた時は、いつもの店長製便利すぎ装備だと思っていた。けれど、実際に目の前で発動すると、洒落にならない。
緋村さんは風船を追う子供の横へ滑り込むように入り、片腕でその子を抱き寄せた。
同時に、台車が迫る。
避けきれない。
「緋村さん!」
私は叫んでいた。
緋村さんは子供を自分の胸側に抱え込み、背中を台車の方へ向けた。
赤い背面装甲が光る。
鈍い音が響いた。
台車が緋村さんの背中にぶつかり、木箱が大きく揺れる。
普通なら倒れてもおかしくない衝撃だった。けれど緋村さんは、片膝をついただけで踏みとどまった。
床に靴底が擦れ、短い音を立てる。
スーツの背面が衝撃を吸収していた。
肩甲骨のあたりのパーツが一瞬だけ開き、内部のクッション材のようなものが膨らんで、すぐに戻る。赤と銀のヒーロースーツに、妙に玩具っぽいギミックが走る。
見た目は派手。
でも、機能は本物。
それが今、子供一人を守っていた。
台車は完全には止まりきらず、緋村さんの背中に当たったまま、斜めに流れる。積まれていた木箱が傾いた。
「危なっ!」
近くにいた八百屋のおじさんが慌てて走ってくる。
私も反射的に駆け出した。
記者さんもカメラを下げて動く。
「白山くん、右側だ!」
店長の声が飛んだ。
「分かってます!」
私は落ちかけた木箱に手を伸ばした。
重い。
普通に重い。
これを巨大クマが片手で支える画をさっきまで想像していた自分を殴りたい。そんなことをしたら、商店街どころかネットの向こうまで大騒ぎである。
いや、そもそも今はそれどころじゃない。
「う、わ、重っ……!」
「白山くん、手を離すな!」
「離したら私の足が終わりますよ!」
店長も遅れて駆け寄り、木箱の下に手を入れた。八百屋のおじさんが台車の持ち手を掴む。記者さんが反対側の箱を押さえる。
何人かの大人が集まって、ようやく台車が止まった。
その間も、シータとデルタは店先から動かなかった。
いや、動かなかったように見せていた。
デルタの青い目は、ずっとこちらを見ている。
たぶん、本当に危なければ動いていた。たとえ記者さんがいても、子供たちが見ていても、スマホが回っていても、全部捨てて飛び出していたと思う。
けれど、今回はそうしなかった。
緋村さんが間に合ったから。
私たちが後始末に動けたから。
だから、デルタはマスコットのままでいた。
それが少しだけ、怖くもあり、頼もしくもあった。
「……大丈夫か?」
緋村さんが、自分の腕の中の子供に声をかける。
子供は目を丸くしていた。
何が起きたのか、まだ理解できていないようだった。けれど、次の瞬間、顔がくしゃりと歪む。
「う、うわああああん!」
泣き声が商店街に響いた。
緋村さんは慌てなかった。
膝をついたまま、子供と目線を合わせる。
「うん。怖かったな。でも、もう大丈夫だ」
その声は、さっきの決め台詞よりずっと静かだった。
でも、今の方がずっとヒーローっぽい。
駆け寄ってきた母親らしき女性が、子供を抱きしめる。
「すみません、本当に、ありがとうございます……!」
「いえ。怪我がなくてよかったです」
緋村さんはそう言って笑った。
そのタイミングで、スーツの胸元から電子音声が流れた。
『ヒーローアシスト、正常終了。背面衝撃吸収率八十二パーセント。脚部加速補助、許容範囲内。かっこよさ、測定不能』
「最後の項目何ですか!?」
私は木箱を支えたまま突っ込んだ。
店長が遠くで胸を張る。
「ヒーローにはかっこよさも必要だろう!」
「測定できてないじゃないですか!」
「数値化できないものがある。それもまたヒーローだ」
「急に良いこと風に言わないでください!」
周囲が一瞬静まり、それから拍手が起きた。
最初は小さく。
すぐに大きく。
子供たちも、大人たちも、記者さんも、八百屋のおじさんも、みんなが緋村さんを見ていた。
緋村さんは少しだけ困った顔をしたあと、照れたように片手を上げる。
「えっと……商店街の平和は、守ります」
「決め台詞が後追い!」
私は思わず叫んだ。
でも子供たちは大喜びだった。
「ヒーローすげー!」
「速かった!」
「ドーンって止めた!」
「もう一回やって!」
「もう一回は危ないからやめようね!?」
私は台車から手を離し、息を吐いた。
手がじんじんする。たぶん明日、腕が少し筋肉痛になる。
ピンバッジから、シータの声がした。
『ユズちゃん、風船』
「あ、はい」
私は床に落ちていた風船の紐を拾い、泣き止みかけている子供に差し出した。
「はい。今度は離さないようにね」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
『どういたしまして〜』
「今のありがとうは私宛てです」
『分かってるよ〜』
店先では、シータがいつも通り大きなマスコットとして立っている。動いていない。少なくとも、周りからはそう見える。
その横でデルタも腕を組んだままだった。
けれど、私は見ていた。
デルタの足が一瞬だけ動いて、緋村さんが走ったのを確認してから止まったことを。
本当に危なければ、きっとあの巨大なクマは全部を無視して飛び出していた。
でも今回は、そうしなかった。
緋村さんが間に合ったから。
だから、今この場のヒーローは緋村さんだった。
「……よく動いたな、緋村」
デルタが低く呟いた。
その声は、たぶん私にしか聞こえないくらい小さかった。
褒めている。
デルタなりに。
緋村さん本人には聞こえていなかったようで、子供たちに囲まれながら困ったように笑っている。
でも、それでいい気がした。
たぶん、今日の緋村さんには、子供たちの声だけで十分だった。
---
その後、緋村さんは一度店内に戻された。
スーツの背中には台車がぶつかった跡が残り、膝にも少し擦った跡があった。
店長は背面パーツを確認しながら、満足げに頷く。
「衝撃吸収材は正常に展開。背面フレームにも歪みはない。膝部外装に擦過傷あり」
「人間の膝も確認してください」
「緋村くん、膝は?」
「大丈夫。少し擦っただけです」
「ならば問題ない」
「だから順番」
私は水の入った紙コップを緋村さんに渡した。
「大丈夫ですか?」
「うん。怖いと思う前に走ってた」
「それ、かなりヒーローっぽいですね」
そう言うと、緋村さんは少し照れた。
「昔の俺なら、カメラ映りばかり気にしてたと思う」
「役者として、ですか?」
「うん。でも今日は、そういうの全部忘れてた。あの子が無事でよかったって、それだけだった」
その言い方が、やけに自然だった。
格好いいポーズより先に、足が動く。
決め台詞より先に、手が伸びる。
ああ、なるほど。
この人は、ヒーローになりたかった人じゃない。
ヒーローを、まだ諦めていない人なんだ。
『ユズちゃん、動画伸びてるよ〜』
胸元のピンバッジが震えた。
「動画?」
『青年会の人が投稿したやつ〜』
私はスマホを取り出した。
商店街の公式アカウントに、さっきの救助動画が上がっていた。
『取材中の商店街ヒーロー、普通に助け方がガチだった』
「タイトルがネットに馴染みすぎてる」
『分かりやすいでしょ〜』
動画はもう、商店街の外まで届き始めていた。
コメントもついている。
『普通にかっこいい』
『地方ヒーローってこういうのでいいんだよ』
『スーツのギミックすごくない?』
『後ろのクマ何?』
私は最後のコメントで固まった。
「後ろのクマに気づかれた」
『アタシもバズる?』
「バズらないでください。説明が面倒です」
『夢が入ってるって説明すればいいよ〜』
「全国規模でその説明をする勇気はありません」
緋村さんはスマホの画面を見て、困ったように笑った。
「これ、いいのかな」
「いいんじゃないですか。人助けですし」
「昔の俺なら、こういう反応、すごく欲しかったと思う」
「今はいらないんですか?」
「いや、嬉しいよ。でも、格好よく映ったからじゃなくて……助けられてよかったって思ってる自分が映ってたから、嬉しいのかもしれない」
茶化すには、少しだけ真っ直ぐすぎた。
だから私は、紙コップを片付けながら言った。
「じゃあ、良いバズり方ですね」
「うん。そうだね」
緋村さんは小さく笑った。
その時、店長が勢いよく立ち上がった。
「緋村くん!」
「はい?」
「今こそ商店街ヒーローグッズ展開の時である!」
「グッズですか?」
「変身ベルト、ソフビ、アクションフィギュア、なりきりマスク、必殺技音声つき玩具剣!」
「本業に戻っただけなのに、なぜこんなに不安なんですかね」
「さらに、スーツの脚部アシストを子供用にデフォルメした安全走行シューズ!」
「子供が商店街で爆走する未来が見えます」
「では出力を抑えよう」
「最初からそうしてください」
博士はそこで、なぜか私を見た。
嫌な予感がした。
「そして白山くん。君の魔法少女フォームと緋村くんのヒーローフォームを並べて――」
「聞こえません」
『ステッキも商品化できるよ〜』
「聞こえません」
「ピンバッジ型変身アイテムでも可だ」
「聞こえません!」
デルタがぼそっと言う。
「音は簡単に遮断できないぞ」
「心で遮断してます!」
私は胸元のピンバッジを押さえた。
可愛い。便利。通信もできる。
でも、これが変身アイテムに見えてきたら終わりだ。
絶対に違う。
これは業務用連絡装備である。断じて魔法少女的な何かではない。
ヒーローという言葉は、私には少し重い。
魔法少女なんて、もっと重い。
でも、誰かが危ない時に、考えるより先に走れる人を見てしまうと。
まあ。
ほんの少しだけ。
ヒーローというものも、悪くないのかもしれないと思った。
「白山くん、次は君の番だな!」
「思っただけです! やりません!」
やっぱり前言撤回。
ヒーローは、見るに限る。




